コリント人への手紙 第二
Ⅱコリント13:11-13「祝福・後奏」(礼拝式シリーズ⑪|宣愛師)
・・・・・・祝福の反対は「呪い」です。呪いとは、存在を否定することです。「邪魔だからあっち行って」「あの人さえいなければいいのに」「マジで消えてほしい」―――学校の教室で、職場で、SNSの世界で、そして時には家庭の中でさえ、存在を否定する呪いの言葉が飛び交うのです。……だからこそ私たちには、「あなたがいてくれて嬉しい」という祝福が必要なのです。祝福とは、単なるきれい事ではありません。いのちに関わる一大事です。生きるべきか死ぬべきか。生まれてきて本当に良かったのか・・・・・
Ⅱコリント9:6-15「献金・感謝祈祷」(礼拝式シリーズ⑦|宣愛師)
・・・・・・「ありがとう」の対義語は何か、という話を聞いたことがあります。「ありがとう」の対義語は「あたりまえ」だと。仕事に行けて当たり前。家族や友達がいて当たり前。学校に行けて当たり前。暖かい布団で眠れて当たり前。でも、それが決して当たり前ではないと気づく。以前、あるカルト宗教の被害にあった方のお話を聞きました。その人はやっとの思いでそこから抜け出したのだけれども、「神様を裏切った自分は地獄に落とされる」という恐怖で悪夢にうなされ続ける。私はその人の話を聞いて、「神様に愛されている」「十字架によって赦されている」と安心して生きられることが、全く「あたりまえ」ではないと知りました・・・・・
Ⅱコリント12:1-10「弱いときにこそ強い」(「弱さ」シリーズ②|宣愛師)
・・・・・・「大使徒」たちには救えないいのちがあります。「繁栄の神学」には癒せないたましいがあります。「弱さ」があるから、私たちは愛という「強さ」を手にするのです。「弱さ」があるから、私たちはイエス様の十字架に近づき、イエス様のような愛の人、愛の教会として歩むことができるのです。「この弱さを取り去ってください」と祈るのではなく、「この弱さを用いてください」と、感謝して祈ることができるのです・・・・・
Ⅱコリント8:1-15「聖徒の交わり」(使徒信条㉑|宣愛師)
・・・・・・あるクリスチャンの女性が、こんな風に話しておられたことを思い出します。「いつか私がいなくなって、息子が一人になってしまった時、息子と一緒に生きてくれる教会を探しているんです」―――この切実な願いに応えられる教会でありたいと思います。ともに食卓を囲める仲間がいます。いつでも悩みを相談できる仲間たちがいます。学校や仕事に行けない日があれば、平日だって教会に来れます。牧師や伝道師はもちろんのこと、助けが必要な時にはいつでも駆けつけてくれる仲間たちがここにいます。この「聖徒の交わり」がある限り、私たちは生きていけるのです・・・・・




