マルコの福音書

聖書の説教
マルコ7:1-23「人間の言い伝え」

・・・・・・モーガン・スコット・ペックというアメリカの有名な精神科医が、『平気でうそをつく人たち』というベストセラーを書いています。この本の中でペック博士が論じているのは、「“邪悪な人間”とはどういう人間か」ということです。みなさんはどう思いますか? “邪悪な人間”というのは、どのような特徴を持っていると思いますか? ペック博士は次のように指摘します・・・・・・

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聖書の説教
マルコ6:45-56「パンのことを理解せず」

・・・・・・すると、その教会の主任牧師が言いました。「ゆっくりとこちらにやって来るあの老婦人がお分かりでしょう。彼女はこの教会でもっとも重要な会員です。大変裕福な女性で、教会の働きの最大の支持者です。」……そこでロイドジョンズ牧師は、その婦人に挨拶をしました。するとその婦人はこう言ったそうです。「夜の礼拝では、クリスチャンではない人向けの説教をされるんですね。それでは、私は夜に来ます。」・・・・・・

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聖書の説教
マルコ6:30-44「パンはいくつありますか」

・・・・・・「彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので」とあります。羊飼いのいない羊の群れ。凶暴な狼が襲ってくるのに、守ってくれる羊飼いがいない。お腹が空いてペコペコなのに、青草がある場所に連れて行ってくれる羊飼いがいない。自分たちが進むべき道も、帰るべき場所も、羊飼いがいなければわからない。路頭に迷ってしまって、「イエス様、私たちはどうやって生きていけばいいんですか」と、必死に求める・・・・・・

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聖書の説教
マルコ6:14-29「ヨハネが備えた道」

・・・・・・私たちはこのヨハネの人生を、どのように評価すべきでしょうか? 三通りの可能性があると思います。第一の可能性は、〈ヨハネはイエス様の道を備えることができず、無残に殺されてしまった。〉第二の可能性は、〈ヨハネはイエス様の道を備えることができたが、最後は殺されてしまった。〉そして第三の可能性は、〈ヨハネはイエス様の道を備えることができ、最後に殺されることによって、その道を完全に備えた。〉・・・・・・

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マルコ6:6b-13「下着は二枚着ないように」

・・・・・・先週の月曜日に起こった「トルコ・シリア地震」では、すでに亡くなった方が3万人に近づいていると報道されています。多くの団体が寄付金を募っています。今のところ、教会として特定の団体への寄付を案内することはしていませんけれども、私たちは今まさに、「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい」という聖書の語りかけに向き合わされています・・・・・・

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聖書の説教
マルコ6:1-6a「この人は大工ではないか」

・・・・・・小学生や中学生のみんなにもぜひ聞いてみたい。みんなのお父さんやお母さん、もしくは教会の大人たちは、みんなにはどんな風に見えているでしょうか? もしかしたらみんなは、「教会の人たちは、めちゃめちゃ素晴らしい人たちだ!」とは思っていないかもしれません。むしろ、「普通の人たちだなあ」と思っているかもしれません。教会の大人たちがあまりにも普通の人すぎて、「この人たちが信じている宗教が本当に本物なの?」と思うこともあるかもしれません・・・・・・

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マルコ5:21-24, 35-43「少女よ、起きなさい」

・・・・・・『SLAM DUNK』というバスケットボールの漫画に、「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という名台詞が出て来ます。私も昔から大好きな漫画なので、この言葉は小さい頃からよく覚えています。たしかに、スポーツだったら、「あきらめたらそこで試合終了」かもしれません。でも、イエス様を信じる生き方というのは、「あきらめたら終わり」ではないんです・・・・・・

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マルコ5:25-34「娘よ、安心して行きなさい」

・・・・・・しかし、“信仰によって救われる”とは、どういうことなのでしょうか? “神様の恵みによって救われる”とは、どういうことなのでしょうか? 「イエス様を信じたら救ってもらえた」というだけで終わるものなのでしょうか?「イエス様にお祈りしたら病気が治った」で終わってしまうものなのでしょうか?・・・・・・

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マルコ5:1-20「どんなに大きなことを」

・・・・・・人から受けた暴力が、自分の中の悪霊となる、ということがあります。人から受ける暴力と、自分から出てくる暴力。この二つは切り離せません。……「レギオン」の暴力によってボロボロにされた彼の人生は、今や彼自身の「レギオン」によって支配されていました・・・・・・

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マルコ4:35-41「どうして怖がるのですか」

・・・・・・私たちクリスチャンも、「無事」という言葉をよく使うと思います。「〇〇礼拝が無事に行われますように」とか、「子どもたちが無事に成長しますように」など、「無事」を祈ることがよくあります。しかし、果たして私たちの祈りは、「無事」を祈る祈りでいいのでしょうか?・・・・・・

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