使徒信条
ヨハネ19:1-16a「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」(使徒信条⑨|宣愛師)新着!!
・・・・・・数ヶ月前のことですが、「今度から日曜礼拝で使徒信条の説教シリーズを始めるんだよ」という話をしたら、Hくんから、「使徒信条の中になぜピラトの名前が入っているのかについても、ぜひ取り扱ってほしいです」と言われました。「なんだかピラトがかわいそうで」という話にもなりました。たしかに、キリストを十字架につけて殺した人物として、世界中の教会でその名前が呼ばれ続けるなんて、やっぱりかわいそうだという気がします。しかし、そんな風に考える私たちは、どこかでこのピラトという人を、自分とは無関係の、他人事だと思っているのかもしれません・・・・・・
ルカ1:26-38「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」(使徒信条⑧|宣愛師)
・・・・・・“キリストの処女懐胎”が疑われている理由は、大きく分けて三つあります。まず第一に、「処女が妊娠するなんて科学的にあり得ない」と主張する人たちがいます。現代人の多くはこの立場に立つでしょう。その一方で、科学的な観点とは全く別の理由から、イエス様の“処女懐胎”を否定する人たちもいました。彼らは、「イエスのような貧しい人間に奇跡的な誕生は相応しくない」と主張します。そしてさらに別の観点から、イエス様の“処女懐胎”を疑う人々もいました。彼らは、「聖なる神の御子が物質的肉体を持つはずがない」と主張しました。本日は、これら三つの主張に順番に答えながら、この信仰告白に込められた意味をご一緒に味わいたいと思っています・・・・・・
ルカ4:16-30「キリスト」(使徒信条⑦|宣愛師)
・・・・・・もっと正確に言うならば、「キリスト者」になるために唯一必要な条件は、“あなたが受け入れたくない人も受け入れてしまうキリスト”を受け入れること、これだけです。どうしてキリスト教が、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」という、あまりにも単純すぎることを教えているのか、お分かりいただけると思います。「われはイエス・キリストを信ず」と告白するだけ。このあまりにも単純なことが、自己中心で排他的な私たちにはあまりにも難しいのです。しかし、このたった一つの信仰だけで、私たちの全ての罪は赦され、神の民の一員として迎え入れていただけるのです・・・・・・
マタイ1:20-25「イエス」(使徒信条⑥|宣愛師)
・・・・・・そしてその時私たちは、「イエス」と「インマヌエル」という二つのお名前が、ひとりの救い主を指し示している、ということの意味に気づき始めるのだと思います。“罪から救う”ということと、“神がともにいる”ということが、別々の事柄ではなく、一つの事柄であることに気づき始めるのです。そしてそれは、イエス様が私たちのためにしてくださったことであり、私たちが隣人のためにできる最善のことでもあるのだと思います・・・・・・
第一コリント8:4-6「われらの主」(使徒信条⑤|宣愛師)
・・・・・・使徒信条の学びも五回目となります。本日は、「われらの主イエス・キリストを信ず」という信仰告白について、特に「われらの主」という言葉について、ご一緒に学びたいと思います。そしてそれと同時に、「宗教は自由を与えるのか、それとも、ある種の制約や義務を伴うものなのか?」というこの問いについても、聖書を通して考える機会となればと思います・・・・・・
ヨハネ1:18「そのひとり子」(使徒信条④|宣愛師)
・・・・・・ある人は、「使徒信条はここから、ユダヤ教やイスラム教と袂を分かつことになる」と語りました。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、この天地をお造りになった全能の神を信じている。そういう意味では、同じ神を信じていると言うこともできます。しかし私たちキリスト教徒が、使徒信条の第一部から第二部に進んで、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白する瞬間、ユダヤ教徒やイスラム教徒とは違う仕方で、神を信じるということになる・・・・・・
マルコ14:36「全能の父なる神」(使徒信条③|宣愛師)
・・・・・・「なぜ、“母なる神”ではなく“父なる神”でなければならないのか。神を“父”と呼ぶことによって、男女差別や男尊女卑が助長されてしまうのではないか。神を“父”と呼ぶことは、家族の中で一番偉いのは父親だという、家父長主義の負の遺産ではないのか。」たしかに、聖書が書かれた時代というのは、女よりも男のほうが偉いと言われる時代、そして家族の中で一番偉いのは父親だ、と言われる時代でした。しかし聖書が神を「父なる神」と呼ぶのは、男尊女卑の影響を受けたからでも、家父長主義を大切にしているからでもありません。むしろその逆です・・・・・・
創世記1:31「天地の造り主」(使徒信条②|宣愛師)
・・・・・・現代社会、特にこの日本という国では、「天地の造り主」を信じる人は多くありません。神が造ったのではなく、ビッグバンという大爆発によって始まったのだ。そして星たちが誕生し、太陽が誕生し、地球が誕生し、そこに生物が誕生し、豊かな自然が育まれ、やがて人間が誕生したのだと、学校の教科書に書かれています。しかし、教科書があまり真面目に取り扱おうとしない問いがあります。それは、「ビッグバンの前には何があったのか?」という問いです・・・・・・
ローマ10:1-11「われは信ず」(使徒信条①|宣愛師)
・・・・・・ローマ帝国の人々は皆、「カエサルこそが主である。カエサルこそがこの世界に真の平和をもたらす」と信じていました。それ以外の考えは許されない社会でした。そのような世界の中にあって、「私は、カエサルではなく、イエス・キリストが主であると信じる」と告白するのです。「われは信ず」という告白は、ローマ帝国という大きな「私たち」の中から、一人「私」という存在が一歩外に出て、新しい世界に飛び込むということを意味していました・・・・・・