宣愛師

聖書の説教
使徒1:9「天に昇り」(使徒信条⑯|宣愛師)

・・・・・・せっかく目に見えるようになってくださった神様が、また天に帰ってしまわれた。人々が手で触れることのできるイエス様が、また手の届かない場所に行ってしまわれた。マタイの福音書の最後の部分を見てみると、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(28:20)とイエス様は約束してくださいました。それなのに、はるか遠くにある天に帰ってしまわれた。「いつもあなたがたとともにいます」というイエス様のことばは、不安そうな弟子たちを励ますためのリップサービスに過ぎなかったのでしょうか・・・・・

続きを読む
聖書の説教
マタイ28:1-10「死人のうちよりよみがえり」(使徒信条⑮|宣愛師)

・・・・・・週の初めの日の明け方、すなわち日曜日の朝、二人のマリアが墓を見に行きました。愛するイエス様の遺体が納められた墓です。墓の入り口は固く閉ざされていました。彼女たちの心も悲しみの中で塞ぎ込んでいました。私たちも週の初めの日、日曜日の朝、こうして教会に集まっています。日曜日の朝、私たちも不安と失意の中にあるかもしれません。昨日までの一週間、色々な出来事があった。体調を崩したり、人間関係に疲れたり、悩みに押しつぶされそうになったりして、沈んだ心のままで、塞ぎ込んだ心のままで、日曜日の朝を迎えた私たちかもしれません。しかし、この日曜日の朝、週の初めの日の朝、私たちの塞ぎ込んだ心に光が差し込むような、特別なことが起こるのです・・・・・

続きを読む
聖書の説教
マタイ27:62-66「三日目に」(使徒信条⑭|宣愛師)

・・・・・・彼らは、「三日目まで墓の番をするように」と頼みました。「わたしは三日後(三日目)によみがえる」と、イエス様が宣言していたからです。弟子たちが遺体を盗んで嘘をつき始めるかもしれないからです。「三日目まで」墓を守り切ることができれば、彼らの勝利だと言うこともできます。古い世界の勝利、新しい世界の敗北です。「三日目」が勝負の分かれ目でした・・・・・・

続きを読む
聖書の説教
第一ペテロ3:13-22「よみにくだり」(使徒信条⑬|宣愛師)

・・・・・・ジョット・ディ・ボンドーネ(1266-1337年)というイタリアの画家が描いた、「最後の審判」と呼ばれる壁画があります。 地獄を描いたこの壁画では、悪魔たちが様々な手段で人間たちを苦しめています。……教育効果という意味では、こういう絵画にも一定の意義があるのかもしれません。ただ私は昔から、こういう絵を観るたびに違和感を覚えていました。どうしてこの悪魔たちは、自分たちも地獄に落とされているのに、活き活きと動き回っているのだろうか。命の世界で私たちを苦しめる悪魔たちは、死後の世界でも私たちを苦しめ続けるのだろうか。結局のところ、死後の世界を支配しているのは、神様ではなく悪魔だということなのだろうか・・・・・・

続きを読む
聖書の説教
ローマ6:1-11「死にて葬られ」(使徒信条⑫|宣愛師)

・・・・・・ところが私たちキリスト者自身は、バプテスマを受けたにもかかわらず、自分自身のうちに罪が残り続けていることを知っています。バプテスマを受けて、クリスチャンになったはずなのに、相変わらず怒りっぽい自分。怠け者の自分。自己中心な自分。もちろん、神様が赦してくださることは知っています。しかしだからこそ、いつの間にか神様の赦しに甘えてしまい、罪を犯し続けてしまう。神様の赦しに甘えて罪を犯し続けるけれども、「いつか神様に見捨てられてしまうのではないか」という不安もないわけではない。そんな私たちキリスト者の現実について記されているのが、本日開かれているローマ人への手紙の第6章だと言えます。まずは1節から4節をお読みします・・・・・・

続きを読む
聖書の説教
使徒2:1-13「いろいろなことばで」(宣愛師)

・・・・・・神様がお望みになった世界は、一つの言語や民族や文化によって支配されるような、画一的な世界ではありませんでした。神様がアダムとエバにお命じになったのは、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1:28)というご命令でした。創世記の10章には、神様のご命令通りに、多くの民族が世界中に広がっていく様子が記録されています。しかしバベルの人々は、そのように広がった民族や文化を、「一つの話しことば」によって支配し、一つの民族の中に閉じ込めようとします。これがバベルの人々の罪であり、やがてこの地に再び現れる、大バビロン帝国の罪でした・・・・・・

続きを読む
聖書の説教
ガラテヤ3:13-14「十字架につけられ(2)」(使徒信条⑪|宣愛師)

・・・・・・私たち一人一人も同じだと思います。“黒歴史”があります。誰にも言えないような失敗や罪があります。なかったことにすることはできません。でも、なかったことにする必要もありません。聖書の中には今でも、イスラエルの黒歴史がたくさん残っています。アブラハムやモーセやダビデやペテロやパウロの黒歴史もしっかり書かれています。でも、それもぜんぶ含めて聖書です。それも含めて私たちの人生です。その恥ずかしさも、その情けなさも、全部ひっくるめて、イエス様が背負ってくださったのです・・・・・・

続きを読む
聖書の説教
ピリピ2:1-11「十字架につけられ(1)」(使徒信条⑩|宣愛師)

・・・・・・私たちがこれまで学んできた使徒信条は、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白した後で、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白します。そしてその続きでは、このキリストが「十字架につけられ」て死んだ、と告白するのです。冷静に考えればおかしな話です。……全能の神の子であるはずのお方が、人間たちの力に敗北したというのです。なぜでしょうか。イエス様は本当は神の子でもなんでもない、ただの弱い人間に過ぎなかった、ということなのでしょうか・・・・・・

続きを読む
聖書の説教
ヨハネ19:1-16a「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」(使徒信条⑨|宣愛師)

・・・・・・数ヶ月前のことですが、「今度から日曜礼拝で使徒信条の説教シリーズを始めるんだよ」という話をしたら、Hくんから、「使徒信条の中になぜピラトの名前が入っているのかについても、ぜひ取り扱ってほしいです」と言われました。「なんだかピラトがかわいそうで」という話にもなりました。たしかに、キリストを十字架につけて殺した人物として、世界中の教会でその名前が呼ばれ続けるなんて、やっぱりかわいそうだという気がします。しかし、そんな風に考える私たちは、どこかでこのピラトという人を、自分とは無関係の、他人事だと思っているのかもしれません・・・・・・

続きを読む
聖書の説教
ルカ1:26-38「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」(使徒信条⑧|宣愛師)

・・・・・・“キリストの処女懐胎”が疑われている理由は、大きく分けて三つあります。まず第一に、「処女が妊娠するなんて科学的にあり得ない」と主張する人たちがいます。現代人の多くはこの立場に立つでしょう。その一方で、科学的な観点とは全く別の理由から、イエス様の“処女懐胎”を否定する人たちもいました。彼らは、「イエスのような貧しい人間に奇跡的な誕生は相応しくない」と主張します。そしてさらに別の観点から、イエス様の“処女懐胎”を疑う人々もいました。彼らは、「聖なる神の御子が物質的肉体を持つはずがない」と主張しました。本日は、これら三つの主張に順番に答えながら、この信仰告白に込められた意味をご一緒に味わいたいと思っています・・・・・・

続きを読む