「弱さ」シリーズ
Ⅱ列王記5:8-14「幼子のからだのように」(「弱さ」シリーズ⑧|宣愛師)新着!!
・・・・・・ナアマンは、自分の病気が治るためには「難しいこと」が必要だと思っていました。「一ヶ月断食しなさい」とか、「幻のキノコを見つけてきなさい」とか、そういう「難しいこと」が必要だと思っていました。そして、そういう「難しいこと」が自分にはできると思っていました。ところが預言者に言われたのは、「あそこにある川で体を洗ってきなさい」だけ。「そんなこと誰にでもできるじゃないか!」―――しかし、それこそがナアマンに必要なことでした・・・・・
ヤコブ5:13-16「弱さを祈ってもらえる強さ」(「弱さ」シリーズ⑦|宣愛師)
・・・・・・誰かの罪のために一緒に祈ったことはあるでしょうか。もし私たちにそのような経験が少ないとすれば、それはなぜでしょうか。なぜ私たちは、誰かの罪の告白を聞くことが少ないのでしょうか。私たちの家族はなぜ、私たちの友人はなぜ、日常のちょっとした困りごとなら相談してくれるのに、人生の根本的な問題である罪については相談してくれないのでしょうか。それは、私たち自身が、自分の罪を告白せずにやり過ごそうとしてきたからかもしれません・・・・・
Ⅰペテロ3:7「弱さを理解する人の祈り」(「弱さ」シリーズ⑥|宣愛師)
・・・・・・先日、妻が困った顔でスマホの画面を見せてきて、「この人にどう返事したらいいかな?」と相談してきました。ただ、その時の私は体調があまり良くなく、バイブルスタディの準備もしなければならなかったので、「自分で考えたらいいんじゃない?」と冷たく対応してしまいました。別の部屋に移動した私は、「神さま、このあとのバイブルスタディでどう語るべきか教えてください」と祈りました。そこではっと気付かされたのは、「妻の願いを聞こうとしない自分の祈りを、神さまが聞いてくださるはずがない」ということでした・・・・・
創世記21:1-7「弱さを笑いに変える神」(「弱さ」シリーズ⑤|宣愛師)
・・・・・・「笑い」のメカニズムにいくつか種類があるのと同じように、「笑い」そのものにも色々な種類があります。「微笑み」のような温かい笑いもあれば、人を馬鹿にするような「嘲笑い」「嘲笑」という笑いもあります。冷たく笑うと書いて「冷笑」もあります。アブラハムとサラの場合、彼らの「笑い」はどういう笑いだったかと言うと、神さまを馬鹿にするような「嘲笑」「冷笑」でした・・・・・
ヨハネ21:15-17「人の弱さを愛の強さに」(「弱さ」シリーズ④|宣愛師)
・・・・・・新しいクラス、新しい職場、新しい環境の中で、「うまくやっていけそうだ」と楽観的な私たちかもしれません。もしくは、「うまく馴染めなかったらどうしよう」「何か失敗をやらかしてしまったらどうしよう」と悲観的になっている私たちかもしれません。ある有名な神学者が、インタビューの中でこんな質問をされたそうです。「キリスト教の将来について、あなたは楽観的ですか、それとも悲観的ですか。」すると、その神学者は次のように答えました。「私は楽観的でも悲観的でもありません。イエス・キリストはよみがえられました!」・・・・・
Ⅰコリント1:18-25「神の弱さは人よりも強い」(「弱さ」シリーズ③|宣愛師)
・・・・・・ニーチェはこう考えました。キリスト教では“敵を赦すこと”を教えている。しかし、彼らは本当は敵を赦そうとしているのではない。彼らは、自分よりも強い人間に反撃する力がないから、仕方なく赦したことにしているだけだ。心の奥底では、『いつか神様があいつらを地獄に落としてくださる』と復讐心に燃えているのだ。キリスト教は、「弱さ」を善とみなし、「強さ」を悪とみなす“奴隷道徳”の上に成り立っている。本当は人間はもっと強くならなければならないのに、キリスト教は人々を堕落させ、弱いままで満足させ、社会を腐らせる諸悪の根源なのだ、と・・・・・
Ⅱコリント12:1-10「弱いときにこそ強い」(「弱さ」シリーズ②|宣愛師)
・・・・・・「大使徒」たちには救えないいのちがあります。「繁栄の神学」には癒せないたましいがあります。「弱さ」があるから、私たちは愛という「強さ」を手にするのです。「弱さ」があるから、私たちはイエス様の十字架に近づき、イエス様のような愛の人、愛の教会として歩むことができるのです。「この弱さを取り去ってください」と祈るのではなく、「この弱さを用いてください」と、感謝して祈ることができるのです・・・・・
Ⅰコリント12:17-27「弱さがつなぐキリストのからだ」(「弱さ」シリーズ①|宣愛師)
・・・・・・もし教会が、“計画通りにプログラムを進めること”を理想とするなら、じっとしていることが苦手な人たちや、衝動的に動く人たちは「困った人たち」に見えてしまうかもしれません。でも、もし教会に“計画通りに動く人”しかいないとしたらどうでしょうか。計画通りでないと許されない。計画したこと以外のことはできない。形式主義、マニュアル主義、冷たく硬直化した教会になってしまうかもしれません。そんな教会を、もっと自由でのびのびとした教会にしてくれるのが、一般的には「ほかより弱く見える」人たちなのかもしれません・・・・・








