マルコの福音書

聖書の説教
マルコ13:1-2「崩れ去る神殿」(宣愛師)新着!!

・・・・・・私たちはどうしても、崩れないもののほうが良いと思い込んでしまうでしょう。崩れないものを積み上げて、人生を確かなものにしていこう、と考えるものです。「人生のキャリアを積み上げる」という表現が使われることもあります。「お金をこつこつ積み立てましょう」と言われることもあるでしょう。勉強も、「こつこつ積み上げていかないとすぐに他の人に置いていかれる」などと言われて、私たちは焦ってしまうものです。……しかし神様は、「崩れたっていいじゃないか」と仰るんです。「崩れないようなものを作らなくていいじゃないか」と仰るんです・・・・・・

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聖書の説教
吉持尽主師「イエスを見る」(マルコ8:10-21)

※本日の日曜礼拝では、山形恵みキリスト教会の吉持尽主(よしもちつくす)先生が、録画を通してご奉仕くださいました。

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聖書の説教
マルコ12:35-44「やもめを見ている神」(宣愛師)

・・・・・・「あなたはいくらの献金を、何のために捧げるのか。」「レプタ二枚を、神様への感謝のために」と、彼女は答える。周りの金持ちたちの献金によって、ラッパが大きな音を響かせる中で、「レプタ二枚」と答えることは、恥ずかしいことだったでしょう。惨めだったでしょう。祭司たちも心の中で「たったの125円か。それが何の役に立つのだ。何の足しにもならない」と馬鹿にしたかもしれません。……しかし、私たちが注目すべきことは、たった二枚のレプタしか献げられないとしても、それでもこのやもめが、礼拝をするために神殿に来た、ということだと思います・・・・・・

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聖書の説教
マルコ12:28-34「礼拝している場合なのか」(宣愛師)

・・・・・・「別に神様なんて信じなくても、隣人を愛することくらいできるさ」と言う人もいるでしょう。そして実際に、そういう人たちがいます。クリスチャンでなくても、神様を信じていなくても、困っている人たちのために見返りも求めず働き続けるような、素晴らしい人たちがいます。そういう人たちからすれば、毎週日曜日に礼拝に集まるクリスチャンを見て、「賛美歌なんて歌っている暇があったら、ボランティアでもしたらどうですか」と思われても仕方がないかもしれません・・・・・・

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マルコ12:18-27「生きている者の神」(宣愛師)

・・・・・・聖書とは何でしょうか。聖書には何が書かれているのでしょうか。もちろん聖書には、色々と細かいルールも書かれています。上手に生きていくための知恵も書かれています。しかし究極的には、聖書において語られているのはたった一つのことです。それは、“死すべき人間と永遠の契約を結ばれた神”のことです・・・・・・

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マルコ12:13-17「神に返しなさい」(宣愛師)

・・・・・・「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」このイエス様の言葉は、聖書の中でも最も有名な言葉の一つです。ところがこの言葉は、最も有名な言葉であると同時に、最も間違って解釈されている言葉でもあるようです。インターネットで調べてみましたら、この言葉の説明として、「物質への興味と精神への興味とは別物だ」というような考え方が紹介されていました。物質世界はカエサルの領域で、精神世界は神様の領域だ、というわけです・・・・・・

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マルコ12:1-12「愚かな主人の愛」(宣愛師)

・・・・・・しかし、このたとえ話の中で最も愚かだったのは、この農夫たちではないと思うんです。たしかに、遣わされてきたしもべたちを殺し続け、最後には息子さえも殺してしまった、この農夫たちの愚かさは常軌を逸しています。ところが、この農夫たち以上に愚かであったのは、むしろこの主人ではないでしょうか・・・・・・

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マルコ11:27-33「わたしに答えなさい」(宣愛師)

・・・・・・「キリストが復活したというのは、弟子たちの作り話じゃないのか?」「この世界を神が造ったとは本当だろうか?」「神がいるなら、なぜこの世界にはこんなにも苦しみが多いのだろうか?」……もちろん、疑問を持つことは悪いことではありません。むしろ、あまり深く考えずに信じてしまうよりは、疑問から逃げずにしっかり悩んだ上で慎重に信じたほうが良いと思います。そのほうが確かな信仰になると思います。ただし、そこで私たちが注意すべきことは、一方的に疑問をぶつける権利が、私たち人間の方にあると思い込んでしまうことです・・・・・・

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マルコ11:20-25「恨んでいることがあるなら」(宣愛師)

・・・・・・キリスト教会では「除夜の鐘」は突きませんし、鐘の音を聞くことによって煩悩が清められるとは考えません。でも、「一年の最後に心を清めたい」「綺麗な心で新しい年を迎えたい」という思いは、私たちも同じだと思います。新年を迎えようとしている私たちの心は、きよめられているでしょうか。それとも、煩悩が、欲望が、罪の汚れが、心の奥底にこびりついているでしょうか。大晦日を迎えた今、「除夜の鐘」が目指している心の清めを、私たちも求めたいと思います・・・・・・

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マルコ11:12-19「実を結ばなかった都」(宣愛師)

・・・・・・しかも、「葉の茂ったいちじくの木」ですから、他のいちじくの木よりも、実をつけている可能性が高い。お腹を空かせたイエス様は、青くて未熟な実でもいいから、せめてなにか一つくらい実がないだろうかと、見に行ったわけです。ところが、何も見つからない。葉っぱしか見つからない。立派そうな葉をたくさん茂らせて、遠くから見れば、いかにも何かしらの実をつけていそうな雰囲気だったのに、近くまで来てみると、何一つ見つかりやしない。これがイエス様をがっかりさせました・・・・・・

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