週報コラム
No.206【「全ての書物を読み切った」?】新着!!

◆“歴史上の天才”について調べていると時々、「彼は当時存在した全ての書物を読み切った」みたいな逸話が出てきて、「それはさすがに嘘でしょ」とツッコみたくなることがあります。でも、印刷技術が発展する前の世界であれば、そういう […]

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聖書の説教
ルカ10:38-42「黙想」(礼拝式シリーズ⑫|宣愛師)新着!!

・・・・・・もともとはマルタも、妹がイエス様の話を聞くことを喜んでいたのではないかと思います。イエス様の弟子となった妹の姿を見て、「すごい、これが神の国なんだ」とワクワクしていたのだと思います。「神の国では、女性が差別されることもない。身分の低い人が蔑まれるようなこともない。こんなにすばらしい神の国のために、私も何かお手伝いがしたい。」……しかし、最初は喜んでおもてなしの準備をしていたマルタも、忙しさの中で、慌ただしさの中で、次第に苛立ちが募ってくるのです。そしてついに、イエス様に文句を言ってしまう・・・・・

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週報コラム
No.205【新しい礼拝プログラム】

◆今日から新しいプログラムでの日曜礼拝が始まります。“じっと座っているのがちょっと苦手な人でも喜んで参加できる礼拝”を目指して、以前よりもスリムな式次第になりました。慣れない形式に戸惑う方もいるかもしれません。お互いの得 […]

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聖書の説教
コロサイ3:12-17「キリストのことばが住むために」(宣愛師)

・・・・・・しかしキリスト教会といえど、「キリストのことば」ではない何かが中心になってしまうことがあるのです。それをパウロはこの手紙の2章8節で、「人間の言い伝え」と呼んでいます。……たとえば当時のコロサイ教会には、「割礼を受けたユダヤ人でなければ、本物のクリスチャンにはなれない」という教えが入り込もうとしていました。イエス様の教えとは異なる価値観によって、優れているとか劣っているとか決めようとするのです。現代の教会にも、「タバコを吸う人はクリスチャンに相応しくない」とか、「金髪の人はクリスチャンっぽくない」というような「人間の言い伝え」が入り込むことがあるかもしれません・・・・・

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週報コラム
No.204【『思春期』と『復活』から:小グループ活動の開始】

◆先週の教会ミーティングを経て、「小グループ活動」が試験的に始まることになりました。まなか先生がリードをする木曜朝のグループでは、『若者は朝露のように:思春期の子どもとともに成長する』の読書会を検討しているそうです。子育 […]

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聖書の説教
ヨハネ21:15-17「人の弱さを愛の強さに」(「弱さ」シリーズ④|宣愛師)

・・・・・・新しいクラス、新しい職場、新しい環境の中で、「うまくやっていけそうだ」と楽観的な私たちかもしれません。もしくは、「うまく馴染めなかったらどうしよう」「何か失敗をやらかしてしまったらどうしよう」と悲観的になっている私たちかもしれません。ある有名な神学者が、インタビューの中でこんな質問をされたそうです。「キリスト教の将来について、あなたは楽観的ですか、それとも悲観的ですか。」すると、その神学者は次のように答えました。「私は楽観的でも悲観的でもありません。イエス・キリストはよみがえられました!」・・・・・

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週報コラム
No.203【受難週の謎】

◆主イエスの十字架の歩みを覚える“受難週”が始まりました。子ろばに乗ってエルサレムに入城された“棕櫚の日曜日”から始まり、神殿で商売人たちを追い出した“宮きよめ”の月曜日、世の終わりについて予告した“オリーブ山講話”の火 […]

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聖書の説教
Ⅱコリント13:11-13「祝福・後奏」(礼拝式シリーズ⑪|宣愛師)

・・・・・・祝福の反対は「呪い」です。呪いとは、存在を否定することです。「邪魔だからあっち行って」「あの人さえいなければいいのに」「マジで消えてほしい」―――学校の教室で、職場で、SNSの世界で、そして時には家庭の中でさえ、存在を否定する呪いの言葉が飛び交うのです。……だからこそ私たちには、「あなたがいてくれて嬉しい」という祝福が必要なのです。祝福とは、単なるきれい事ではありません。いのちに関わる一大事です。生きるべきか死ぬべきか。生まれてきて本当に良かったのか・・・・・

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週報コラム
No.202【「筋トレし始めたらなんとかなったよ!」】

◆教団総会のために東京へ。長時間の会議は大変でしたが、前日にマッチさんと会ったり、総会の休憩時間にフーミンとお喋りしたりと、楽しい二泊三日でした。神学校の友人たちと両国のマクドナルドで語り合った際は、それぞれの教会のこと […]

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聖書の説教
ローマ11:33-36「頌栄」(礼拝式シリーズ⑩|宣愛師)

・・・・・・〈神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。〉―――パウロはかなり危険なことを言っていると思います。まるで、「神様がすべての人に罪を犯させたのだ」と言っているようなものです。もちろんパウロはそう言いたいわけではありません。私たち人間が罪を犯すのは神様のせいではありません。しかしパウロは、そうやって私たちが犯す罪さえも、神様は神様のご計画のために用いてくださるのだと言いたいのです。ユダヤ人もギリシャ人も、アメリカ人もイラン人も、日本人も韓国人も中国人も、神はすべての人を罪に閉じ込めた・・・・・

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