ヨハネ20:19「フラットランドを超えて」(宣愛師)
2024年3月31日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの福音書』20章19節
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
「クォンタム博士、フラットランドに行く」
今日の礼拝後に、「子どもクラス進級式」を予定しています。4月になって新しい年度が始まり、学年が一つ上がる子どもたちのために祈りたいと思いますが、その中でも今年は特に、中学校に進もうとしている小学6年生たちの祝福を祈りたいと思っています。先週の日曜日の子どもクラスで、私はこんな話をしました。「小学6年生の君たちはもうすぐ中学生になる。中学生になれば、聖書とかキリスト教について色々な疑問を持つことも増えるだろう。それをぜひ、遠慮なく質問してほしい。そして、誰かから質問をされた時に、君たちにも説明できるようになってほしい。」
「イエス様は本当に復活したのか?」とか、「復活は弟子たちの作り話じゃないのか?」という疑問も、中学生くらいになれば当然出てくるでしょう。疑問に思わないほうがちょっと心配です。ただ、これらの疑問についてはすでに説教の中で何度かお話ししていますし、同じことを何度もお話ししたら飽きられてしまうでしょうから、今日はこれらの疑問については取り上げません。
そこで今日は、少し違った疑問についてお話ししたいと思っています。それは、「復活したイエス様は、今どこにおられるのか?」という疑問です。「復活したイエス様は、今どんな状態で、どこにおられるのか? 聖書には何と書いてあるのか? そして、果たしてそれは信じられるのか?」
扉には鍵がかけられていたのに、気づいたらイエス様が真ん中にいた。十字架で死んだはずのイエス様が、まるで扉をすり抜けてきたかのように突然現れ、「平安があなたがたにあるように」と声をかけてきた。「聖書なんて信じられない」「復活なんて一番信じられない」と疑う人たちは、家の中にイエス様が突然現れるという、この出来事のことも当然信じられないわけです。
聖書には他にも、復活した後のイエス様について、様々なことが書かれています。たとえばルカの福音書24章31節を見てみると、イエス様の姿が突然現れただけでなく、その逆に突然姿が見えなくなった、と書かれています。また、マタイの福音書28章20節では、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束してくださったのに、使徒の働き1章9節を見てみると、イエス様は天に上げられて見えなくなった、とも書かれています。突然現れたかと思えば、突然見えなくなる。「いつもあなたがたとともにいます」と言ってくださったかと思えば、天に昇って行ってしまう。一体どういうことだ、と思います。そんな矛盾したようなこと、おかしなことを書いているから聖書は信じられないんだ、と疑う人がいてもおかしくはありません。
復活したイエス様はなぜ、こんなにもやりたい放題で、自由奔放なのでしょうか。そしてなぜ、イエス様のやりたい放題が、私たちには全く理解できないのでしょうか。このことを理解するためには、私たちが生きている次元と、復活したイエス様が生きておられる次元の違いについて、考えてみる必要があります。いや、完全に理解することは不可能だとしても、私たちが生きている次元とは異なる次元があるのかもしれない、という可能性に目を開く必要があります。
ここで一つの動画をご覧いただきたいと思います。「クォンタム博士、フラットランドに行く」という動画です。この動画自体は別にキリスト教とは関係なく、むしろ数学とか物理学に関する子ども向けの動画なのですが、聖書を理解する上でも大切なヒントを与えてくれます。日本語の字幕が付くので、そちらをご覧ください。(YouTubeの「字幕」機能をオンにしてご覧ください。)
フラットランドの住民たちにとって、「三次元」という概念は恐るべきものでした。「上」とか「下」という言葉そのものが、恐怖の対象だったのです。三次元空間に生きている私たちからすれば、なんともかわいらしい人たちです。こんな単純なことも分からないのか、という感じです。
しかし、私たちもある意味では、フラットランドの住民たちとそれほど違わないのかもしれません。私たちも、自分の目に見えているものが全てだと思い込んでいるからです。この三次元空間にあるものが全てだと信じ切っているからです。まさか、別の次元の世界が存在するなんて、考えたこともない。私たちよりも「上」の世界があるなんてことは、想像さえしたことがない。
「上にあるものを思いなさい」
私が盛岡に来る前、東京の中野教会でインターンをしていたとき、教会附属幼稚園の卒園式を見学させていただきました。そこで、牧師でもあり園長でもある河村先生が、卒園児たちにこんなお話をしていました。「みんな、この文字が読めるかな?」河村先生が見せた一枚の紙には、「困(る)」という字が書かれていました。何人かの子どもたちが「こまる~!」と答えます。すると、河村先生はその紙を横向きに倒して言いました。「『困る』という文字はね、一本の木が、前も後ろも右も左もふさがれてしまって、動けなくなってしまった、どうしよう、困った。そういう文字なんです。壁にぶつかって、どこにも進めない。そんな時は、どうすればいいと思う?」
卒園児たちも、卒園児たちの周りに座っている保護者たちも、後ろの方で見学していた私も、どうすればいいんだろうと考えていました。すると、河村先生は言いました。「前も後ろも右も左もふさがれてしまった。どこにも進めなくなってしまった。そんな時はね、上を見上げればいいんです。上を見上げて、神様にお祈りするんです。私たちの助けは、上から来るんです。」
河村先生は子どもたちにも分かりやすい「困(る)」という文字を使っていましたが、いつか河村先生のネタをパクってやろうと企んでいた私は、「囚(われる)」という漢字でも同じことが言えるかもしれないと思いました。四角い檻の中に、「人」という文字が閉じ込められている。どこにも逃げ場がない。囚われてしまっている。もしかすると、自分で壁を作って、閉じこもっているのかもしれません。外の世界に出ることができない。身動きが取れず、どうすることもできない。
しかし、私たちの助けは「上」から来るのです。コロサイ人への手紙2章12節と、すこし飛んで3章1節から3節をお読みします。
2:12 バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。
……3:1 こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。
「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」パウロのこの言葉は、こういう風に言い換えてみても良いかもしれません。「目に見えない世界に目を向けなさい。フラットランドに囚われてはいけません。」私たちはバプテスマを受けることによって、イエス様とともに葬られます。目に見えるものばかりに囚われてしまう私たちは死に、新しい世界を生きる私たちへと変えられるのです。イエス様の復活を信じる者たちは、新しい次元を生きています。見えない世界が見えるようになっていきます。
聖書が「上」と呼んでいる次元は、実際には「上」というよりも、「裏」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。私たち人間がどんなに高く高く上っていっても、そこに神様がおられるわけではないんです。ソ連の宇宙飛行士だったゲルマン・チトフというロシア人は、「〔宇宙に行ったとき〕私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」と言いました。宇宙まで行ってみたけれども、神様はどこにもいなかった、と言うわけです。
当然のことです。聖書に書かれている「天」というのは、単なる宇宙のことではないからです。聖書が語る「天」というのは、宇宙空間の何処かに上っていけば見つかるようなものではありません。むしろ、「天」と「地」というのは、「表」と「裏」の関係にあります。神様は、遠く離れた宇宙空間から私たちを見守っているのではありません。私たちのすぐ隣で、私たちの世界のすぐ裏側で、いつも私たちを見守っておられる。いや、単に見守るだけではなく、あらゆる危険から守っていてくださる。私たちが気づいていないところで、いつも私たちを助けていてくださる。
ヨハネの福音書に戻って、20章19節をお読みします。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
「その日」と書かれています。「その日」というのは、イエス様が十字架にかけられて殺された、その二日後の日曜日のことです。愛するイエス様が死んでしまって、失望の中にいた弟子たちは、鍵をかけて閉じこもっていました。愛するイエス様がいなくなってしまった。今度は自分たちも殺されてしまうのではないか。外の世界を恐れて、閉じこもっていました。
私たちも閉じこもりたくなる日があるでしょう。実際に部屋の中に閉じこもることもあれば、心の扉を閉じることもあるでしょう。できることなら、もっと外の世界に飛び出したいと思う。もっと心を開いて、色々な人と関わりたいと思う。でも、勇気が出ない。気力が湧かない。そんな気分には到底なれない。自分で作った壁の中に閉じこもるほかはない。しかし、それでいいのだろうか。自分はこのまま誰にも心を開かず、一人ぼっちで生きていくのだろうか。
私もまだまだ駆け出しですが、これでも教会の伝道師ですから、色々な方々のお話を聞かせていただきます。伝道師としては、腹を割って話ができたほうがその人のためにもなるだろうと思って、心を開いてもらおうと努力することもあります。それが良い方向に進むこともあります。しかし、その人が私に対して心を開くか開かないかということは、本質的には重要なことではないんです。鍵のかかったその部屋に、一人ぽつんと閉じこもっているように見えるその部屋に、すでに立っていてくださるお方がおられるからです。だから、心を開いてもらおうと焦る必要もない。
私たちは、目に見える世界だけを見て、一喜一憂します。喜んだり、落ち込んだり、期待したり、諦めたりします。目に見える世界に希望が見出せなければ、絶望するしかない、諦めるしかないと思い込んでしまう。しかし、前も後ろも右も左もふさがれてしまって、先に進めなくなって、途方に暮れてしまった時、思いも寄らないところから、私たち人間が想像もしなかったような角度から、突如として救いが、救い主がやってくる。
だから、鍵をかけてしまっても大丈夫なんです。外の世界に出られなくたって大丈夫なんです。イエス様がともにいてくださいます。「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」私たちのいのちはもはや、私たちが自分の力で守らなければならないものではありません。私たちのいのちは、目に見える世界を超えたところにおられるイエス様が預かっていてくださるからです。死の力を打ち破ったイエス様が、私たちのいのちをしっかりと守っていてくださるからです。この三次元世界には、本当の意味で私たちのいのちを傷つけることのできる者は存在しません。私たちのいのちはすでに、イエス様以外にはだれの手も届かないような場所に移されていて、大切に大切に守られているからです。
「上にあるものを思いなさい。」目の前が真っ暗になっても、何も心配する必要はありません。「上にあるものを思いなさい。」私たちの凝り固まった考えを、新しい世界に向けて開いていただきましょう。フラットランドを超えて、もっと高い所に連れ出していただきましょう。もっと広やかな世界に連れ出していただきましょう。そこには、私たちの新しいいのちが輝いています。「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」ご一緒に祈りましょう。
祈り
私たちの父なる神様。目に見えるものに囚われてしまって、すぐに絶望してしまう私たちです。ともにいてくださるあなたに気づかず、外の世界を恐れて閉じこもってしまう私たちです。どうか主よ、私たちの目をお開きください。私たちの目を上に向けさせてください。壁にぶつかって、どこにも進むことができず、身動きが取れなくなってしまって、目に見える世界には何一つ希望がないとしても、あなたの驚くべき救いを、私たちが考えたこともなかったような驚くべき救いを、待ち望むことができますように。どうか、狭い世界に生きる私たちの視野を広げてください。私たちがもっと広い世界を見ることができるように、もっと晴れやかないのちを生きていくことができるように、あなたの復活の力によって、私たちを新しく造り変えてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。