宣愛師

聖書の説教
マルコ13:3-8「産みの苦しみの始まり」(宣愛師)新着!!

・・・・・・今日の説教でも、キリスト教に対する一つの批判を取り扱いたいと思っています。その批判というのは、「聖書には『世の終わりが来る』と書いてあるのに、世の終わりなんて来ないじゃないか」というものです。「世の終わりなんて来ないじゃないか!聖書には『世の終わりにキリストが再び来て、この世界を裁く』と書いてあるのに、聖書が書かれてから二千年近く経った今でも、世の終わりなんて全然来ないじゃないか!聖書もキリストも嘘つきじゃないか!」と。この批判に答えるためには、そもそも「世の終わり」とは何なのか、聖書には何と書かれているのか、ということを確認する必要があります・・・・・・

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聖書の説教
マルコ13:1-2「崩れ去る神殿」(宣愛師)

・・・・・・私たちはどうしても、崩れないもののほうが良いと思い込んでしまうでしょう。崩れないものを積み上げて、人生を確かなものにしていこう、と考えるものです。「人生のキャリアを積み上げる」という表現が使われることもあります。「お金をこつこつ積み立てましょう」と言われることもあるでしょう。勉強も、「こつこつ積み上げていかないとすぐに他の人に置いていかれる」などと言われて、私たちは焦ってしまうものです。……しかし神様は、「崩れたっていいじゃないか」と仰るんです。「崩れないようなものを作らなくていいじゃないか」と仰るんです・・・・・・

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聖書の説教
エペソ2:8-10「この恵みのゆえに」(宣愛師)

・・・・・・ある教会で行われた集会に、クリスチャンではない友人と一緒に参加した時のことです。賛美歌を歌ったり、聖書のメッセージを聞いたり、メッセージに関する感想を分かち合ったりする集会でしたが、気づいたらその友人が集会を抜けて、後ろの方にひとり座って泣いてしまいました。どうしたのかと話を聞くと、「クリスチャンの中にいるのが辛くなった」と言うんです。「教会も結局はキラキラした人たちの集まりなんだと思って、そこにいるのが辛くなった」と・・・・・・

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聖書の説教
ヨハネ20:19「フラットランドを超えて」(宣愛師)

・・・・・・突然現れたかと思えば、突然見えなくなる。「いつもあなたがたとともにいます」と言ってくださったかと思えば、天に昇って行ってしまう。……復活したイエス様はなぜ、こんなにもやりたい放題で、自由奔放なのでしょうか。そしてなぜ、イエス様のやりたい放題が、私たちには全く理解できないのでしょうか。このことを理解するためには、私たちが生きている次元と、復活したイエス様が生きておられる次元の違いについて、考えてみる必要があります・・・・・・

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聖書の説教
マルコ12:35-44「やもめを見ている神」(宣愛師)

・・・・・・「あなたはいくらの献金を、何のために捧げるのか。」「レプタ二枚を、神様への感謝のために」と、彼女は答える。周りの金持ちたちの献金によって、ラッパが大きな音を響かせる中で、「レプタ二枚」と答えることは、恥ずかしいことだったでしょう。惨めだったでしょう。祭司たちも心の中で「たったの125円か。それが何の役に立つのだ。何の足しにもならない」と馬鹿にしたかもしれません。……しかし、私たちが注目すべきことは、たった二枚のレプタしか献げられないとしても、それでもこのやもめが、礼拝をするために神殿に来た、ということだと思います・・・・・・

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聖書の説教
マルコ12:28-34「礼拝している場合なのか」(宣愛師)

・・・・・・「別に神様なんて信じなくても、隣人を愛することくらいできるさ」と言う人もいるでしょう。そして実際に、そういう人たちがいます。クリスチャンでなくても、神様を信じていなくても、困っている人たちのために見返りも求めず働き続けるような、素晴らしい人たちがいます。そういう人たちからすれば、毎週日曜日に礼拝に集まるクリスチャンを見て、「賛美歌なんて歌っている暇があったら、ボランティアでもしたらどうですか」と思われても仕方がないかもしれません・・・・・・

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マルコ12:18-27「生きている者の神」(宣愛師)

・・・・・・聖書とは何でしょうか。聖書には何が書かれているのでしょうか。もちろん聖書には、色々と細かいルールも書かれています。上手に生きていくための知恵も書かれています。しかし究極的には、聖書において語られているのはたった一つのことです。それは、“死すべき人間と永遠の契約を結ばれた神”のことです・・・・・・

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聖書の説教
マルコ12:13-17「神に返しなさい」(宣愛師)

・・・・・・「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」このイエス様の言葉は、聖書の中でも最も有名な言葉の一つです。ところがこの言葉は、最も有名な言葉であると同時に、最も間違って解釈されている言葉でもあるようです。インターネットで調べてみましたら、この言葉の説明として、「物質への興味と精神への興味とは別物だ」というような考え方が紹介されていました。物質世界はカエサルの領域で、精神世界は神様の領域だ、というわけです・・・・・・

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マルコ12:1-12「愚かな主人の愛」(宣愛師)

・・・・・・しかし、このたとえ話の中で最も愚かだったのは、この農夫たちではないと思うんです。たしかに、遣わされてきたしもべたちを殺し続け、最後には息子さえも殺してしまった、この農夫たちの愚かさは常軌を逸しています。ところが、この農夫たち以上に愚かであったのは、むしろこの主人ではないでしょうか・・・・・・

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マルコ11:27-33「わたしに答えなさい」(宣愛師)

・・・・・・「キリストが復活したというのは、弟子たちの作り話じゃないのか?」「この世界を神が造ったとは本当だろうか?」「神がいるなら、なぜこの世界にはこんなにも苦しみが多いのだろうか?」……もちろん、疑問を持つことは悪いことではありません。むしろ、あまり深く考えずに信じてしまうよりは、疑問から逃げずにしっかり悩んだ上で慎重に信じたほうが良いと思います。そのほうが確かな信仰になると思います。ただし、そこで私たちが注意すべきことは、一方的に疑問をぶつける権利が、私たち人間の方にあると思い込んでしまうことです・・・・・・

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