宣愛師
第一コリント8:4-6「われらの主」(使徒信条⑤|宣愛師)新着!!
・・・・・・使徒信条の学びも五回目となります。本日は、「われらの主イエス・キリストを信ず」という信仰告白について、特に「われらの主」という言葉について、ご一緒に学びたいと思います。そしてそれと同時に、「宗教は自由を与えるのか、それとも、ある種の制約や義務を伴うものなのか?」というこの問いについても、聖書を通して考える機会となればと思います・・・・・・
ヨハネ1:18「そのひとり子」(使徒信条④|宣愛師)
・・・・・・ある人は、「使徒信条はここから、ユダヤ教やイスラム教と袂を分かつことになる」と語りました。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、この天地をお造りになった全能の神を信じている。そういう意味では、同じ神を信じていると言うこともできます。しかし私たちキリスト教徒が、使徒信条の第一部から第二部に進んで、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白する瞬間、ユダヤ教徒やイスラム教徒とは違う仕方で、神を信じるということになる・・・・・・
マルコ14:36「全能の父なる神」(使徒信条③|宣愛師)
・・・・・・「なぜ、“母なる神”ではなく“父なる神”でなければならないのか。神を“父”と呼ぶことによって、男女差別や男尊女卑が助長されてしまうのではないか。神を“父”と呼ぶことは、家族の中で一番偉いのは父親だという、家父長主義の負の遺産ではないのか。」たしかに、聖書が書かれた時代というのは、女よりも男のほうが偉いと言われる時代、そして家族の中で一番偉いのは父親だ、と言われる時代でした。しかし聖書が神を「父なる神」と呼ぶのは、男尊女卑の影響を受けたからでも、家父長主義を大切にしているからでもありません。むしろその逆です・・・・・・
創世記1:31「天地の造り主」(使徒信条②|宣愛師)
・・・・・・現代社会、特にこの日本という国では、「天地の造り主」を信じる人は多くありません。神が造ったのではなく、ビッグバンという大爆発によって始まったのだ。そして星たちが誕生し、太陽が誕生し、地球が誕生し、そこに生物が誕生し、豊かな自然が育まれ、やがて人間が誕生したのだと、学校の教科書に書かれています。しかし、教科書があまり真面目に取り扱おうとしない問いがあります。それは、「ビッグバンの前には何があったのか?」という問いです・・・・・・
ローマ10:1-11「われは信ず」(使徒信条①|宣愛師)
・・・・・・ローマ帝国の人々は皆、「カエサルこそが主である。カエサルこそがこの世界に真の平和をもたらす」と信じていました。それ以外の考えは許されない社会でした。そのような世界の中にあって、「私は、カエサルではなく、イエス・キリストが主であると信じる」と告白するのです。「われは信ず」という告白は、ローマ帝国という大きな「私たち」の中から、一人「私」という存在が一歩外に出て、新しい世界に飛び込むということを意味していました・・・・・・
マルコ16:1-8「そこでお会いできます」(宣愛師)
・・・・・・私たちは今日、三年近くかけて読み進めてきたマルコの福音書を読み終えます。この三年間、色々なことがありました。経済的な見通しが立たず、もう無理かもしれない思っていた教会の歩みでしたが、様々な神様の恵みを経験しながら、今日までなんとか守られて来ました。それぞれの信仰生活にも色々ありました。楽しいこともあれば、そうでないこともありました。イエス様から離れてしまいそうになることもあったでしょう。しかしイエス様は何度でも、私たちに出会い直してくださいました。「またガリラヤで会おう」と言ってくださり、「わたしについて来なさい」と語りかけてくださいました・・・・・・
マルコ15:40-47「葬りを見つめて」(宣愛師)
・・・・・・女性には大したことはできないと思われていました。たしかに、イエス様が殺されようとしていた時、そして実際に殺されてしまった時、彼女たちにできることは何もありませんでした。……彼女たちには、遠くから見ていることしかできませんでした。しかし、遠くからであったとしても、「見ていた」のです。そして「見ていた」ということによって、彼女たちはやがて、世界の歴史を根本から変えてしまう大事件の目撃者となっていくのです・・・・・・
マルコ15:33-39「神の子」(宣愛師)
・・・・・・しかし、イエス様が「どうして」と叫ばれたのはなぜでしょうか。ご自分がなぜ十字架にかからなければならないのか、イエス様はお忘れになってしまったのでしょうか。ご自分がこの世界に来たのは、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」(10:45)だと仰っていたはずです。「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」(9:31)と、イエス様ご自身が弟子たちに何度も何度も教えておられたはずです。ご自分の死の意味も、その先に復活の希望があることも、イエス様はよくよく分かっておられたはずです。それにもかかわらず、「どうして」と叫ばざるを得なかった。なぜなのでしょうか・・・・・・
マルコ15:16-32「強いられた恵み」(宣愛師)
・・・・・・激しい鞭打ちによって肌が破け、内臓や骨が透けて見えてしまっているような背中を、ザラザラとした十字架の木に押し付けられる。手首と足首を通る太い神経のど真ん中に釘を打たれて激痛が走る。自分の体重によって肺が圧迫されているため、呼吸をするためには身体を持ち上げなければならないが、そのたびにむき出しの背中は十字架の表面と擦れ合い、釘を差された手や足には気を失うような痛みが繰り返される……そのように残酷な十字架刑にもかかわらず、福音書にはただ、「彼らはイエスを十字架につけた」としか書かれていません。十字架がどれほど痛く、どれほど苦しいものだったのかということを、聖書はほとんど語ろうとしないのです・・・・・・
マルコ15:1-15「バラバか、イエスか」(宣愛師)
・・・・・・もしもバラバが単なる人殺しや強盗だったなら、群衆がバラバを釈放してほしいと願うはずはありません。この群衆たちにとって、バラバはある種のヒーローでした。ローマ帝国の支配に対して勇敢にも立ち向かったヒーロー。ここにもまた、怒りという感情に支配される人間の現実が描かれています。やられっぱなしの男よりも、暴動を起こした男のほうが、人気者になるのです・・・・・・