宣愛師
使徒2:1-13「いろいろなことばで」(宣愛師)新着!!
・・・・・・神様がお望みになった世界は、一つの言語や民族や文化によって支配されるような、画一的な世界ではありませんでした。神様がアダムとエバにお命じになったのは、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1:28)というご命令でした。創世記の10章には、神様のご命令通りに、多くの民族が世界中に広がっていく様子が記録されています。しかしバベルの人々は、そのように広がった民族や文化を、「一つの話しことば」によって支配し、一つの民族の中に閉じ込めようとします。これがバベルの人々の罪であり、やがてこの地に再び現れる、大バビロン帝国の罪でした・・・・・・
ガラテヤ3:13-14「十字架につけられ(2)」(使徒信条⑪|宣愛師)
・・・・・・私たち一人一人も同じだと思います。“黒歴史”があります。誰にも言えないような失敗や罪があります。なかったことにすることはできません。でも、なかったことにする必要もありません。聖書の中には今でも、イスラエルの黒歴史がたくさん残っています。アブラハムやモーセやダビデやペテロやパウロの黒歴史もしっかり書かれています。でも、それもぜんぶ含めて聖書です。それも含めて私たちの人生です。その恥ずかしさも、その情けなさも、全部ひっくるめて、イエス様が背負ってくださったのです・・・・・・
ピリピ2:1-11「十字架につけられ(1)」(使徒信条⑩|宣愛師)
・・・・・・私たちがこれまで学んできた使徒信条は、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白した後で、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白します。そしてその続きでは、このキリストが「十字架につけられ」て死んだ、と告白するのです。冷静に考えればおかしな話です。……全能の神の子であるはずのお方が、人間たちの力に敗北したというのです。なぜでしょうか。イエス様は本当は神の子でもなんでもない、ただの弱い人間に過ぎなかった、ということなのでしょうか・・・・・・
ヨハネ19:1-16a「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」(使徒信条⑨|宣愛師)
・・・・・・数ヶ月前のことですが、「今度から日曜礼拝で使徒信条の説教シリーズを始めるんだよ」という話をしたら、Hくんから、「使徒信条の中になぜピラトの名前が入っているのかについても、ぜひ取り扱ってほしいです」と言われました。「なんだかピラトがかわいそうで」という話にもなりました。たしかに、キリストを十字架につけて殺した人物として、世界中の教会でその名前が呼ばれ続けるなんて、やっぱりかわいそうだという気がします。しかし、そんな風に考える私たちは、どこかでこのピラトという人を、自分とは無関係の、他人事だと思っているのかもしれません・・・・・・
ルカ1:26-38「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」(使徒信条⑧|宣愛師)
・・・・・・“キリストの処女懐胎”が疑われている理由は、大きく分けて三つあります。まず第一に、「処女が妊娠するなんて科学的にあり得ない」と主張する人たちがいます。現代人の多くはこの立場に立つでしょう。その一方で、科学的な観点とは全く別の理由から、イエス様の“処女懐胎”を否定する人たちもいました。彼らは、「イエスのような貧しい人間に奇跡的な誕生は相応しくない」と主張します。そしてさらに別の観点から、イエス様の“処女懐胎”を疑う人々もいました。彼らは、「聖なる神の御子が物質的肉体を持つはずがない」と主張しました。本日は、これら三つの主張に順番に答えながら、この信仰告白に込められた意味をご一緒に味わいたいと思っています・・・・・・
ルカ4:16-30「キリスト」(使徒信条⑦|宣愛師)
・・・・・・もっと正確に言うならば、「キリスト者」になるために唯一必要な条件は、“あなたが受け入れたくない人も受け入れてしまうキリスト”を受け入れること、これだけです。どうしてキリスト教が、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」という、あまりにも単純すぎることを教えているのか、お分かりいただけると思います。「われはイエス・キリストを信ず」と告白するだけ。このあまりにも単純なことが、自己中心で排他的な私たちにはあまりにも難しいのです。しかし、このたった一つの信仰だけで、私たちの全ての罪は赦され、神の民の一員として迎え入れていただけるのです・・・・・・
第一ペテロ3:13-16「希望を語るために」(宣愛師)
・・・・・・私たち盛岡みなみ教会はこの4月から、「希望を語るために」というテーマを掲げ、第一ペテロ3章15節を掲げて、新しい年度を始めてまいります。……どうすれば、イエス様の素晴らしさを人々に伝えることができるのでしょうか。本日は、キリスト教を信じない人々の多くが抱いていると思われる三つの問いについて、聖書を通して考えたいと思っています。その三つの問いとは、「キリスト教は倫理的に良いものか?」「キリスト教は合理的に納得できるか?」そして、「キリスト教は人生に希望を与えるか?」という三つの問いです・・・・・・
マタイ1:20-25「イエス」(使徒信条⑥|宣愛師)
・・・・・・そしてその時私たちは、「イエス」と「インマヌエル」という二つのお名前が、ひとりの救い主を指し示している、ということの意味に気づき始めるのだと思います。“罪から救う”ということと、“神がともにいる”ということが、別々の事柄ではなく、一つの事柄であることに気づき始めるのです。そしてそれは、イエス様が私たちのためにしてくださったことであり、私たちが隣人のためにできる最善のことでもあるのだと思います・・・・・・
第一コリント8:4-6「われらの主」(使徒信条⑤|宣愛師)
・・・・・・使徒信条の学びも五回目となります。本日は、「われらの主イエス・キリストを信ず」という信仰告白について、特に「われらの主」という言葉について、ご一緒に学びたいと思います。そしてそれと同時に、「宗教は自由を与えるのか、それとも、ある種の制約や義務を伴うものなのか?」というこの問いについても、聖書を通して考える機会となればと思います・・・・・・
ヨハネ1:18「そのひとり子」(使徒信条④|宣愛師)
・・・・・・ある人は、「使徒信条はここから、ユダヤ教やイスラム教と袂を分かつことになる」と語りました。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、この天地をお造りになった全能の神を信じている。そういう意味では、同じ神を信じていると言うこともできます。しかし私たちキリスト教徒が、使徒信条の第一部から第二部に進んで、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白する瞬間、ユダヤ教徒やイスラム教徒とは違う仕方で、神を信じるということになる・・・・・・