宣愛師
マルコ15:33-39「神の子」(宣愛師)
・・・・・・しかし、イエス様が「どうして」と叫ばれたのはなぜでしょうか。ご自分がなぜ十字架にかからなければならないのか、イエス様はお忘れになってしまったのでしょうか。ご自分がこの世界に来たのは、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」(10:45)だと仰っていたはずです。「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」(9:31)と、イエス様ご自身が弟子たちに何度も何度も教えておられたはずです。ご自分の死の意味も、その先に復活の希望があることも、イエス様はよくよく分かっておられたはずです。それにもかかわらず、「どうして」と叫ばざるを得なかった。なぜなのでしょうか・・・・・・
マルコ15:16-32「強いられた恵み」(宣愛師)
・・・・・・激しい鞭打ちによって肌が破け、内臓や骨が透けて見えてしまっているような背中を、ザラザラとした十字架の木に押し付けられる。手首と足首を通る太い神経のど真ん中に釘を打たれて激痛が走る。自分の体重によって肺が圧迫されているため、呼吸をするためには身体を持ち上げなければならないが、そのたびにむき出しの背中は十字架の表面と擦れ合い、釘を差された手や足には気を失うような痛みが繰り返される……そのように残酷な十字架刑にもかかわらず、福音書にはただ、「彼らはイエスを十字架につけた」としか書かれていません。十字架がどれほど痛く、どれほど苦しいものだったのかということを、聖書はほとんど語ろうとしないのです・・・・・・
マルコ15:1-15「バラバか、イエスか」(宣愛師)
・・・・・・もしもバラバが単なる人殺しや強盗だったなら、群衆がバラバを釈放してほしいと願うはずはありません。この群衆たちにとって、バラバはある種のヒーローでした。ローマ帝国の支配に対して勇敢にも立ち向かったヒーロー。ここにもまた、怒りという感情に支配される人間の現実が描かれています。やられっぱなしの男よりも、暴動を起こした男のほうが、人気者になるのです・・・・・・
マルコ14:66-72「そして彼は泣き崩れた」(宣愛師)
・・・・・・「ここで物語られるペトロの過ちは、私たちの弱さを映し出す鏡である。」私たちもまず、一度目の罪を犯します。その時はまだ、イエス様を完全に否定するような罪ではないことが多い。嘘をつくとしても、大した嘘はつきません。お金に関する罪も、性的なことに関する罪も、最初は小さなことかもしれません。ペテロが一度目にイエス様を否定した時、「すると鶏が鳴いた」とあります。これは、「これ以上罪を犯してはならない」という、神様からの警告だったのかもしれません。しかし、そこで踏みとどまることができないのが、私たち罪人の現実です・・・・・・
創世記1:26-28「神のかたち」(宣愛師)
・・・・・・「支配」という日本語は、ちょっと不思議な言葉だなあと、前々から思っていました。「支配」と聞けば、力ずくでコントロールするとか、無理やり従わせるとか、そんな印象を持つわけですが、少なくとも漢字に分解して考えてみれば、「支配」の「支」という漢字も、「配」という漢字も、そんなニュアンスではない。気になって調べてみましたら、「支配」という言葉はもともと、「量って配る」という意味だったのだそうです・・・・・・
マルコ14:53-65「しかし、イエスは黙ったまま」(宣愛師)
・・・・・・なぜ、そこまでしてイエス様を殺したいのでしょうか。彼らはなぜ、殺したいほどにイエス様を憎んでいたのでしょうか。ある人たちは、「イエスという人物は、人々に良い生き方を教えた教師だった」と考えます。たしかに、イエス様は教師でした。良い生き方とは何か、幸せな人生とは何か、そのことを人々に教えた教師。しかし、それだけだとすれば、なぜイエス様はここまで憎まれなければならなかったのか。イエス様は、間違いなくそれ以上の存在だった。そのことに気づいた「祭司長たち、長老たち、律法学者たち」は、このイエスという人物を殺さずにはいられなくなったのです・・・・・・
マルコ14:43-52「聖書が成就するため」(宣愛師)
・・・・・・いろいろ調べていくうちに、悲しい現実に気づいてしまいました。人間不信は連鎖していく、という現実です。人間不信になってしまった人は、自分の周りの人たちにも人間不信を広げてしまう傾向がある。常に周りの人を疑っているから、自分の本音を言えない。家族や親しい友人に対してさえ、自分の本当の気持ちを正直に伝えることができない。すると何が起こるか。人間不信で苦しんでいるあなたのことを、周りの人も信じられなくなるんです。悪循環です。このようなことが世界中で起こり続けている。誰かがこの連鎖を止めなければなりません。しかし、私たち人間が解決するには、あまりにも重すぎる問題かもしれません。一体だれが私たちを救えるのか・・・・・・
マルコ14:32-42「わたしの望むことではなく」(宣愛師)
・・・・・・「みんなが神様を忘れちゃう時って、どんな時?」すると、秋田から来ていた一人の男の子が、面白い答えをしてくれました。「ん~、楽しい時かなあ?」なかなか本質的な答えだと思いました。楽しい時に、私たちは神様を忘れてしまう。神様抜きで生きていけるかのような錯覚をしてしまう。でも、苦しくなると、辛い状況に陥ると、神様を思い出す。普段の祈りはテキトーなのに、お腹が痛くなった時にトイレの中で祈る祈りは誰よりも熱心。……イエス様の祈りは、“苦しい時の神頼み”ではなかった。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」・・・・・・
マルコ14:22-31「神の国で新しく」(宣愛師)
・・・・・・私はこれまで何人かの方に、“洗礼を受けない理由”を尋ねたことがあります。なぜ洗礼を受けないのか。ある人は、「まだまだ聖書の勉強が足りないからです」と答えてくれました。「家族に反対されているからです」と答えてくれた人もいました。理由は人それぞれです。こんなふうに答えてくれた人もいました。「もし洗礼を受けても、いつかイエス様を裏切ってしまうかもしれないから。」真面目な人でした。「洗礼を受けて、聖餐も受けさせていただくようになっても、もしイエス様を裏切ってしまったら、信仰を捨ててしまうようなことがあったら、それが一番申し訳ない。それが一番やってはいけないことだと思う。だから、私はまだ洗礼は受けられないんです。」・・・・・・
ヨハネ1:12-13「望まれず生まれたとしても」(宣愛師)
・・・・・・自分は邪魔者だったのだろうか。自分は“要らない子”だったのだろうか。もっと別の子が良かったのではないか。自分がもっと親に愛されるような、愛されやすいような子どもだったら良かったのだろうか。子どもの頃に受けた傷が、大人になってもじゅくじゅくと残って、いつも不安を抱えている。親から見捨てられた経験のある子どもたち。「お前を産んだのが人生最大の失敗だった」なんて言われた子どもたち。どうすれば、自分の人生を喜ぶことができるでしょうか。どうすれば、「自分は生まれてきてよかったのだ」と心の底から信じることができるでしょうか・・・・・・