宣愛師
Ⅰペテロ3:7「弱さを理解する人の祈り」(「弱さ」シリーズ⑥|宣愛師)
・・・・・・先日、妻が困った顔でスマホの画面を見せてきて、「この人にどう返事したらいいかな?」と相談してきました。ただ、その時の私は体調があまり良くなく、バイブルスタディの準備もしなければならなかったので、「自分で考えたらいいんじゃない?」と冷たく対応してしまいました。別の部屋に移動した私は、「神さま、このあとのバイブルスタディでどう語るべきか教えてください」と祈りました。そこではっと気付かされたのは、「妻の願いを聞こうとしない自分の祈りを、神さまが聞いてくださるはずがない」ということでした・・・・・
エペソ1:11-14「"私たち"を広げる聖霊の助け」(宣愛師)
・・・・・・ 「私たち」と「あなたがた」を分けるパウロの言い方に、私は最初、ちょっと嫌な印象を持ちました。もし私がRに、「僕たち日本人はこうだけど、君たちフィリピン人はね……」みたいな言い方をしたら、ちょっと嫌な感じがします。「私たち」と「あなたがた」なんて区別せず、最初から皆で一緒に「私たち」と言えばいいじゃないか。しかしその一方で、なんでもかんでも「私たち」という言葉で一括りして良いのだろうか、とも思うのです・・・・・
エペソ1:7-10「すべてが一つに集められる」(宣愛師)
・・・・・・家族が一つになれないことがあります。夫婦も親子も兄妹も、なかなか一つになれません。教会でさえ一つになれず、バラバラの歩みをすることがあります。「相手が反省しようとしない限り、和解はもう無理です。」どんなにがんばっても、そんな言葉しか出てこないような厳しい現実があります。国と国との争いもそうです。……しかし、そのような厳しい現実にもかかわらず、聖書は驚くべきことを語ります・・・・・
エペソ1:1-6「世界の基が据えられる前から」(宣愛師)
・・・・・・役員会が色々な質問をする中、まなか先生はこう尋ねました。「Rにとって、教会とはどういうものですか?」Rさんは「神の家族です」と答えました。親戚や家族が住むフィリピンを離れ、日本で一人暮らしをする自分にとって、盛岡みなみ教会は温かい家族です、と。……今日から「エペソ人への手紙」のシリーズが始まります。この手紙のテーマを一言で表すなら、“ユダヤ人もギリシア人も一つ”です・・・・・
創世記21:1-7「弱さを笑いに変える神」(「弱さ」シリーズ⑤|宣愛師)
・・・・・・「笑い」のメカニズムにいくつか種類があるのと同じように、「笑い」そのものにも色々な種類があります。「微笑み」のような温かい笑いもあれば、人を馬鹿にするような「嘲笑い」「嘲笑」という笑いもあります。冷たく笑うと書いて「冷笑」もあります。アブラハムとサラの場合、彼らの「笑い」はどういう笑いだったかと言うと、神さまを馬鹿にするような「嘲笑」「冷笑」でした・・・・・
ルカ10:38-42「黙想」(礼拝式シリーズ⑫|宣愛師)
・・・・・・もともとはマルタも、妹がイエス様の話を聞くことを喜んでいたのではないかと思います。イエス様の弟子となった妹の姿を見て、「すごい、これが神の国なんだ」とワクワクしていたのだと思います。「神の国では、女性が差別されることもない。身分の低い人が蔑まれるようなこともない。こんなにすばらしい神の国のために、私も何かお手伝いがしたい。」……しかし、最初は喜んでおもてなしの準備をしていたマルタも、忙しさの中で、慌ただしさの中で、次第に苛立ちが募ってくるのです。そしてついに、イエス様に文句を言ってしまう・・・・・
コロサイ3:12-17「キリストのことばが住むために」(宣愛師)
・・・・・・しかしキリスト教会といえど、「キリストのことば」ではない何かが中心になってしまうことがあるのです。それをパウロはこの手紙の2章8節で、「人間の言い伝え」と呼んでいます。……たとえば当時のコロサイ教会には、「割礼を受けたユダヤ人でなければ、本物のクリスチャンにはなれない」という教えが入り込もうとしていました。イエス様の教えとは異なる価値観によって、優れているとか劣っているとか決めようとするのです。現代の教会にも、「タバコを吸う人はクリスチャンに相応しくない」とか、「金髪の人はクリスチャンっぽくない」というような「人間の言い伝え」が入り込むことがあるかもしれません・・・・・
ヨハネ21:15-17「人の弱さを愛の強さに」(「弱さ」シリーズ④|宣愛師)
・・・・・・新しいクラス、新しい職場、新しい環境の中で、「うまくやっていけそうだ」と楽観的な私たちかもしれません。もしくは、「うまく馴染めなかったらどうしよう」「何か失敗をやらかしてしまったらどうしよう」と悲観的になっている私たちかもしれません。ある有名な神学者が、インタビューの中でこんな質問をされたそうです。「キリスト教の将来について、あなたは楽観的ですか、それとも悲観的ですか。」すると、その神学者は次のように答えました。「私は楽観的でも悲観的でもありません。イエス・キリストはよみがえられました!」・・・・・
Ⅱコリント13:11-13「祝福・後奏」(礼拝式シリーズ⑪|宣愛師)
・・・・・・祝福の反対は「呪い」です。呪いとは、存在を否定することです。「邪魔だからあっち行って」「あの人さえいなければいいのに」「マジで消えてほしい」―――学校の教室で、職場で、SNSの世界で、そして時には家庭の中でさえ、存在を否定する呪いの言葉が飛び交うのです。……だからこそ私たちには、「あなたがいてくれて嬉しい」という祝福が必要なのです。祝福とは、単なるきれい事ではありません。いのちに関わる一大事です。生きるべきか死ぬべきか。生まれてきて本当に良かったのか・・・・・
ローマ11:33-36「頌栄」(礼拝式シリーズ⑩|宣愛師)
・・・・・・〈神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。〉―――パウロはかなり危険なことを言っていると思います。まるで、「神様がすべての人に罪を犯させたのだ」と言っているようなものです。もちろんパウロはそう言いたいわけではありません。私たち人間が罪を犯すのは神様のせいではありません。しかしパウロは、そうやって私たちが犯す罪さえも、神様は神様のご計画のために用いてくださるのだと言いたいのです。ユダヤ人もギリシャ人も、アメリカ人もイラン人も、日本人も韓国人も中国人も、神はすべての人を罪に閉じ込めた・・・・・










