マルコ13:9-13「最後まで耐え忍ぶ人」(宣愛師)

2024年5月5日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』13章9-13節


9 あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。
10 まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。
11 人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
12 また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
13 また、 わたしの名のために、 あなたがたはすべての人に憎まれます。 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。



「信仰と社会がぶつかった時に」

 ここ数年間、東京に住んでいる大学生のB君と一緒に、「オンライン聖書勉強会」のようなものを続けているのですが、最近になってこの勉強会に、盛岡みなみ教会のI君が参加してくれるようになりました。B君は東京の中野区にいて、I君は一関市に、そして私は盛岡にいるわけですが、離れた場所でも気軽に語り合えるというのは、何とも便利な時代だなあと思うわけです。

 その勉強会の中で、I君がこんな質問をしてくれました。「おれたちが信じてるキリスト教と、カルト宗教の違いって何ですか?」そこで私は、B君に説明を求めてみました。「おれたちの信仰とカルト宗教の違い、どう説明する?」するとB君は、「人から聞いた話だけど」と前置きした上で、こんなふうに説明してくれました。「普通の宗教は、信仰が社会とぶつかった時に、社会とうまくやっていくけど、カルト宗教は、信仰が社会とぶつかった時に、そのままぶつかり続ける。」

 B君の説明を聞いて、今度は私がこんな質問をしてみました。「じゃあ、おれたちが信じてるキリスト教がカルト宗教じゃないとして、もし仮に、社会のほうが明らかに間違っていたとしても、それでもおれたちの信仰は社会とぶつからない、ってこと? たとえば、侵略戦争を正当化するような社会とか、弱者差別を正当化するような社会だとしたら、おれたちが信じるキリスト教は、カルト宗教じゃなくて普通の宗教だから、その間違った社会ともぶつからない、ってこと?」 

 マルコ13章12節と13節をお読みします。


12 また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
13 また、 わたしの名のために、 あなたがたはすべての人に憎まれます。 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

 イエス様は、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます」と言いました。そして実際に、イエス様を信じる人々は、狭いエルサレムの中でも、広いローマ帝国の中でも、あらゆる社会から憎まれ、迫害を受けました。中には殺される人もいました。なぜ憎まれるのでしょうか? イエス様の教えに従う人々はなぜ、社会から憎まれてしまうのでしょうか?


罪人の壁、奴隷の壁、性別の壁、人種の壁

 キリスト教が社会から憎まれる最大の理由。それは、キリスト教が“差別の壁”を壊そうとするからです。ルカの福音書15章1節以下、またエペソ人への手紙6章5節以下をお読みします。


【ルカ15:1-2】さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。

【エペソ6:5-9】奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。……9 主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。

 人間が作るあらゆる社会には、必ずと言って良いほど「差別」が生まれます。人は人を差別することによって、「自分は差別されていない」という安心感を得ようとするからです。自分ではない誰かを差別することによって、「自分は真っ当な人間だ」という安心感を得られるからです。学校や会社などで起こるいじめも、同じようなものかもしれません。誰かを仲間外れにすることによって、「自分は大丈夫だ。自分は皆から受け入れられている」と安心できるわけです。

 当時のユダヤ人社会には“罪人の壁”がありました。「あの人たちは罪人だ」と差別することによって、「自分たちは罪人ではない。自分たちはきよい人間だ」と安心したんです。その安心感によって社会が成り立っていたんです。広いローマ帝国の社会も、「主人」と「奴隷」という差別構造によって成り立っていました。「主人」は「奴隷」を好き勝手に扱って良い。「奴隷」は人間ではなく所有物に過ぎないから。これが当時の世界の常識だったわけです。

 その壁を壊したのがイエス様でした。イエス様は「罪人たち」と一緒に食事をしました。当時の社会常識をひっくり返すような行動でした。当然のことながら、パリサイ人たちが文句を言ってきます。イエス様の教えを引き継いだパウロも、「主人」と「奴隷」という壁を壊そうとしました。「主は人を差別なさらない」とパウロは宣言しました。パウロが信じるキリスト教の価値観が、ローマ帝国の価値観とぶつかったわけです。これが、キリスト教が社会から憎まれる理由です。

 キリスト教が壊したのは、“罪人の壁”や“奴隷の壁”だけではありませんでした。キリスト教は、やはり当時の社会では当然のこととされていた、“性別の壁”や“人種の壁”をも壊していきました。ヨハネの福音書4章7節以下の部分と、ローマ人への手紙3章9節をお読みします。


【ヨハネ4:7-9】一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。……9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。

【ローマ3:9】では、どうなのでしょう。私たち〔ユダヤ人〕にすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。

 ヨハネ4章については、先月のまなか先生の説教を思い出していただければと思います。当時の社会では、ユダヤ人とサマリア人は互いに互いを差別し合っていました。しかも、女性に対する差別も激しい時代でしたから、道端で男性が女性に話しかけることさえ認められないような時代でした。しかしイエス様は、ユダヤ人とサマリア人との間にある壁も、男性と女性との間にある壁も、いとも簡単に飛び越えてしまいます。パウロもイエス様に倣って、“人種の壁”を壊しました。「ユダヤ人はすぐれた民族だ」とは言わず、かといって「ギリシア人がすぐれている」とも言わず、「すべての人が罪の下にある」と宣言することによって、パウロは人種の壁を打ち壊したんです。

 ロドニー・スタークという社会学者が『キリスト教とローマ帝国』という著書の中で、「なぜキリスト教がローマ帝国に広がったのか?」「ガリラヤという片田舎で始まった宗教が、なぜ300年後には世界最大の宗教になったのか?」ということを分析しています。スターク博士の研究結果を抜粋すると、次のようになります。


・ローマ帝国では女性差別が常識的だったのに対し、キリスト教会では女性の尊厳が高く評価されたため、多くの女性たちが改宗した。また、ローマ帝国では女児の中絶・子殺しが頻繁に行われていたのに対し、キリスト教会では中絶も子殺しも禁止されていたため、子どもの人数が増えていった

・ローマ帝国に疫病が広がった際、大多数の人々は感染を避けるために都市部から離れて行ったが、キリスト教徒たちは病人の看病のために都市部にとどまり続けた。また、相互扶助の関係が強かったキリスト教会では、災害が起こった際の死傷者が少なかったため、社会的弱者にとって魅力的だった

・ローマ帝国が反乱分子を迫害する際、多くの宗教的・政治的グループが、暴力・ゲリラ戦によって反撃したのに対し、キリスト教徒は自らを虐待するローマ兵たちのために祈りながら死んでいった


ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国:小さなメシア運動が帝国に広がった理由』(穐田信子訳、新教出版社、2014年)より抜粋・要約。

 キリスト教は“罪人の壁”を壊し、“奴隷の壁”を壊し、“性別の壁”を壊し、“人種の壁”を壊しました。古い社会の価値観を覆し、新しい社会の価値観を生み出していきました。もちろん、今もこの世界には多くの差別が残っています。キリスト教徒であるはずの人々が差別を助長してしまうようなこともあります。しかし、それでもこの二千年間、キリスト教の影響によって、教会の働きによって、様々な差別が減らされてきたことは事実です。

 キリスト教にはなぜ、この世界を変えるほどの力があるのでしょうか。キリスト教にはなぜ、この社会の価値観を覆すようなことができるのでしょうか。その理由は、イエス様ご自身にあります。ピリピ人への手紙2章6節から8節、そして、ガラテヤ人への手紙3章28節をお読みします。


【ピリピ2:6-8】キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
   
ご自分を空しくして、しもべ〔奴隷〕の姿をとり、人間と同じようになられました。
      人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、
        それも十字架の死にまで従われました。

【ガラテヤ3:28】ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

 この世界で考え得る、最も大きな壁、最も根本的な壁。それは、神と人との間にある壁です。イエス様が第一に壊したのは、この壁でした。神が人となったんです。しかも、「しもべ」つまり「奴隷」となったんです。本来死ぬ必要さえないはずのお方が、十字架の死にまで従う奴隷となったんです。最も価値の高い存在であるはずの神が、最も価値が低いとされていた奴隷の身分にまで謙ってくださった。世界がまるごとひっくり返されたんです。罪人より義人のほうが偉いとか、奴隷より主人のほうが偉いとか、女より男のほうが偉いとか、ギリシア人よりユダヤ人が偉いとか、そういう古い世界の価値観を、イエス様はぶち壊してしまったんです。

 こんな神が他にいるでしょうか? こんなことを考え、しかも実行に移した神が他にいるでしょうか? イエス様を信じる人々は、他の神々を信じません。これもまた、社会から憎まれてしまう理由です。「他の宗教を認めようとしないキリスト教は頭が固い」と批判されることもあります。

 たしかに、他の宗教を認めたり、他の神々の存在を認めたほうが、物分かりの良い人たちだと思ってもらえるかもしれません。しかし、少なくとも私には、十字架にかかってくださったイエス様よりも素晴らしい神様がいるとは思えないんです。この世界から完全に差別をなくせるお方、この世界に新しい時代をもたらすことのできる神様は、イエス様以外にいないと思うんです。だから私はイエス様だけを信じます。もしそのせいで、「頑固な人だ」と思われてしまうとしても、仕方ありません。もしそのせいで、「すべての人に憎まれ」てしまうとしても、悔いはありません。


「あなたがたではなく、聖霊です」

 今の日本では、教会が社会とぶつかるということは、あまりないかもしれません。私たち盛岡みなみ教会も、少なくとも今は、社会とぶつかるようなことはありません。それはそれで良いことかもしれません。ところが、もしも教会に与えられた使命が、この世界の壁を壊し続けることだとすれば、ぶつかるところが全くない、ということで良いのでしょうか。もちろん、社会から差別が無くなっているのだとすれば話は別です。差別がないなら、教会がぶつかるべき場所もありません。しかしこの日本に、この岩手県盛岡市に、盛岡みなみ教会がぶつかるべき壁は一つもないと言えるでしょうか。マルコ13章に戻って、9節から11節をお読みします。


9 あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。
10 まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。
11 人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

 イエス様は、「もしかしたら人々はあなたがたを地方法院に引き渡すかもしれません」とは言いませんでした。「あなたがたはもしかすると会堂で打ち叩かれるかもしれません」とも言いませんでした。イエス様に従うなら、これは必ず起こることです。避けられないことです。もしも私たち盛岡みなみ教会が、イエス様の教えに従う教会であり続けるなら、私たちも「用心して」いなければなりません。教会が教会であり続けるなら、この世界とぶつからなければならない日が必ず来ます。そして、そのようにして社会とぶつかった時こそ、私たちが福音を宣べ伝えるチャンスとなるんです。教会が社会とぶつかった時こそ、この社会の壁が打ち壊されていくチャンスだからです。だから私たち盛岡みなみ教会も、ぶつかることを恐れずに、「用心して」いたいと思います。

 「そんなことが自分にできるだろうか」と心配になるかもしれません。「社会とぶつかるようなことがあれば、自分はすぐに信仰を捨ててしまうのではないか」と不安になるかもしれません。頑固だと思われるのも、カルト宗教だと思われるのも、痛い目に遭うのも嫌だ。私もそうです。

 だからこそイエス様は、「何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい」と言ってくださったんです。臆病な私たちが、信仰の弱い私たちが、迫害の中でも信仰を守り通せるとすれば、それは私たちの意志の強さによるのではなく、聖霊様の助けによる。逆に言えば、どんなに私たちの意志が強いとしても、聖霊様の助けがなければ、必ずくじけてしまう。だから、「前もって心配するのはやめなさい。必要なものは、すべてその時に与えられる。心配するのはやめなさい。」

 私たちはよく「信仰を守る」という表現を使います。「社会の中にあって、自分たちの信仰を守る」というような言い方をします。この表現は間違いではありませんが、本当はその逆なのかもしれません。むしろ社会のほうが、自分たちを守っているのかもしれません。自分たちの古い価値観がひっくり返されてしまわないように、なんとかしてイエス様の福音を、キリスト者の信仰を押し潰し、古い社会のあり方を守ろうとしているのかもしれません。

 もうすぐ20周年を迎える私たち盛岡みなみ教会は、これからも福音を宣べ伝え続けます。この盛岡の地には、まだまだ壊すべき壁があるはずです。経済的な差別がまだまだあるでしょう。学歴や能力による差別もあるでしょう。社会から疎外された子どもたちや、高齢の方々も少なくありません。身体的・精神的な障がいを持つ方々が十分に理解されているとも言えません。そのような地にあって、私たちはこれからも、イエス様の福音を宣べ伝え続けます。ぶつかるべき時には、ぶつかっていきます。

 「わたしの名のために、 あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」私たちは臆病です。強い意志も持っていません。人から憎まれることを恐れ、人とぶつかることを恐れてしまう私たちです。けれども、聖霊様の助けによって、「最後まで耐え忍ぶ人」になることができます。この世界が新しく生まれ変わる、新しい時代が生まれる、その日が来ることを信じて、私たちは歩み続けます。20年の節目を越えて、これからもこの信仰を、この世界をひっくり返す神の福音を、証しし続ける教会でありたいと思います。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。神が人となり、十字架にまで謙ってくださった。この福音によって、私たちの価値観は新しくなりました。誰が偉いか、誰が劣っているか、そんなことはどうでも良くなりました。しかし今もなお、この世界には古い時代の力が残り、様々な差別が生き残っています。私たちキリスト者のうちにもなお、そのような価値観が横たわっているかもしれません。どうか神様、私たちの信仰を今一度奮い立たせ、臆病な私たちに力を与えてください。できることなら、何事もなく死んでいきたいです。けれども、ぶつかり、憎まれることが、イエス様の道であるならば、そしてその道が、真の意味で人々を愛し、この世界を愛する道であるならば、喜んでお従いします。ですからどうか、いつも私たちとともにいてください。聖霊様の助けを、惜しみなく与え続けてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。