マルコ13:3-8「産みの苦しみの始まり」(宣愛師)

2024年4月28日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』13章3-8節


3 イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。
4 「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」
5 それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。
7 また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。
8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。



「世の終わりなんて来ないじゃないか!」

 週報に毎週載せているコラムで、“キリスト教弁証論”についての連載を始めることにしました。“キリスト教弁証論”というのは、キリスト教に対する疑問や批判に答えるための議論です。今週のコラムでは「神は存在するのか?」という問いについて書きました。すでに神様やイエス様を信じている人には必要のないものだと思われるかもしれませんし、神様やイエス様を信じるためにすべての疑問を解決する必要もないわけですが、それでも他の人にキリスト教を伝えるためには、“弁証論”について学んでおくのは良いことだと思います。また、他の人に伝えるためだけでなく、自分自身の信仰を深めるためにも、“弁証論”について勉強しておくのは有益だと思います。

 今日の説教でも、キリスト教に対する一つの批判を取り扱いたいと思っています。その批判というのは、「聖書には『世の終わりが来る』と書いてあるのに、世の終わりなんて来ないじゃないか」というものです。「世の終わりなんて来ないじゃないか!聖書には『世の終わりにキリストが再び来て、この世界を裁く』と書いてあるのに、聖書が書かれてから二千年近く経った今でも、世の終わりなんて全然来ないじゃないか!聖書もキリストも嘘つきじゃないか!」と。

 この批判に答えるためには、そもそも「世の終わり」とは何なのか、聖書には何と書かれているのか、ということを確認する必要があります。「世の終わり」に関係する聖書の箇所はいくつかありますが、中でも特に重要なのがマルコの福音書13章です。まず本日は、3節から8節までの部分をご一緒に見ていきたいと思います。3節から8節までを改めてお読みします。


3 イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。
4 「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」
5 それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。
7 また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。
8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。

 こういう聖書箇所を読むと、多くの人は「世界の滅亡」とか「世界の終わり」のようなものを想像します。戦争が起こり、地震が起こり、飢饉が起こり、ついにこの世界は滅びてしまうのだ、みたいなことを想像します。少し怖い気持ちになる人もいるでしょう。しかし、イエス様がここで仰ったのは、「世界の滅亡」とか「世界の終わり」の話ではないんです。ここでイエス様が話している「終わり」というのは、「世界の終わり」ではなく、「エルサレム神殿の終わり」です。

 イエス様がエルサレム神殿の滅亡を予告したのは紀元30年頃のことですが、エルサレム神殿が滅びたのは、それから約40年が経った紀元70年のことでした。世界一美しいとまで言われたあの立派な神殿は、イエス様の予告通り、一つの石を残すこともなく崩れ去ってしまったんです。

 紀元30年頃から紀元70年までの間に、たくさんの“偽メシア”が現れました。「私こそメシアだ」「私こそキリストだ」「私についてこい」と言って多くの人を惑わし、「今こそローマ帝国を滅ぼす時だ!」と言って、何度も反乱戦争を起こそうとしました(使徒5:36-37など)。また、紀元40年頃から50年頃の間には、世界中で大飢饉が起こりましたし(使徒11:28など)、イタリア半島のポンペイ大地震を始めとして、地中海世界では何度も地震が起こりました。イエス様が仰った通り、紀元30年頃から紀元70年までの40年間というのは、戦争や地震や飢饉だらけの暗い時代でした。

 しかしイエス様は、「うろたえてはいけません」と仰ったんです。「そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません」と仰ったんです。偽メシアたちが現れて、「今こそローマ帝国を滅ぼす時だ!」と言って人々を惑わしても、あなたがたは惑わされるな。あなたがたが為すべきことは、偽メシアたちが行う反乱戦争に参加することではなく、福音を伝えることだ。地震が起こり、飢饉が起こり、世界中が不安の中にある時こそ、あなたがたは自分たちの為すべきことに集中しなさい。戦争ではなく、愛のわざを行い、神の国の福音を伝え続けなさい。


「産みの苦しみの始まり」

 以前にも週報のコラムで書いたことがありますが、聖書が語る「世の終わり」というのは、「世界の終わり」とか「地球の滅亡」のことではありません。聖書が語る「世の終わり」というのは、「世界の終わり」ではなく「時代の終わり」なんです。古い時代が終わって、新しい時代が始まる。これが「世の終わり」です。しかし、多くの人はこれが「世界の滅亡」のことだと誤解しています。

 ギリシャ語には「世」と翻訳される言葉が二つあります。一つは κόσμος(コスモス)という言葉で、「世界」とか「宇宙」という意味です。英語でも、宇宙のことを cosmos と言います。たとえばヨハネの福音書3章16節には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と書かれていますが、ここで「世」と翻訳されているのは κόσμος です。

 しかし、聖書に「世の終わり」という表現が出てくる場合、それは「κόσμος の終わり」という表現ではありません。「κόσμος の終わり」ではなく、「αἰών(エオーン)の終わり」なんです。αἰών というのは、「世界」とか「宇宙」ではなく、「時代」を意味する言葉です。つまり、「世の終わり」というのは、「世界の終わり」とか「宇宙の終わり」ではなく、「時代の終わり」という意味なんです。古い時代が終わり、新しい時代が始まる。古い権力者たちが支配する古い時代が終わり、イエス様がこの世界を支配してくださる新しい時代が始まる。それが、聖書が語る「世の終わり」です。だから、「産みの苦しみ」なんです。エルサレム神殿の滅亡は、新しい時代が始まったことの証拠でした。エルサレム神殿の権力者たちではなく、イエス様こそがまことの支配者だということが明らかになったんです。

 あの美しい神殿は、権力者たちの悪の巣窟になっていました。エルサレム神殿の権力者たち、祭司長たちや長老たちと呼ばれていた人々は、貧しい人々を虐げ、土地や財産を奪い、自分たちの私腹を肥やしていました。もちろん神様は、彼らに対して「悔い改めなさい」と語り続けます。彼らのもとに預言者たちを遣わし続けます。しかし、彼らの罪は留まる所を知りませんでした。マタイの福音書23章で、イエス様は次のように仰いました。マタイ23章の37節と38節。


23:37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。

 「おまえたちの家」というのは、エルサレム神殿のことです。本当は「神様の家」だったはずのエルサレム神殿は、もはや「権力者たちの家」になってしまった。イエス様は、エルサレムが滅びることを望んではおられませんでした。できることなら悔い改めてほしかった。しかし、彼らは預言者たちを殺し続けました。悔い改めることを拒否し続けました。そしてついに、最後の預言者であるイエス様のことも殺してしまった。これがエルサレムの罪の根深さでした。

 イエス様は、古い時代の力によって殺されてしまいました。しかし、だからこそイエス様の復活は、新しい時代の始まりだったんです。イエス様の十字架の死は、ただの苦しみではなく、ただの敗北ではなく、「産みの苦しみ」だったんです。ただ苦しまなければならない苦しみではなく、新しいいのちが生まれるために苦しむ苦しみだったんです。

 私たちの人生も、苦しみの多い人生です。苦しみを避け続けることなんてできない人生です。だとすれば、せっかくなら、イエス様のために苦しみたいものです。イエス様のために、イエス様とともに、新しい時代の始まりのために、この苦しみを苦しみたいものです。教会の皆で力を合わせて、新しい時代への希望を持って、この苦しみを乗り越えていきたいと思うんです。


「すべての人に言っているのです」

 さて、ここまでの話を聞いてくださった皆さんの中には、このような疑問を持った方もいるかもしれません。「マルコ13章でイエス様が予告したのが、エルサレムの滅びだということは分かった。エルサレム神殿の権力者たちが支配する時代が終わり、イエス様が支配する新しい時代が始まったということも分かった。でも、それがエルサレムについての話だとしたら、私たちにはあまり関係がないんじゃないか? 現代の日本に住む私たちには関係のないことじゃないか?」

 たしかに、マルコ13章で予告されているのは、「世界の滅亡」ではなく、「エルサレムの滅亡」です。しかし、エルサレムで起こることは、やがて全世界で起こることなんです。当時のユダヤ人が書いたとされる『ベニヤミンの遺訓』という文書がありまして、ユダヤ教徒が書いた部分とキリスト教徒が書いた部分が混ざっている文書なんですが、そこには次のような言葉があります。


そして主は、その不正の故にイスラエルを最初に裁かれる。彼が受肉の神として現れ、あなたたちを自由にしようとした時に、彼らは彼を信じなかったから。それから主は、すべての民族を裁かれる。彼が地上に現れた時に、彼らが信じなかったから。

『十二族長の遺訓』「ベニヤミンの遺訓」20-21節(=10章8-9節)の拙訳。ギリシャ語原文は https://issuu.com/ianbal/docs/greek_-_testament_of_benjamin を参照した。

 『ベニヤミンの遺訓』はキリスト教の正典ではありません。しかし、当時のユダヤ教徒やキリスト教徒の考え方を知ることができるという意味では、とても重要な文書です。「主は、その不正の故にイスラエルを最初に裁かれる。……それから、主はすべての民族を裁かれる。」イスラエルの首都であるエルサレムがその罪の故に裁かれたなら、やがてすべての民族も同じように、自分たちの罪の故に裁かれるんです。神様はまず、最も聖なる場所から裁きを始めました。最も聖なる場所であったはずのエルサレムから裁きを始め、続いて世界中の国々を裁こうとされているんです。旧約聖書のエゼキエル書9章4節から6節、または新約聖書のペテロの手紙第一4章17節などにも、“裁きは聖なる場所から始まり、周りに広がっていく”という考え方を確認することができます。

 だからイエス様も、マルコ13章の最後の部分で次のように言われました。13章37節。


13:37 わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」

 マルコ13章でイエス様がお語りになったのは、「世界の滅亡」ではなく、「エルサレムの滅亡」でした。しかしその裁きは、エルサレムだけで終わる裁きではありませんでした。エルサレムから始まって、やがて全世界に広がっていく裁き。世界中の国々に広がっていく裁き。ある人々は、「世の終わりなんて来ていないじゃないか!」と批判します。たしかに、「世の終わり」はまだ完全には来ていません。この世界には未だに、古い時代の力が残り続けています。しかしそれでも、「世の終わり」は始まっているんです。この二千年間、イエス様は何もせずぼーっと座っておられるのではありません。この二千年間ずっと、イエス様は世界中を裁き続けておられるんです。

 この4月で中学生になったみなさんは、小学校の時より勉強の量が増えて大変だと思いますが、その中でも特に、「歴史」に関する勉強は、覚えることが多くてなかなか大変になると思います。幸いなことに、盛岡みなみ教会には歴史好きというか、歴史オタクというか、そういう頼もしい人たちがたくさんいるので、分からないことは大人たちに聞いてみたら良いと思います。

 私自身は、歴史にはあまり詳しくはないので、これからたくさん勉強しなきゃいけないなあと思っていますが、それでも一応、子どもたちの少し先輩として、もしくは教会の伝道師として、歴史を学ぼうとしている皆さんに、一つのアドバイスをしたいと思います。それは、この世界の歴史を学ぶ時には、いつでもどんな時でも、イエス様の裁きを覚えていてほしい、ということです。

 エルサレム神殿を滅ぼしたのは、ローマ帝国という当時最強の帝国でした。では、エルサレムを滅ぼしたそのローマ帝国は、いつまでも続いたのでしょうか? そんなことはありません。当時最強の国だったあのローマ帝国でさえ、いつまでも続くと思われたあのローマ帝国でさえ、やがて滅ぼされていったんです。もっと最近のことで言えば、ナチス・ドイツと呼ばれる国が侵略戦争をして、ヨーロッパ大陸の半分くらいを支配したことがありましたが、やはり最後には戦争に負けて崩壊しました。私たちが今住んでいるこの日本も、大日本帝国という名前を名乗って、アジアの国々を支配していましたが、最後にはやはり戦争に負けました。

 もちろん、戦争に負けた国々がみんな悪い国だったとは限りません。その逆に、戦争に勝った国々はみんな正しい国々だったというわけでもありません。エルサレムを滅ぼしたローマ帝国も、様々な罪が蔓延る国でした。第二次世界大戦に勝利したアメリカやイギリスも、罪の多い国々です。自己中心的な植民地支配や奴隷制など、多くの罪を犯してきました。ですから、もし悔い改めないのなら、これらの国々も全て、エルサレムと同じようになります。必ずそうなります。そのようにして、イエス様はこの世界に、新しい時代をもたらし続けてくださっているんです。

 今も、戦争の多い時代です。日本では大きな地震も頻発しています。いわゆる「第三諸国」に目を向ければ、地球温暖化による飢饉に苦しむ人が増えています。旧統一教会など、偽物のキリスト教に苦しめられている方々もたくさんおられます。「いつになったら世の終わりが来るのだろうか」と、私たちも問わざるを得ません。「いつになったらイエス様は来てくださるのだろうか」「主よ、本当に来てくださるのですか」と、私たち自身が不安になることもあるでしょう。

 しかし、イエス様は今も働いておられます。不安だらけの今の時代にも「終わり」をもたらし、新しい世界を広げていくために、イエス様は今も私たちのために働いてくださっています。ですから私たちも、偽物たちに惑わされることなく、戦争や災害にうろたえることもなく、イエス様とともに、なすべきことをなしていきましょう。希望を失いかけている方々の友となって、不安に押し潰されそうになっている方々の隣人となって、「必ずなんとかなる。イエス様がなんとかしてくださる」という希望を伝え続けましょう。これが私たちの「産みの苦しみ」です。この苦しみをイエス様とともに苦しみ、兄弟姉妹とともに苦しむ、私たち教会の歩みでありたいと願います。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。エルサレムから始まったイエス様の裁きを、私たちは歴史の至るところにも見出すことができます。弱い人々を虐げる罪を見過ごすことがなく、虐げられている人々の叫びを聞き逃すこともない、あなたの確かな裁きによってこの世界の正義が保たれていることを、心から感謝いたします。まだまだ歪みが多く、罪の多い私たちの世界です。どうか、「産みの苦しみ」をともに苦しませてください。そして一日でも早く、古い時代が終わり、「御国が来ますように。」新しい朝が来ますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。