マルコ6:30-44「パンはいくつありますか」

2023年2月26日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』6章30-44節


30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。
31 するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。

32 そこで彼らは、自分たちだけで舟に乗り、寂しいところに行った。
33 ところが、多くの人々が、彼らが出て行くのを見てそれと気づき、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけて、彼らよりも先に着いた。
34 イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。
35 そのうちに、すでに遅い時刻になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところで、もう遅い時刻になりました。
36 皆を解散させてください。そうすれば、周りの里や村に行って、自分たちで食べる物を買うことができるでしょう。」
37 すると、イエスは答えられた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」
38 イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて来て言った。「五つです。それに魚が二匹あります。」
39 するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
40 人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。
42 彼らはみな、食べて満腹した。
43 そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。
44 パンを食べたのは、男が五千人であった。



「残らずイエスに報告した」

  本日の午後には教会総会がありますが、ちょうどこの日に、今日の聖書箇所が与えられたことは、神様の導きだと思いました。まずは30節と31節をお読みします。


30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。
31 するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。

 「使徒たち」が戻って来ました。「使徒たち」というのは、イエス様の十二人の弟子たちのことです。「使徒」という言葉には、“権威を預かって遣わされた者”というニュアンスがあります。たとえば、今の日本には外国の“大使館”というのが150個くらいありますが、そこにいる“大使”たちというのは、それぞれの国の権威を預かって、日本に来ている人たちです。アメリカの大使であれば、アメリカ合衆国という国の権威を預かった「使徒」として日本に来ている。彼らは当然、日本での活動を本国に報告します。「今の日本はこういう状況です」「私たちは先日、こういう活動をしました」と、自分たちの国に報告する責任があるわけです。それと同じことを、イエス様の弟子たちもしていた。

 子どもたちに「教会総会って何するの?」と聞かれたら、教会員のみなさんはなんと答えるでしょうか? 大抵の場合は、「えっとね、来年度のことを話し合って決めたりするんだよ」みたいな答えになるかと思いますが、この答えでは半分だけ正解、といったところでしょう。

 たしかに、来年度のことを話し合って決めることも、教会総会の重要事項です。しかし、その前に私たちが必ず行うことは、これまでの一年間の歩みを報告することです。しかも、単に人間と人間の間で報告し合うだけではなく、まずイエス様に対してご報告をする。30節にあるように、「自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告」するというのが、教会総会の大切な目的の一つです。なぜなら、教会の活動というのはすべて、イエス様の“権威”を預かった上で行うものだからです。私たちにはまず第一に、イエス様への報告責任があるんです。

 そう考えると、緊張してきたりもするわけです。「こんな報告して、イエス様にどう思われるかな…?」「なんでもっとしっかり働かなかったんだ!って怒られないかな…?」と、心配になる。でも、少なくとも十二人の弟子たちは、「さあ…しばらく休みなさい」と言っていただきました。

 教会総会の中で、来年度の計画について話し合って決めます。そうすると、「よし、2023年度はもっとがんばるぞ!」と、やる気がメキメキとみなぎってくるかもしれません。それはもちろん、とても素晴らしいことです。でも、「しばらく休みなさい」と言ってくださるイエス様の御声も、ありがたく受け取りたいと思うんです。大塚先生ご夫妻が福岡に行って、大きな変化の中を歩んだ一年だったけれど、イエス様がちゃんと守ってくださった。経済的にも心配が尽きない一年だったけれど、イエス様に信頼して歩んできた。病気や怪我で苦しむ仲間もいたけれど、励まし合って、なんとか乗り越えてきた。そういう教会の歩みをイエス様にご報告する。そして、しばらく休む。「おれたち一年がんばったよね」「皆で一緒に乗り越えたね」って、互いにいたわり合うことも、大切なことだと思うんです。それもまた、教会総会という集まりの大切な目的だと思うんです。


「羊飼いのいない羊の群れ」

 ところが、休んでばかりもいられないんですね。32節から34節。


32 そこで彼らは、自分たちだけで舟に乗り、寂しいところに行った。
33 ところが、多くの人々が、彼らが出て行くのを見てそれと気づき、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけて、彼らよりも先に着いた。
34 イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。

 弟子たちは舟に乗って、休めそうな場所を探しに行きました。もしかしたら、イエス様も弟子たちと一緒に舟に乗っていたのかもしれません。すると、群衆たちがやって来て先回りするんです。「おいおい、これじゃ休めないじゃないかよ…」と、弟子たちは愚痴をこぼしたかもしれません。「イエス様、どうしましょうか…? 今日は疲れたので帰ってくださいって、帰らせちゃってもいいですか…?」と、ヘトヘトの弟子たちは提案したかもしれません。

 イエス様だって、できれば弟子たちを休ませてあげたいと思ったはずです。イエス様ご自身も、日々の働きで疲れを覚えておられたかもしれない。でも、大勢の群衆をご覧になって、イエス様のもとに必死で集まって来る人々の顔を見て、イエス様はあわれみで胸がいっぱいになった。

 「彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので」とあります。羊飼いのいない羊の群れ。凶暴な狼が襲ってくるのに、守ってくれる羊飼いがいない。お腹が空いてペコペコなのに、青草がある場所に連れて行ってくれる羊飼いがいない。自分たちが進むべき道も、帰るべき場所も、羊飼いがいなければわからない。路頭に迷ってしまって、「イエス様、私たちはどうやって生きていけばいいんですか」と、必死に求める。

 「羊飼い」というのは、聖書の中では、“王様”を指す比喩として使われます。彼らは真の王様を求めていたんです。ガリラヤを支配していたヘロデ・アンティパスは、自分たちを助けてくれるどころか、虐げ苦しめてくる。頼りにしていたバプテスマのヨハネも、殺されていなくなってしまった。「もう誰も、おれたちを導いてくれないんです。守ってくれないんです。」そんな群衆たちを見て、イエス様は居ても立っても居られなくなった。

 「イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。」マルコでは「多くのこと」と書かれていますけれど、ルカのほうでは、「神の国のこと」と書かれています(9:11)。イエス様は「多くのこと」を教えましたが、それは全て「神の国のこと」でした。

 「神の国」というのは、“どこか遠くにある天国”のことではありません。「神の国」というのは、「神様が王様になってくださる」ということです。「神様が王様になってくださるから、安心しなさい」ということです。どうやって生きていけばいいのかわからない。誰も守ってくれない。誰も導いてくれない。でも、神様がいるから大丈夫。神様が必ず、あなたたちの王様になってくださる。あなたたちの羊飼いになってくださる。だから大丈夫。心配するな。


「パンはいくつありますか」

 そんなイエス様の教えを聞いていると、気づけば日が暮れるような時間になってしまいました。35節から37節。


35 そのうちに、すでに遅い時刻になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところで、もう遅い時刻になりました。
36 皆を解散させてください。そうすれば、周りの里や村に行って、自分たちで食べる物を買うことができるでしょう。」
37 すると、イエスは答えられた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」

 「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」これは、今の言葉で言えば“無茶振り”というやつです。「いやいや、何を言ってるんですか、イエス様!この人たち全員の分の食糧を、私たちに用意しろって言うんですか?」44節に書いてあるように、群衆たちの数は男性だけでも五千人。もしかしたらそれに加えて、女性や子どもたちもいたかもしれません。五千人を超える分の食糧です。「二百デナリ」というのは、今の日本円に換算すると、100万円とか200万円くらいの金額です。「そんなにたくさんのお金、そもそもおれたち持ってないですし、お金があったとしても、そんなにたくさんのパンを買い集めて持って来いなんて、いくらなんでも無茶ですよ!」

 ところがイエス様は、「別に、買いに行けなんて言ってないよ」と。38節から44節。


38 イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて来て言った。「五つです。それに魚が二匹あります。」
39 するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
40 人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。
42 彼らはみな、食べて満腹した。
43 そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。44 パンを食べたのは、男が五千人であった。

 「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」弟子たちは仕方なく確かめに行きました。「いやいや、数えたってしょうがないでしょ」と思ったでしょう。「早く休みたい」と思ったはずです。「五つです。それに魚が二匹あります。」ほら見たことか、全然足りないじゃないですか。ヨハネの福音書では次のように書かれています。「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」(ヨハネ6:9)

 しかし、イエス様はたった五つのパンと二匹の魚を取って、何をしたか。神をほめたたえた。神様を賛美したんです。弟子たちは、「これが何になるんだ」と文句を言っていたのに、イエス様は神様に感謝をささげたんです。私たちはついつい、「これが足りない、あれが足りない、こんな少しだけじゃ何にもならない」と言って、文句を言います。愚痴を言います。不安になります。「イエス様、これしか持ってないんですよ。これじゃダメですよ」と。でもイエス様は、私たちが文句を言ってバカにしたそのパンと魚を取って、すべての人の必要を満たされるんです。

 40節を読んでみると、「百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った」と書かれています。私はこの箇所を読む度に、なんだか教会みたいだなあ、と思うんです。日本の場合は特に、「百人」とか「五十人」くらいの教会がほとんどです。もちろん、三十人とか十人とかの教会もありますし、少ないところだと数人だけという教会もありますけれど、とにかくみんながそれぞれの場所でまとまって座っていて、パンを裂くイエス様の姿を見ている。イエス様がくださるパンを、皆で集まって待っている。皆が路頭に迷っていた。暴力に怯えていた。お腹を空かせていた。でも「ここに座っていなさい」ってイエス様に言われたから、みんなまとまって座っている。イエス様がパンをくださると聞いて、信じて、座っている。

 教会総会では、2022年の決算の報告と、2023年の予算の審議があります。特に予算については、会計担当のMさんが苦労しながら、調整しながら作成してくださいましたが、やっぱりかなり厳しい。今はまだ繰越金もあるけれど、このまま普通にいけば、あっという間にマイナスになってしまう。「パンはいくつありますか」と聞かれれば、「ぜんぜん足りません」と報告するしかない状況です。

 イエス様は、パンの数をわざわざ弟子たちに数えさせました。「五つしか無い」ということを、「このままではどう考えても足りない」ということを、あえて弟子たち自身に確かめさせたんです。どれだけ計算し直しても、どれだけ予算を作り直しても、このままではどう考えても足りないと、Mさんに心配の種とストレスを与えている張本人は、ほかの誰でもない、イエス様ご自身なんです。しかし、たとえ今は「足りない」のだとしても、来年の決算はどうなっているでしょうか。再来年はどうでしょうか。十年後は、二十年後は、パンの数はいくつになっているでしょうか。

 私たちは、“いま自分たちが持っている物の少なさ”を見て、心配する必要は無いんです。むしろ、私たちが持っているものが少なければ少ないほど、イエス様は大きな御業を成ことができます。「パンはいくつありますか。」「五つしかありません。全然足りません。でも、イエス様がなんとかしてくださいますよね?」このような信仰を持つことができるように、このような真の平安を知ることができるように、これからも皆さんとここに集まり続けて、主の御業を待ち望みたいと思います。お祈りをします。


祈り

 神様、私たちは神の国を求めます。あなたが私たちの王となり、羊飼いとなってくださることを切に願い求めます。いや、あなたはすでに、私たちの王であり、羊飼いです。それなのに私たちは食べ物の心配をし、お金の心配をし、将来の心配をしてしまいます。どうぞ、私たちの不信仰をお赦しください。「このままじゃ足りない」と思える時にこそ、あなたの御業に期待して待ち望む、確かな信仰を持つことができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。