マルコ13:1-2「崩れ去る神殿」(宣愛師)

2024年4月14日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』13章1-2節


1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」



「なんとすばらしい建物でしょう」

 最初に、一つの動画をご覧いただきたいと思います。イエス様の時代に建っていたエルサレムの神殿が、いかに美しく立派なものだったのかがよく分かる映像です。もちろん、二千年前にはビデオカメラなどありませんから、当時の様子を3D映像で再現したものですが。

 この映像をご覧いただいた上で、改めてマルコ13章の1節と2節をお読みしたいと思います。


1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

 「なんとすばらしい石、なんと素晴らしい建物でしょう。」こう言いたくなる弟子たちの気持ちがお分かりいただけたでしょうか。ゼルバベルという人が建設し、ヘロデ大王という人が増築していたこの見事な神殿、通称“第二神殿”は、当時の世界で最も美しく、最も立派な建物とさえ言われていました。ある人は、エルサレム神殿で使われている金があまりにも輝いているので、目を開けていることができなかった、と記録しています。また、エルサレム神殿で使われていた石は、一つの石だけでも数十メートルの大きさがあった、という記録も残っています。イエス様の弟子が、「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と口に出すのもよく分かる、実に見事な建物でした。

 しかしイエス様は、「この神殿も崩れ去る」と言われたんです。そして実際に、永遠に立ち続けると思われていたこの神殿も、あっけなく滅ぼされてしまったんです。イエス様のこの予告から約四十年後、紀元70年頃に起こったユダヤ戦争によって、ローマ帝国がエルサレムの街を滅ぼし、この神殿も滅ぼしてしまいました。今でもエルサレムには「西の壁」とか「嘆きの壁」と呼ばれる壁が残っていますが、神殿の壁が残っているというよりも、建物の基礎の部分がかろうじて残っただけで、エルサレム神殿そのものは跡形もなく崩れ去っています。イエス様が予告された通り、全てが滅ぼされたんです。


「鉄の道具を当ててはならない」

 イエス様はなぜ、エルサレム神殿の崩壊を予告されたのでしょうか。なぜ、この神殿は滅びなければならなかったのでしょうか。そもそも神様はどうして、神殿というものをお作りになったのでしょうか。イエス様の時代の神殿は“第二神殿”と呼ばれた神殿でしたが、『第二サムエル記』には、“第二神殿”よりも前の最初の神殿、“第一神殿”が建てられた時の記録が残されています。少し長い箇所ですが、第二サムエル記の7章1節から7節までをお読みします。


1 王が自分の家に住んでいたときのことである。主は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた。

2 王は預言者ナタンに言った。「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」
3 ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」

4 その夜のことである。次のような主のことばがナタンにあった。
5「行って、わたしのしもべダビデに言え。『主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。
6 わたしは、エジプトからイスラエルの子らを連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、天幕、幕屋にいて、歩んできたのだ。
7 わたしがイスラエルの子らのすべてと歩んだところどこででも、わたしが、わたしの民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、「なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか」と、一度でも言ったことがあっただろうか。』……」

 神様はもともと、神殿なんてものを求めていなかったんです。神様はいつも、「会見の天幕」という幕屋に住んでおられました。「天幕」というのは、テントのことです。イスラエルの民がテントを張りながら荒野を旅をしていた時、神様も人々と一緒にテントを張って、人々と一緒に旅をしてくださいました。一緒に寝泊まりをしてくださったんです。そして、イスラエルの民を、周りの敵たちから守り続けてくださったんです。しかし、ダビデが王様になった時、「神様のために神殿を建てたい」と言い始め、ダビデの息子のソロモンもまた、「ほかの国のように大きな神殿を建てたい」と言い始めたので、神様はしぶしぶそれをお認めになったんです。

 でも、神様はやっぱり、立派な神殿なんてものは要らなかったんです。そもそも、人間がどんなに大きな神殿を造ったとしても、神様にとっては小さすぎるでしょう。神様はただ、人間たちと一緒にいたかっただけなんです。人間たちと一緒にテントを張りたい神様なんです。

 本当は、立派な神殿なんてなくても、神様を礼拝することはできたはずなんです。本来の礼拝のあり方について、申命記の27章には次のように書かれています。4節から6節まで。


4 あなたがたがヨルダン川を渡ったら、私が今日あなたがたに命じるこれらの石をエバル山に立て、それに石灰を塗りなさい。
5 そこに、あなたの神、主のために祭壇を、石の祭壇を築きなさい。それには鉄の道具を当ててはならない。
6 自然のままの石で、あなたの神、主の祭壇を築かなければならない。

 先月行われた日本同盟基督教団の教団総会で、新しく理事長に選ばれた吉持日輪生(よしもち ひわお)先生がこの箇所を開いて、こんな説教をしてくださいました。「なぜ神様は、石の祭壇に鉄の道具を当ててはならない、と言われたのか。鉄の道具を当てて形を整えた石のほうが、頑丈で崩れにくい祭壇が作れるのに、なぜそうされなかったのか。それはおそらく、崩れるような祭壇で良い、ということなのだろう。崩れても、また一つ一つ積み上げていけば良い、ということなのだろう。」

 このように話されたあと、吉持理事長は、過去に働いていた教会での話をしてくださいました。あることがきっかけで、その教会で分裂が起こってしまった。順調に人数も増えて、成長していると思っていた時に、教会から半分近い教会員が出ていくことになってしまった。牧師として、大変悩んだと言います。しかしその頃、この申命記の箇所を読んでいた時に、崩れない祭壇ではなく崩れる祭壇を作れ、と言われた神様のみことばが心に留まったのだそうです。崩れてしまっても、また一つ一つ積み上げていけばいいのだ、と思えたのだそうです。

 私たちはどうしても、崩れないもののほうが良いと思い込んでしまうでしょう。崩れないものを積み上げて、人生を確かなものにしていこう、と考えるものです。「人生のキャリアを積み上げる」という表現が使われることもあります。「お金をこつこつ積み立てましょう」と言われることもあるでしょう。勉強も、「こつこつ積み上げていかないとすぐに他の人に置いていかれる」などと言われて、私たちは焦ってしまうものです。キャリアだろうと、貯金だろうと、勉強だろうと、上手く積み上げられていないと思うと、心配になる。自分よりも他の人のほうがしっかりと積み上げているように見えたりすると、どうしようもなく不安になったりする。そして時に、せっかくがんばって積み上げてきたものが、一日にして崩れ去ってしまう、ということも起こる。

 しかし神様は、「崩れたっていいじゃないか」と仰るんです。「崩れないようなものを作らなくていいじゃないか」と仰るんです。「わたしがあなたと一緒に旅をして、あなたのすぐ隣に幕屋を張って、いつでもあなたを守ると約束しているのだから、それだけで十分じゃないか。他の人と比べなくてもいいじゃないか。崩れてしまったら、わたしと一緒にやり直せばいいじゃないか。」


「この神殿を壊してみなさい」

 これまた少し長い箇所ですが、ヨハネの福音書2章の13節から21節までをお読みします。


13  さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」
19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」
20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」
21 しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。
22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。

 エルサレム神殿が滅ぼされたのは、神様を礼拝するはずの神殿が、「商売の家」になってしまっていたからでした。「商売の家」と言っても、動物を売ったり買ったりすることが悪いことだったわけではありません。このエルサレム神殿そのものが、貧しい人々を虐げたり、お金を搾取するような、罪深い神殿になってしまっていた、ということです。イエス様はもはや、エルサレム神殿を神殿として認めませんでした。イエス様は、この神殿に替わる新しい神殿を造ろうとされていたのです。十字架と復活の力によって、イエス様ご自身が神殿になろうとしておられたのです。

 ローマ帝国によってエルサレム神殿が滅ぼされた時、多くのユダヤ人たちは絶望しました。決して崩れ去ることがないと信じていたあの神殿が、滅ぼされてしまった。一部のユダヤ人たちは、エルサレム神殿が侵略されたと聞いた時、集団自決を決意しました。つまり、自分たちで自分たちの命を絶つということを決意したんです。それくらいに、あの神殿に対するユダヤ人たちの信頼は厚かったんです。あの美しく輝く神殿は、決して崩れ去ることなく、いつまでも自分たちを守ってくれる、と信じ切っていたんです。

 私たちはどうでしょうか。崩れ去る物に、絶対的な信頼を置いてしまっていないでしょうか。自分のキャリア、自分の貯金、自分の学力、どれもこれも、すぐに崩れ去るものです。もちろん、キャリアも貯金も学力も大切です。積み上げていけば、それなりの安心を得られます。しかし、「これさえあれば大丈夫」と本気で信じているとすれば、不安な人生だと言わざるを得ません。

 教会も同じです。今日の午後に開かれる役員会では、この礼拝堂の火災保険や地震保険についても話し合う予定です。この礼拝堂も、今はこんなに立派に建っていますけれども、いつ何があるかは私たちには分からないわけです。何かの拍子で、あっという間に火が回り、焼け崩れてしまって、借金だけが残ってしまう、ということもあるかもしれません。

 もしくは、吉持理事長が牧会していた教会で起こったように、私たち盛岡みなみ教会でも、分裂のようなことが起こって、皆で積み上げてきたものが見事に崩れ去る、ということがあるかもしれません。少しずつ人数も増えていって、やっとのことで経済的にも安定してきたぞ、と思った矢先に、トラブルが起こってあっという間に崩れてしまう、ということも無いとは言えません。

 しかし、それでも私たちは絶望しません。なぜなら、私たちの信頼は、死者の中から復活されたイエス様にあるからです。壊れることのない神殿ではなく、壊されてもよみがえる神殿です。一度崩れてしまえば二度とやり直しが効かなくなるような、そんなものではないんです。私たちの罪のために十字架にかかり、死の力を打ち破ってくださったイエス様は、私たちが失敗しても、罪を犯しても、何度でも何度でもやり直させてくださるお方です。

 ですから、美しさや立派さに目を奪われてはいけません。高さや強さに囚われる必要もありません。大切なのは、どれだけ高く積み上げているかではなく、イエス様と一緒に積み上げているかどうかです。「崩れても大丈夫だよ、また一緒にやり直せば良いんだよ」と言ってくださる方が、ともにいてくださるかどうかです。立派な建物を建てなくても良いんです。崩れるような祭壇で良いんです。小さく、脆く、壊れやすい、私たちの危なっかしい歩みですけれども、イエス様と一緒なら、また一から、いや、ゼロからでも、やり直せるからです。ご一緒に祈りましょう。


祈り

 私たちの父なる神様。崩れることのないものを求めてしまう私たちです。あれこれと人生設計をして、色々なものを積み立ててみては、上手くいかずに落ち込んだりする私たちです。私たちの人生は、なんと儚いものでしょうか。なんと崩れやすいものでしょうか。しかし、あなたがともにいてくださるなら、何度でもやり直せると分かりました。あなたの力によって、あなたの赦しによって、何度でも再スタートできます。どうか、この世の立派さや美しさにではなく、あなたの復活の力に信頼して歩むことができますように。この盛岡みなみ教会も、あらゆる面で小さく脆い教会ですけれども、それでも安心して、平安のうちに歩んでいくことができるように、あなたへの信仰を今一度お与えください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。