マルコ3:1-6「彼らは黙っていた」

2022年9月4日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』3章1-6節


1 イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。
2 人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3 イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」
4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。
5 イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。
6 パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。


“枯れてしまった手”

 早速ですが、まずは1節をお読みします。


1 イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。

 「片手の萎えた人」。つまり、“何らかの理由で片手が動かなくなった人”です。ギリシャ語から直訳すると、「枯れてしまった手を持つ人」という言葉です。枯れてしまった手、もう動かせなくなってしまった腕。とある言い伝えによれば、この人はもともと“職人”をしていた、と言われます。手に職をつけて、腕に磨きをかけて、家を建てたり家具を作ったりしていたのかもしれません。そんな時に、事故か病気かは分かりませんが、腕が動かなくなった。

 「じゃあ、ほかの仕事を探せばいいじゃないか」と思うかもしれませんが、そう簡単に新しい仕事が見つかるわけでもありません。今の時代も仕事を探すのは簡単なことではありませんが、当時の世界では、特に身体障害者ができる仕事は今以上に少なかったですし、手足が動かないというだけで差別されることもありました。「枯れてしまった手」は、この人の人生そのものを象徴しているかのようです。もはや喜びはない。生きがいもない。枯れてしまった人生。

 そんな人が会堂の中にいて、寂しそうに座っているわけです。もし、そんな人が教会に来たら、みなさんはどうするでしょうか。気の利いたことを言って励ます、なんてことは流石に難しいとしても、困ったことがあれば助けてあげたいな、くらいには思うでしょう。ところが、そのような気遣いとか優しさを、完全に忘れてしまったかのような人々がいたんです。2節をお読みします。


2 人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。

 「人々は……じっと見ていた。」何のために「見ていた」のでしょうか? 片手の萎えたこの人をかわいそうに思い、「イエス様、どうかこの人を治してあげてください…!どうかこの人に目を留めてあげてください…!」という切実な思いで、イエス様を「じっと見ていた」のでしょうか? そうではありません。彼らがイエス様を見つめていたのは、片手の萎えた人をかわいそうに思ったからではなく、「イエスを訴えるため」でした。もはや、彼らの中には、“あわれみの心”なんてものはありません。“苦しむ人への気遣い”なんてものはありません。彼らの中にあるのはただ、「イエスを訴えたい。イエスという邪魔者を排除したい」という、憎しみと嫉妬だけです。

 2節の最初で「人々」と呼ばれているのは、「パリサイ人たち」のことです。先週の聖書箇所、たとえば2章の24節に書かれているように、「パリサイ人たち」というのは、「安息日」を徹底的に守ろうとしていた人々でした。「安息日には、何が何でも絶対に働いてはいけない!たとえお腹が空いていたとしても、麦を手で取って食べてたりしてはいけない!なぜなら、それは仕事だから!病気の人がいたとしても、安息日には治療してはいけない!なぜなら、それは仕事だから!」

 しかし、先週の説教でも確認したように、「安息日」というのは元々は、〈何が何でも仕事をしてはいけない日〉とか〈何が何でも休まなければならない日〉ではなく、むしろ〈休みたくても休めない人を休ませなければならない日〉です。申命記5章14節をお読みします。


5:14 七日目(安息日)は、あなた(イスラエル人たち)の神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。

 安息日は、あわれみの日なんです。奴隷たちを休ませてあげる日なんです。苦しみの中にある人々を、苦しみの中から解放してあげるための日なんです。それなのにパリサイ人たちは、安息日において最も大切な“あわれみ”を忘れてしまっていた。「片手の萎えた人」が目の前にいるのに、そして、その人の苦しみを癒やすことができるお方が、すぐそこにいるというのに、パリサイ人の頭の中は「イエスを訴える」ことで一杯なんです。「我々パリサイ人の信仰を脅かすこの男を、我々の伝統を破壊するこのイエスという男を、何としてでも排除しなければ…!」


「彼らは黙っていた」

 マルコの福音書3章に戻りましょう。3節をお読みします。


3 イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」

 当時の「会堂」というのは、真ん中には絨毯のようなものが敷かれ、外側の壁際には階段状のベンチのようなものが置かれる、というものだったようです。真ん中の絨毯に座る人もいれば、壁際のベンチに腰掛ける人もいる。そう考えると、「片手の萎えた人」はたぶん、壁際の端っこの方に座っていたんじゃないかな、と想像できます。さきほどもお話したように、身体に障がいを持っているということは、当時の世界では差別の対象ともなり得たからです。少なくとも、片手が萎えていたこの人は、会堂の真ん中に堂々と座るようなことはしなかったでしょう。

 そんな彼に向かってイエス様は、「真ん中に立ちなさい」と言われました。彼を辱めるためでしょうか? もちろん違います。イエス様が彼を真ん中に呼んだのは、彼の「枯れてしまった手」をよみがえらせるため、そして、そのことによって、パリサイ人たちに真っ向勝負を仕掛けるためです。安息日の本来の意味を忘れ、自分たちの伝統にしがみついていたパリサイ人に対して、安息日の本来の意味をはっきりと分からせるためです。4節をお読みします。


4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。

 ここで「いのち」と訳されているギリシャ語(プシキー)は、単に“生命”を意味するというより、「たましい」とか、「人格」とか、「存在そのもの」と訳せるような言葉です。イエス様はこの人の「たましい」「人格」を救おうとしておられた。“枯れてしまった人生”を救おうとしておられた。

 イエス様の問いかけはシンプルでした。「安息日に律法にかなうのは、神の御心にかなうのは、善を行うことか、悪を行うことか? たましいを救うことか、見殺しにすることか?」小さな子どもでも、すぐに答えの分かる質問です。パリサイ人たちだって、正しい答えは分かったはずです。

 しかし、「彼らは黙っていた。」これが、パリサイ人たちの罪でした。「いのちを救うことです」という一言が出て来ないんです。「あなたの言うとおりです」という一言が言えないんです。パリサイ人たちにはプライドがありました。これまで何十年も何百年も守り続けてきた伝統がありました。だから、今さら自分たちの間違いを認めることなんてできない。

 しばらくの沈黙が続き、会堂は静まり返りました。誰も何も話さない。そして、5節と6節。


5 イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。
6 パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。

 イエス様が怒り、悲しまれたのは、パリサイ人たちが何か“失敗”をしたからではありません。彼らが何か“間違い”を犯したからでもありません。イエス様がお怒りになったのは、悲しまれたのは、彼らが「黙っていた」からです。イエス様は、“失敗”に対してすぐに怒り散らすような方ではありません。“間違い”に対してすぐにイライラするような方でもありません。“失敗”も、“間違い”も、寛大な心で赦してくださる方です。しかし、自分の“間違い”を全く認めようとせず、自分の“失敗”を反省しようともせず、悔い改めのチャンスが与えられても、心を頑なにし続ける、そのような人々に対しては、イエス様はお怒りになるんです。

 「ヘロデ党」というのは、「ヘロデ・アンティパス」という王様を支持していた人々のことです。ヘロデ・アンティパスという王様は、一応ユダヤ人ではあるんですが、宗教的には不真面目な人でしたし、ローマ人との繋がりで王様になれたような人だったので、パリサイ人からは嫌われていました。ですから本当は、パリサイ人とヘロデ党というのは、あまり仲の良くない人々だったはずなんです。しかし、「あのイエスという邪魔者を排除したい」という共通点によって、一致団結した。

 そして彼らは、「どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。」彼らがこの話し合いを始めたのは、おそらくまだ安息日の最中でした。「安息日にかなっているのは、いのちを救うことか、殺すことか」というイエス様の質問に対して、彼らは暗黙のうちに、「殺すことだ」と答えたのです。「私たちが間違っていました」という一言を言う代わりに、たくさんの言葉を用いて、イエスを殺す計画を立て始めたのです。


「あなたはいのちを選びなさい」

 私たちはどうでしょうか。家で聖書を読みながら、もしくは教会で聖書の説教を聞きながら、「黙って」しまう、ということはないでしょうか。もちろん、「説教中は静かにしましょう」とか、そういう話ではありません。神様からの問いかけに対して、パリサイ人のように「黙って」しまうということです。イエス様の言葉に対して、「あなたの言うとおりです。私が間違っていました」と言えずに、黙り込んでしまうということです。「だって、今までずっとこうやって生きてきたから」とか、「今さら間違いを認めるなんて無理だから」みたいな、“こだわり”みたいなものがあって、聖書の言葉に対して耳を閉ざす、口を閉ざす。

 本当は自分が変わるべきだ、ということ。本当は自分のこだわりやプライドを捨てるべきだ、ということ。そうすれば、今よりももっとのびやかな人間に、自由な人間になることができる、ということ。頭では分かっているはずなのに、それでも「黙って」しまう。そしていつの間にか、「いいや、私は間違ってなんかいない。私が今までやってきたことはこれからも正しいはずだ」と心が頑固になっていき、神様からの語りかけにも、人からのアドバイスにも、黙り込んでしまう。

 私たちは、パリサイ人たちのように、イエス様を殺そうとすることなんてないかもしれません。でも、もし私たちが、イエス様からの語りかけを無視したり、イエス様からの問いかけに耳を閉ざしたりするなら、それはもはや、「イエス様なんていなくてもいい」と言って、イエス様を排除しているようなものかもしれない。イエス様が正しい生き方を教えてくださっているのに、いのちの道を教えてくださっているのに、自分のプライドやこだわりを優先して、変わろうとしないなら、悔い改めようとしないなら、それはもはや、イエス様を殺しているのと同じかもしれない。

 ただ一言、「私が間違っていました」とお祈りすればいいのに、心の中で色んな理屈をこねて、どうやってイエス様の教えを拒否しようか、どうやって今までの自分を守り続けようか、そういう「相談」を始めてしまう。結局のところ私たちは、イエス様に生きていてほしいのか、それとも死んでほしいのか、そのどちらかです。イエス様に正しい道を教わりながら、イエス様と一緒に生きていきたいのか、それともイエス様にはどこか遠くにご退出いただいて、自分の人生から消え去っていただいて、自分のこだわりをこれからも貫き通したいのか、そのどちらかです。

 もちろん、「自分は変わりたくないし、悔い改めたくもないけれど、イエス様を殺したいわけでもない。だって、困った時はイエス様に助けてほしいから」ということもできるかもしれません。「こだわりは捨てたくないけど、イエス様の祝福だけはもらいたい」というようなことも、一応は可能かもしれません。ただ、私たちが覚えておかなければならないことは、そんな私たちの姿を見て、イエス様はお怒りになるということです。嘆き悲しまれるということです。

 〈イエス様に対して黙る〉ということは、簡単に言ってしまえば、〈祈らない〉ということです。自分の間違いに気づいても、自分の罪に気づいても、それをイエス様に祈ろうとしない、ということです。ですから逆に言えば、〈黙らない〉ということは、〈お祈りをする〉ということです。聖書の御言葉を読んで、イエス様からの語りかけを聞いて、自分の間違いに気づいた、自分の罪に気づいた、そんな時に、「イエス様、私が間違っていました」と、たった一言でもお祈りをする。「イエス様、このこだわりを捨てたいです」と、一言お祈りをする。

 ときには、「イエス様、やっぱりイヤです」とか、「変わりたくありません」という風に、反抗したくなることもあるかもしれませんし、「今の自分を捨てたくないです」と言いたくなることもあるかもしれませんが、それでもいいと思います。「黙って」しまうくらいなら、正直に祈ったほうが良い。「今の自分を捨てたくないです」とそのまま祈ったら良い。そのほうがイエス様は喜んでくださるはずです。少なくとも、たぶんそのほうが優しく怒ってもらえるはずです。ですから、私たちはまず、“黙る自分”が、“祈る自分”に変わっていくことを目指したいと思います。“頑なな自分”が、“一言でも祈る自分”に変えられていくことを目指したいと思います。

 「いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」イエス様のこの言葉について、ある聖書学者が、「この時イエスは、申命記30章を思い出していたのだろう」と説明していました。「本当にそうかな?」と思って、私も申命記を開いてみたんですが、繰り返し読んでいるうちに、確かにそうかもしれないと思いました。申命記30章19節と20節をお読みします。


30:19 私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、20 あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。……

 頑なな心を捨てることは、自分の間違いを認めることは、決して簡単なことではありません。辛いことです。傷みを伴うことです。恥ずかしいことです。でも、「主を愛し、御声に聞き従い、主にすがる」人生を選ぶなら、大きな祝福が待っています。幸いが約束されています。だから、「あなたはいのちを選びなさい。心を頑なにしないで、黙り込んでいないで、素直にわたしに祈りなさい。」お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。あなたからの問いかけに対して、その答えが分かっているにも関わらず、頑固になってしまい、黙り込んでしまうような私たちです。聖書を通して、正しい生き方を教えていただいているのに、口を閉ざしてしまって、心を閉ざしてしまって、挙句の果てにはイエス様を消し去ろうとするような、そんな罪深いパリサイ人は、私たちです。しかし、そんな頑固な私たちにもかからわず、いのちの道を示し続けてくださるあなたのあわれみに、ただ感謝をいたします。どうか、黙り込んでしまう私たちの心を開いてください。そして、「私が間違っていました」という一言を、あなたの前に告白させてください。「私が間違っていました」と素直に言えない時にも、そのことを隠さず正直に、あなたにお話しすることができますように。イエス様の御名で祈ります。アーメン。