マルコ5:25-34「娘よ、安心して行きなさい」

2023年1月22日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』5章25-34節


25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」



「あの方の衣にでも触れれば」

 先週の聖書箇所は5章の1節から20節までだったので、今日は21節から43節までを一気にお読みする予定だったんですが、少し長すぎるかなと思ったので、今日は真ん中の部分だけ、25節から34節までの部分だけを先に読むことにしました。まずは25節と26節をお読みします。


25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。

 「長血」というのは、今の医学用語で言えば、「不正出血」という病名になると思います。生理のタイミングではないのに、出血が止まらない。不正出血の原因は色々とあるようで、病原菌による炎症とか、ホルモンの異常とか、子宮頸がんとかによって、血が止まらなくなる。

 さらに、当時のユダヤ人の社会では、生理中の女性や不正出血の女性は、“汚れている”と考えられていました。“触っただけで汚れがうつる”とも考えられていました。家族と一緒に生活もできなければ、町中を堂々と歩くこともできない。今の時代のように、便利な生理用ナプキンが売られているわけでもありませんから、溢れ出る経血を隠すこともできない。必ずどこかに滲み出てしまう。隠しても隠しても、“汚れている”というレッテルを剥がすことができない。

 どうにかこの病気を治したいと思って、医者を探し求めました。しかし、「彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。」今の時代とは違って、当時は女性の産婦人科医なんていません。男性の医者に診てもらうしかない。この女性は恥を忍んで、屈辱に耐えて、覚悟を決めて医者に診てもらった。でも、やぶ医者ばかりに当たってしまったのでしょうか。当時はそういう医者が多かったのかもしれません。病状はますます悪化してしまう。財産も搾り取られてしまう。もう何も持っていない。本当に、もう何も持っていない。

 そんな彼女にとって、最後の望みはイエス様だけでした。27節から29節まで。


27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。

 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」。ものすごい信仰だなあ、と思わされます。なぜ彼女は、こんなにも素直に信じることができたのでしょうか? なぜ彼女は、“イエス様は本物だ”と信じ切っていたのでしょうか? それは、彼女がたくさんの“偽物”を見てきたからじゃないかなと思います。「私があなたの病気を治してあげますよ」などと言って来る医者たちに騙され続け、裏切られ続けた。“偽物”たちの嘘に傷つけられ、失望させられ続けた。そんな彼女だからこそ、イエス様の話を聞いた時、その噂を聞いた時、彼こそが“本物”だと気づいた。

 病気が治ったと分かった時、彼女はすぐにその場を離れようとしたはずです。誰にもバレないようにこっそりといなくなろうとしたはずです。なぜなら彼女は“汚れた存在”だからです。彼女に触っただけで“汚れがうつる”と思われていたからです。そんな彼女が、群衆の中に紛れ込んでいたなどということがバレてしまったら、「おい、お前は長血の女じゃないか!汚れた奴め、こっちに近づくな!早くここから出て行け!」と罵倒されてしまう。だから彼女は、27節にあるように、「うしろからイエスの衣に触れた。」誰にも気付かれませんようにと、怯えながら、こっそりと。


「だれがわたしにさわったのか」

 しかし、彼女のその計画は失敗に終わりました。30節から32節。


30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。

 「よし、急いで立ち去ろう」と彼女が考えたその時、「だれがわたしの衣にさわったのですか」という声が、群衆の中で後ろを振り向いたイエス様の声が聞こえました。彼女はどれほど驚いたでしょうか。心臓の鼓動が早くなります。「どうしよう、どうして気付かれたんだろう? こっそり触っただけなのに。こんなに大勢の人がいるのに……。」彼女の心は恐怖でいっぱいになった。

 弟子たちは言いました。「イエス様、何を言ってるんですか? こんなに大勢の人がごった返してるんですから、みんながあなたにさわってるようなもんですよ。『だれがわたしにさわったのか』なんて、変な冗談言わないでくださいよ」と、至極もっともなことを言いました。でも、それでもイエス様は、「周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。」

 国際連合の発表によれば、去年の11月15日に、全世界の総人口は80億人を突破したそうです。80億以上の人間が、この世界に生きている。そんなニュースを聞くと、「自分なんていう存在は、この世界に大勢いる人間の中の一人でしかないんだな」と、寂しい気持ちになったり、なんとなく孤独を感じてしまう方もいるかもしれません。

 中学生くらいの頃の私は、「この世界にはこんなにたくさんの人がいるのに、神様は本当に僕のお祈りを聞いているんだろうか?」みたいなことを漠然と考えていたことがあります。もしくは、ドラマとか映画とかで、社長みたいな人が、机の上に乗った大量の書類に次々と判子を押していく、そんな場面を観ると、「神様もこうやって、世界中から届く大量のお祈りを処理してるのかなあ。本当に一つ一つの祈りをちゃんと聞いてくれてるのかなあ」なんて思ったりもしました。

 しかしイエス様は、大勢の群衆の中から、この一人の女性に気づいてくださった。たった一人のために、わざわざ足を止めて、振り向いて、「今わたしにさわったのはだれ?」と。イエス様は、どれだけ大勢の人間がいたとしても、たとえ80億の人間がいたとしても、たった一人の祈りに気づいてくださる。たとえ私が隠れたつもりになっても、イエス様は私に気づいてくださる。イエス様は、この世界でたった一人の私に気づき、私の祈りに気づき、私を探して求めてくださる。


「娘よ……安心して行きなさい」

 33節と34節をお読みします。


33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

 彼女は恐れながら、震え上がりながら、イエス様の前に進み出て、すべてを打ち明けました。十二年間も“汚れた女”として生きてきたこと。医者たちに騙されてお金も何も持っていないこと。でもイエス様のことを聞いて、あなたの噂を聞いて、あなたの衣に触れれば私は必ず救われると思って、汚れた身体のままで群衆の中に紛れ込んでしまったこと。悪いことだと思っていたけど、隠れて勝手にイエス様の衣にさわってしまったこと。そうしたら、本当に癒やされたのだけれど、みなさんに怒られると思って、あなたに怒られると思って、こっそり帰ろうとしていたこと……。

 するとイエス様は、「娘よ」と仰った。彼女が何歳だったかはわかりません。夫はいなかったかもしれませんし、病気のせいで子どもは産めなかったかもしれない。おそらく親しい家族は一人もいなかったであろうこの孤独な女性に、イエス様は「娘よ」と語りかけた。「娘よ」ということは、「あなたはわたしの家族だ」ということです。イエス様は、この言葉を伝えるために、「あなたはわたしの家族だ」ということを伝えるために、大勢の群衆の中から、この女性を探し求めた。ただ単に病気が治ればいいわけじゃない。この人には家族が必要だった。

 キリスト教の最も大切な教えの一つに、「信仰義認」という教えがあります。“信仰によって義と認められる”ということです。人間の努力とか、人間の正しさによってではなく、ただ神様への信仰によって、ただ神様からいただく恵みによって、義とされる。正しいとされる。この女性も、「あなたの信仰があなたを救ったのです」とのみことばの通り、信仰と恵みによって義とされた。

 しかし、“信仰によって救われる”とは、どういうことなのでしょうか? “神様の恵みによって救われる”とは、どういうことなのでしょうか? 「イエス様を信じたら救ってもらえた」というだけで終わるものなのでしょうか?「イエス様にお祈りしたら病気が治った」で終わってしまうものなのでしょうか? ジョン・バークレー(John M. G. Barclay)という聖書学者は、『パウロと恵みの力(Paul and the Power of Grace)』という本の中で、次のように書いています。


 有名なクリスマスソング「サンタが街にやってくる」によれば、サンタの仕事は良い子と悪い子のリストを作ることであり、そのリストに基づいてプレゼントを配ることです。つまり、サンタのプレゼントは条件付きであり、良い子だけに与えられる贈り物なのです。……しかし、一旦プレゼントが贈られれば、その後に続く関係や感謝、お返しの期待などはされません。……このような考え方は、西ヨーロッパにおける個人主義の道徳的理想に合致しています。
 一方、パウロが語った恵みのメッセージはその逆でした。この恵みは、受け取る価値のない者への贈り物であると同時に、お返しを求めるものだったのです。たしかにキリストの贈り物は、価値のないはずの「不敬虔な人間」に与えられ、性別、民族、地位、成功など、人間が持っている価値とは関係なく、すべての人に与えられました。「リスト」もなければ、「悪い子か、良い子か」によって選ばれることもありません。ただし、この贈り物が与えられたのは、受け取った者たちが造り変えられ、贈り主と永遠に続く関係を確立するためでした。

John M. G. Barclay, Paul and the Power of Grace (Grand Rapids, MI: William B. Eerdmans Publishing Company, 2020), 149. 翻訳は佐藤(部分的に意訳)

 「信仰によって義とされる」ということは、「やった!信じたら義とされた!じゃ、さよなら」というものではありません。サンタクロースのように、プレゼントをもらった時は嬉しいけれど、次の年のクリスマスシーズンまではまた忘れ去られてしまう、というようなものではありません。イエス様から恵みをいただくということは、その日からイエス様の家族になるということです。

 もしかしたら、長血をわずらっていた女性は、病気が治った後は、もう二度とイエス様に会わないつもりだったかもしれません。そうすれば誰にも怒られないからです。しかしイエス様は、そこで終わってほしくなかった。イエス様はこの女性の家族になりたかったんです。イエス様の恵みは、関係性をスタートするための恵みだからです。私たちと関係を結んで、私たちと一緒に毎日を生きていくための贈り物だからです。イエス様からこっそり離れて行くことと、「娘よ、安心して行きなさい」と言われて送り出されることは、全く違います。独りぼっちの人間としてではなく、イエス様の家族の一員として歩み出せる。それだけで、この女性の人生はどれほど平安だったか。

 イエス様は私たちを家族とするために、私たちに恵みを与えてくださいました。私たちはこの恵みに対して、どのように応えるでしょうか。イエス様に願い事を叶えていただいたら、さっさと姿を消して、独りぼっちの人生に戻っていくのでしょうか。それとも、イエス様の家族の一員として、イエス様からいただいた恵みを他の人にも分かち合っていくのでしょうか。私たちにとって、本当に幸せな人生、本当に自由な人生とは、果たしてどちらなのでしょうか。お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちがあなたを「父」とお呼びできるのは、イエス様が私たちを招いてくださったからです。イエス様が私たちに恵みをお与えくださったから、私たちはあなたの「娘」となり、「息子」となりました。もしかすれば私たちは、あなたからいただいた恵みを、いただきっぱなしにして、そそくさと立ち去ろうとしてしまうような人間だったかもしれません。しかしイエス様が、大勢の群衆の中から私を探し出してくださいましたから、感謝します。私はあなたに愛されています。私はあなたのものです。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。