マルコ6:14-29「ヨハネが備えた道」
2023年2月19日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』6章14-29節
14 さて、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」
15 ほかの人々は、「彼はエリヤだ」と言い、さらにほかの人々は、「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」と言っていた。
16 しかし、ヘロデはこれを聞いて言った。「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」17 実は、以前このヘロデは、自分がめとった、兄弟ピリポの妻ヘロディアのことで、人を遣わしてヨハネを捕らえ、牢につないでいた。
18 これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」と言い続けたからである。
19 ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、できずにいた。
20 それは、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていたヘロデが、彼を恐れて保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたからである。21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが自分の誕生日に、重臣や千人隊長、ガリラヤのおもだった人たちを招いて、祝宴を設けたときのことであった。
22 ヘロディアの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデや列席の人々を喜ばせた。そこで王は少女に、「何でも欲しい物を求めなさい。おまえにあげよう」と言った。
23 そして、「おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」と堅く誓った。
24 そこで少女は出て行って、母親に言った。「何を願いましょうか。」すると母親は言った。「バプテスマのヨハネの首を。」
25 少女はすぐに、王のところに急いで行って願った。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」
26 王は非常に心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、少女の願いを退けたくなかった。
27 そこで、すぐに護衛兵を遣わして、ヨハネの首を持って来るように命じた。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、
28 その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女はそれを母親に渡した。29 このことを聞いたヨハネの弟子たちは、やって来て遺体を引き取り、墓に納めたのであった。
「私が首をはねた、あのヨハネ」
本日の聖書箇所は、読んでいるだけで気持ちが悪くなるような、吐き気がするような、そんな箇所かもしれません。「さっさと読み飛ばしてしまいたい」と思わせるような場面です。慰めとか励ましを求めて聖書を開く私たちにとっては、「ありがたい」と思えるような聖書箇所ではない。しかし、そのような場面だからこそ私たちは、いつも以上に真剣に、神のことばに耳を傾けなければならないのではないかと思います。まずは14節から16節をお読みします。
14 さて、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」
15 ほかの人々は、「彼はエリヤだ」と言い、さらにほかの人々は、「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」と言っていた。
16 しかし、ヘロデはこれを聞いて言った。「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」
聖書には「ヘロデ」という名前の人物がたくさん登場しますが、ここに出てくる「ヘロデ」は、ヘロデ・アンティパスのことです。ヘロデ・アンティパスは、ヘロデ大王の息子で、この時代にガリラヤ地方を支配していました。そのヘロデ・アンティパスが「イエス」という人物の噂を聞いて、こう言っていました。「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」この言葉が示しているのは、ヘロデの“罪悪感”と“恐怖心”です。「聖なる預言者だったヨハネを殺してしまった」という“罪悪感”。そして、「そのヨハネがよみがえって、今度こそ自分をさばきに来たのではないか」という“恐怖心”。続けて、17節から20節をお読みします。
17 実は、以前このヘロデは、自分がめとった、兄弟ピリポの妻ヘロディアのことで、人を遣わしてヨハネを捕らえ、牢につないでいた。
18 これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」と言い続けたからである。
19 ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、できずにいた。
20 それは、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていたヘロデが、彼を恐れて保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたからである。
ヘロデ・アンティパスは、自分の異母兄弟ピリポから、ヘロディアという女性を奪っていました。ピリポはまだ生きていたのに、その妻を奪い、しかもヘロデ自身にもすでに妻がいたのに、その妻を捨てて、ヘロディアと再婚した。「ダブル不倫」という言葉では生ぬるいほどの重罪でした。
「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」。ここでヨハネが言っているのは、旧約聖書のレビ記に書かれた律法のことです。レビ記20章21節には「人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ」と書かれています。神様は、人々が平和に暮らし、愛し合うことを望んでおられました。兄弟の妻を奪うなんてことは、最も忌まわしい罪の一つでした。そんな罪を、仮にも一国の王が犯している。ヨハネはこの罪を責めました。
しかしヨハネは、ヘロデの罪を一方的に責めただけではなかったのかもしれません。なぜならヘロデは、「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」からです。ヨハネは単にヘロデの罪を責め立てたのではなく、彼がその罪を悔い改めることを願って、愛と配慮をもって語りかけたのかもしれない。そしてその教えを聞いたヘロデもまた、できることなら自分も悔い改めたい、自分もやり直したいと、心のどこかで思ったのかもしれない。「ヨハネが正しい聖なる人だと知っていた」ヘロデは、ヨハネが殺されないように、「彼を恐れて保護」していました。
「良い機会が訪れた」
しかし、「ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、できずにいた。」先ほど、「ヘロデが兄弟の妻を奪った」と言いましたが、「ヘロディアがヘロデを誘惑した」という側面もあったのかもしれません。ヘロディアはおそらく、ピリポよりヘロデのほうが有能だと判断して、意図的にピリポを捨てて、ヘロデと結婚したのでしょう。「こっちの男よりもあっちの男のほうが価値がある」と考えて乗り換えた。「よし、上手くいった。これで私の地位も安泰だ」と。
それなのに、バプテスマのヨハネとかいう男が、自分たちの再婚を批判している。「どうにかしてこの邪魔者を殺さなければ」と彼女は考えた。でも、ヘロデはヨハネを保護したがっている。どうしようか、どうやってヨハネを殺そうか。そんな時に、21節から23節。
21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが自分の誕生日に、重臣や千人隊長、ガリラヤのおもだった人たちを招いて、祝宴を設けたときのことであった。
22 ヘロディアの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデや列席の人々を喜ばせた。そこで王は少女に、「何でも欲しい物を求めなさい。おまえにあげよう」と言った。
23 そして、「おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」と堅く誓った。
「良い機会」というのはもちろん、ヘロディアにとっての「良い機会」です。誕生日パーティでいい気分になっていたヘロデは、ヘロディアの連れ子に向かって、「おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」と約束した。この絶好のチャンスを、ヘロディアは見逃しません。24節と25節。
24 そこで少女は出て行って、母親に言った。「何を願いましょうか。」すると母親は言った。「バプテスマのヨハネの首を。」
25 少女はすぐに、王のところに急いで行って願った。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」
自分の目的を果たすためなら、夫を捨てて別の男に乗り換える。自分のやり方が批判されるなら、その邪魔者も排除する。これが、ヘロディアという女性の生き方でした。そんな生き方では本当に幸せになんてなれないと、彼女自身は気づいていたのでしょうか。
おそらくヨハネは、ヘロデと同じように、ヘロディアにも悔い改めてほしかったのでしょう。「あなたのその生き方は、決して神に喜ばれない」と、彼女のその罪を責め、しかし、「あなたが悔い改めるなら、神は必ず赦してくださる」とも語っていたはずです。しかしヘロディアは、ヨハネが語る神の言葉に耳を傾けようとはせず、むしろ、葬り去ってしまおうとした。
私たちは、自分の罪を指摘する神の言葉を、どのように聞いているでしょうか。礼拝の説教を聞く中で、もしくは一人で聖書を読む中で、自分の罪を責めるような鋭い御言葉に出会った時、ヘロディアのように、その御言葉を無視して、自分の目の前から消し去ろうとするでしょうか? それともヘロデのように、「ここに自分が生まれ変わるチャンスがあるかもしれない」と思って、「当惑しながらも、喜んで耳を傾け」るのでしょうか?
「彼はあなたの道を備える」
26節から29節。
26 王は非常に心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、少女の願いを退けたくなかった。27 そこで、すぐに護衛兵を遣わして、ヨハネの首を持って来るように命じた。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、28 その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女はそれを母親に渡した。29 このことを聞いたヨハネの弟子たちは、やって来て遺体を引き取り、墓に納めたのであった。
盆の上に載った首。想像するだけでも気持ちが悪くなるような光景です。どうすればこの恐ろしい光景を表現できるだろうかと思いまして、今礼拝堂の後ろに、少し大きなプーさんのぬいぐるみが置いてありますけれど、そのぬいぐるみの首を切って、キッチンに置いてあるお盆に載せてここに持ってきたらどうなるかと考えましたが、それだけでも嫌になるのでやめました。
ヨハネの弟子たちがやって来て、ヨハネの遺体を引き取った。「遺体」というのはもちろん、「死んだ身体」という意味ですから、首から上の部分が含まれているのかどうかは分かりません。もしかすれば、首無しになってしまったヨハネの身体だけが墓に納められたのかもしれません。ヨハネの弟子たちは、「いつかその時が来る」と覚悟はしていたでしょう。しかし、彼らが想像していた以上に、あまりにも無残な最期だった。
マルコの福音書の冒頭には、次のように書かれていました。1章1節から4節をお読みします。
1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いを
あなたの前に遣わす。
彼はあなたの道を備える。3 荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意せよ。
主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
ヨハネの人生は、イエス様の「道を備える」ための人生でした。イエス様が歩まれる「道」を整えるために、ヨハネという人が遣わされた。しかし、最後には首を切り落とされて、無残に殺されていったんです。私たちはこのヨハネの人生を、どのように評価すべきでしょうか? 三通りの可能性があると思います。
第一の可能性は、〈ヨハネはイエス様の道を備えることができず、無残に殺されてしまった。〉第二の可能性は、〈ヨハネはイエス様の道を備えることができたが、最後は殺されてしまった。〉そして第三の可能性は、〈ヨハネはイエス様の道を備えることができ、最後に殺されることによって、その道を完全に備えた。〉私は、この第三の評価が最もふさわしいと思います。なぜなら、ヨハネが備えた道、イエス様が歩んだ道は、十字架に至る道だったからです。ヨハネは首をはねられるその瞬間まで、いや、首をはねられることによって、その道を完全に整えたのです。
今日の聖書箇所、6章14節から29節は、当たり前ですが、13節と30節の間に挟まれています。13節と30節というのは、イエス様の弟子たちが遣わされた時の記録です。弟子たちが遣わされ、人々に悔い改めを語るその記録に挟まれるように、ヨハネの死が語られているんです。
マルコの福音書には、〈ある出来事の真ん中に、別の出来事が差し込まれることで、二つの出来事が結び合わされる〉という手法がよく使われますが、今日の箇所もその一つだと思われます。マルコは、弟子たちが遣わされるという出来事の真ん中に、ヨハネが殺された時の記録を差し込みました。それは、ヨハネが備えた道は、イエス様が歩むことになる道というだけでなく、イエス様の弟子たちが歩むことになる道でもある、ということを示すためでした。もちろん、この時はまだ、弟子たちはそこまで激しい迫害は受けなかったかもしれません。しかし、やがて弟子たちもまた、悔い改めを語るが故に、正義と平和を語るが故に、迫害され、殺されるようになるのです。なぜならそれこそが、ヨハネが備えた「道」だったからです。
今の時代、この日本に生きる私たちは、どうすればその道を歩むことができるのでしょうか。ヨハネが備えた道は、今は一体どこにあるのでしょうか。今日はそのヒントとして、一つの文章をご紹介して、説教を閉じたいと思います。日本同盟基督教団の〈「教会と国家」委員会〉による抗議声明文です。少し長い文章ですが、一部省略しながら、お読みしたいと思います。
岸田文雄首相の伊勢神宮参拝に対する抗議声明私たち日本同盟基督教団「教会と国家」委員会は、2023年1月4日、岸田文雄首相が伊勢神宮を参拝したことに対して以下の理由で強く抗議いたします。
(中略)
① 政教分離原則の違反
伊勢神宮は皇祖神の天照大御神を祀った神社であって、皇室神道の存立の基礎であり基盤です。戦前・戦中においては国家神道の本宗であり、現代においても神社本庁下における全神社の本宗です。そのような神道の中心的な施設であり、天皇の祖先を祀っている伊勢神宮に、行政における最高権力者である内閣総理大臣が参拝し、参拝後に年頭記者会見を行い、さらにその様子を首相官邸の公式ホームページ等で広く発信することは、私的参拝ではなく公務における仕事始めとして伊勢神宮を参拝したことに等しく、国の機関による宗教的活動と言わざるを得ません。従ってその行為は、政教分離を定めた憲法第20条3項および第89条に明確に違反しています。② 平和主義からの逸脱
ことに伊勢神宮は、かつて日本が犯した侵略戦争と植民地支配に深く関わっており、靖国神社とともにその精神的支柱であった神社です。そのような歴史を持つ伊勢神宮に首相が参拝することは、かつての侵略戦争と植民地支配を肯定し、軍国主義の復活を彷彿とさせるものです。昨年末の安保関連3文書改定の閣議決定により、平和主義をあわらす日本国憲法前文やその具体的な法規程である憲法第9条が空文化させられることで、その危惧はいよいよ現実味を帯びています。③ 戦争責任告白に立つキリスト者の使命として
私ども日本同盟基督教団は、戦前・戦中、国策としての神社参拝強要に抗えずに偶像礼拝を犯した罪と、日本のアジア諸国に対する侵略戦争と植民地支配に協力した罪を認めて悔い改め、それを信仰告白として公に表明しています。私たちはその信仰告白に立ちつつ、キリスト者として、また、日本に住む者として、再び同じ過ちを繰り返さないために、日本が信教の自由と政教分離の原則、また戦争放棄と軍備および交戦権の否認を定めた日本国憲法の基本理念に立ち返るべきことを強く求めます。もし国家がその原則を逸脱するならば、それが誤りであると警告を与えることこそが私たちの使命であり、この国が神と人の前に正しく歩み、神からの祝福を受けるために必要なことだと確信しています。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」(旧約聖書 エゼキエル書3章17節)
(後略)
日本同盟基督教団「教会と国家」委員会、2023年1月16日(https://church-and-state.jimdofree.com/%E5%A3%B0%E6%98%8E%E6%96%87/#s-20230116-3)
この抗議文の内容について、もしくは神社参拝の是非について、今ここで詳しく議論する時間はありません。しかし一つだけ確認しておきたいことは、この抗議文はただ単に権力者たちの罪を責め立てるものではない、ということです。③の段落の最後に書かれている通り、「この国が神と人の前に正しく歩み、神からの祝福を受けるために必要なことだと確信してい」るからこそ、日本が今よりもさらに美しい国になることを願うからこそ、罪を悔い改めるようにと語りかけているんです。彼らが悔い改め、真の平和を作る国となるように、愛をもって語りかけているんです。
私たちキリスト者は、どんなに迫害されようとも、どんなに無視されようとも、悔い改めを語り続けます。ヨハネが殺されても、イエス様が語り、イエス様が殺されても、弟子たちが語り、弟子たちが殺されても、聖書が語り、そして今、聖書を通して神の言葉を聞く私たちが語るのです。ヨハネが備え、イエス様が歩まれたその道を、私たちも今この時代にあって歩むのです。そのためにまず私たちが為すべきことは、神の言葉を無視することなく、その鋭い語りかけに耳を傾け、自分自身の罪を悔い改めることです。十字架の道はそこから始まります。お祈りをします。
祈り
神様。私たちはイエス様の弟子として、イエス様が歩まれた道を歩みたいと願っています。その道の最後に待ち受けているのは、打ち首かもしれませんし、十字架かもしれません。しかし、それでも私たちは、この道こそがまことの道だと信じています。どうか、正義と平和を求める心を、情熱を、ますます強くお与えください。あなたが語ろうとしているそのみことばを、私たちがあなたに代わって語ることができるように、いま一度、あなたの聖霊を力強くお与えください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。