ピリピ2:5-11「サウイフモノニ」(宣愛師)

2023年12月24日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ピリピ人への手紙』2章5-11節


 5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

6 キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。 
人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、
天にあるもの、地にあるもの、
地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が
「イエス・キリストは主です」と告白して、
父なる神に栄光を帰するためです。



「あなたがたの間でも」

 今日、みなさんとご一緒にお開きしている聖書のみことばは、「キリスト賛歌」と呼ばれている箇所です。聖書の中でも最も美しく、最も重要なみことばの一つであり、クリスマス礼拝に相応しいみことばでもあります。今日は特に、5節から8節の部分をご一緒に味わいたいと思います。


 5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

 6 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。 
 人としての姿をもって現れ、
 8 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。

 少しでも偉くなりたい、少しでも高い地位に着きたい、少しでも人から褒められるような人間になりたい。これが私たち人間の欲です。そして、少しでも自分が満足できる環境を手に入れれば、それを決して失わないようにと必死になる。これもまた、私たち人間の欲望です。

 私たちは、自分のあり方を捨てることができません。自分が満足できる環境を手放すことができません。せっかく手に入れた幸せな環境。せっかく手に入れた安心安全。それを誰かのために捨てることなんてできない。いや、少しくらいなら捨てることはできるかもしれないけれど、困っている人たちに、少しくらい自分の持ち物を分け与えることならできるかもしれないけれど、自分が安心して生きることのできるこの環境そのものまで捨ててしまうことなんてできない。ましてや、誰かのためにいのちまで捨てるなんて、私たちには到底できません。

 だから私たち人間は、いつまで経っても争いを止めることができないんです。貧しい人々を助けることができないんです。いつも自己中心で、自分の安心や安全ばかりを優先しているから、この世界からは苦しみが消えないんです。この世界のあらゆる苦しみは、私たち人間の自己中心の罪から始まっています。いつまで経っても、「自分、自分、自分。」ほかの人のことは後回しです。

 しかし、「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考え」なかった。「いやだ!神としての生活を捨てたくない!」とは考えなかったんです。「このまま神として、安心安全の環境で過ごしていたい!どうして人間たちのためにそこまでしなきゃいけないんだ!」とは考えなかったんです。イエス様は「自らを低くして」この世界に来てくださいました。そして、私たちのために、「十字架の死にまで」低く低く降りて来てくださいました。

 毎年のクリスマスに私たちは、イエス様がこの世界に来てくださったことを喜び祝います。「イエス様ありがとうございます。私たちのところまで降りて来てくださってありがとうございます」と感謝を捧げます。しかし、クリスマスの喜びは、「ありがとうございます」では終わりません。「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」と言われるのです。

 私たち人間はどうやって生きていくべきなのか。私はどのような人生を歩んでいけばいいのか。小学校や中学校で色々な授業を聞いても、高校や大学で必死に勉強をしても、見つけられなかった人生の目的が、本当に満足できる生きがいが、クリスマスという奇跡によって、ついに私たちに与えられました。「自分、自分、自分」という自己中心の罪から抜け出すことのできる道が、この世界から争いを無くすことのできる唯一の道が、私たちに示されました。


「サウイフモノニ」


雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち

欲はなく 決していからず
いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを
自分を勘定に入れずに

よく見聞きしわかり
そして忘れず

野原の松の林の陰の
小さなかやぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば
行って看病してやり

西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い

北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い

日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き

みんなにでくのぼうと呼ばれ
褒められもせず 苦にもされず

そういう者に
私はなりたい

 みなさんご存知の通り、「雨ニモマケズ」と呼ばれる宮沢賢治の詩です。この詩は、宮沢賢治が37歳で亡くなる数年前に、手帳に書き遺していたものです。「丈夫な体を持ち」という言葉には、あまり丈夫な体を持たずに、若くして肺の病気で亡くなった賢治の切実な思いが見て取れます。

 ところでみなさんは、この詩の“モデル”となったと言われる人物のことをご存知でしょうか。そして、その人物がキリスト教徒だったということをご存知でしょうか。宮沢賢治が「そういう者に 私はなりたい」と願った人物、宮沢賢治の人生の目標の一つとなったと言われている人物。それは、宮沢賢治と同じく岩手の花巻に生まれ育った、斎藤宗次郎というクリスチャンでした。斎藤宗次郎は宮沢賢治より19歳も年上でしたし、賢治は最期まで仏教徒だったので、信じる宗教はそれぞれ異なりましたが、それでも二人は、互いの生き方を尊敬し合う親友となっていきます。岩手県の花巻で、この二人の友情が育まれていきました。

 去年の4月、私がこの盛岡みなみ教会で働き始めた時、教会の皆さんが歓迎会を開いてくださいました。今日の午後のクリスマス祝会でも楽しい出し物タイムが予定されていますが、その去年の歓迎会の中でも、楽しいクイズが用意されていました。「岩手に来たばかりの宣愛先生に、岩手のことを知ってもらおう」ということで、高橋悟さんが“岩手県クイズ”を準備してくださったんです。私の記憶違いでなければ、そのクイズの中でも斎藤宗次郎のことが紹介され、「雨ニモマケズ」のモデルだと教えていただきました。それが、私が斎藤宗次郎のことを知ったきっかけです。その時から私は、「岩手県にはクリスチャンはあまり多くないかもしれないけれど、この岩手でクリスチャンとして生きるということは、本当に幸せなことだなあ」という思いを持ち続けています。

 斎藤宗次郎は曹洞宗のお坊さんの家に生まれ、仏教徒として育ちました。最初はキリスト教のことが嫌いで、内村鑑三のいわゆる「不敬事件」の話を聞けば「耶蘇教徒の奴らはけしからん!」と怒っていた宗次郎でした。ところが彼は、「けしからん!」と思っていたはずの内村鑑三の本を読んで感動し、嫌いだったはずのキリスト教をついに信じるようになり、23歳で洗礼を受けます。それ以降、彼は内村鑑三の弟子として、そしてイエス・キリストの弟子として、91歳になるまで、その人生を神様の栄光のために捧げ尽くしました。

 宗次郎の家族も、花巻の町中の人々も、皆が仏教を信じ、そして教育勅語による国家主義教育を信じているのに、一人だけキリスト者として生きるわけです。宗次郎はたくさんの挫折や迫害を経験しました。小学校の教員として働いていた宗次郎ですが、日露戦争に厳しく反対したことによって、最終的には教師を辞めさせられてしまいます。「天皇様が行っている戦争に反対するとは何事だ!これだから耶蘇(キリスト)教徒はダメなんだ!」と、今度は宗次郎が批判されるようになりました。

 小学校を辞めさせられた宗次郎は、花巻で新聞配達店を始めるようになります。耶蘇教徒として散々迫害されていた宗次郎でしたが、雨の日も風の日も、吹雪の日も、誠実に新聞を配り続ける宗次郎の姿を見て、花巻の人々は少しずつ宗次郎を攻撃しなくなります。むしろ宗次郎を「先生」と呼んで信頼するようになっていきます。花巻の子どもたちは最初は、新聞を配る宗次郎の後ろ姿を見て、「ヤソ ハゲアタマ ヤソ ハリツケ」とバカにしていたのですが、やがてはその子どもたちを含む町中の人々が、「名物買うなら花巻おこし 新聞とるなら斎藤先生」という謳い文句を唱えるようになりました。迫害されてもくじけなかった斎藤宗次郎の信仰の姿を同じ花巻で見続け、友人としての交流を続けていた宮沢賢治は、彼の生き様から大きな影響を受け、やがて彼をモデルとして「雨ニモマケズ」を書き遺したのではないか、と考えられているわけです。


“推し活”と“生きがい”

 宮沢賢治には人生の目標がありました。「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と言える目標です。斎藤宗次郎にも目標がありました。それは、彼の救い主であるイエス・キリストでした。宮沢賢治も、斎藤宗次郎も、「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という願いを持って、それぞれの人生を全うしていきました。私たちはどうでしょうか。「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と言えるような目標を持っているでしょうか。それとも、とりあえず、何となく、漠然と生きているでしょうか。人生の終わりを迎える時、「私の人生は無意味ではなかった。私の人生には確かな意味があった」と、自信を持って言えるような生き方ができているでしょうか。

 先日、ある小学生と話をしていたら、「なんだか最近“生きがい”が無い気がするから、“推し活”を始めることにした」と宣言されました。「最近は小学生でも、自分の“生きがい”について考えているんだなあ」と素直に感心しました。そして、「“生きがい”が見つからない場合は、“推し活”が役に立つのか」と勉強にもなりました。就職活動で“就活”とか、結婚活動で“婚活”なら知っていても、“推し活”とは何か、よく分からない方もいらっしゃるかもしれません。たとえば、大好きなアイドルやキャラクターがいれば、それが“推し”になるわけです。他の人にも推したくなる、推薦したくなるほど好きだから“推し”というわけです。ネットで調べるとこんな説明が出てきます。


「推し活」における具体的な活動・行動の例

【推しに逢う】ライブや舞台を観に行く/ファンレターを書く/プレゼントを贈る

【推しに触れる】グッズをコレクションする/コラボイベントに参加する

【推しに染まる】推しと同じものを持つ/推しのイメージ色の服やコスメを集める

【推しを広める】SNSで推しの魅力を語る/推しを他人に布教する

【推しを感じる】一人静かに推しのことを想う/推しが生きて存在していることに今日も感謝する


TRANS「「推し活」事情を学ぶ① 推し活って何するの?編」https://www.trans.co.jp/column/goods/oshikatsu_study1/(最終アクセス日:2023年12月23日)。一部省略・編集。

 こういう“推し活”が今、いろいろな世代で流行っているそうなんです。とりあえず、何となく、漠然と生きるのではなく、“推し”の幸せを願って生きる。最後のやつなんてすごいです。「一人静かに推しのことを想う/推しが生きて存在していることに今日も感謝する」なんて、これはもはや宗教です。でも、それが生きがいになるわけです。尊敬できる人がいる。大好きな人がいる。この人が生きていてくれるだけで、自分は幸せだと思える。みなさんには“推し”がいるでしょうか?

 宮沢賢治の“推し”は、おそらく斎藤宗次郎だったと言っても、間違いにはならないでしょう。そして、その斎藤宗次郎の“推し”は間違いなく、イエス・キリストでした。私も今から少しだけ、“推し活”をさせていただきたいと思います。「推しを他人に布教する」というやつです。このあとみなさんとご一緒に歌う讃美歌でもありますが、その歌詞をご紹介させてください。教会福音讃美歌の98番「馬槽のなかに」です。


馬槽のなかに  産声あげ
木工の家に  ひととなりて
貧しき憂い  生くる悩み

つぶさになめし  この人を見よ

食する暇も  うち忘れて
しいたげられし  ひとを訪ね
友なき者の  友となりて

こころ砕きし  この人を見よ

すべてのものを  与えし末
死のほか何も  報いられで
十字架の上に  上げられつつ

敵を赦しし  この人を見よ

この人を見よ  この人にぞ
こよなき愛は  あらわれたる
この人を見よ  この人こそ

人となりたる  活ける神なれ

 この方が私の生きがいです。この方がいてくださる。しかも、ただ存在しているだけではない。私の悩みを知ってくださった。私を訪ねてくださった。私の友となってくださった。そして、私を愛して、私のために命を捨ててくださった。私もこの方のようになりたくて、教会の伝道師になりました。もちろん、同じように生きることなんてできません。私がどんなに素晴らしい生き方をしたとしても、この方の足元にも及びません。でも、ほんの少しでも、この方のように歩みたい。

 みなさんはいかがでしょうか。「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と、はっきり言えるような目標を持っているでしょうか。もし、人生の目標が見つからなかったり、生きがいを見失ってしまっているのでしたら、ぜひ私と“推し友”になってください。イエス様についていく人生は、間違いなく満足できる人生です。「私は何のために生きているのか」と悩むことはもうありません。「私の人生には何の意味もなかった」と後悔することもありません。「こんな人を信じるんじゃなかった」と、貴重な人生を無駄にすることもありません。なぜなら、イエス様のように徹底した愛を持っている方は、他には誰一人いないからです。イエス様のようにご自分の命を捨ててくださった、そんな神様は他にいないからです。この方こそ、この世界の何よりも確かで、何よりも目指すべき目標です。自信を持って人にお勧めすることのできる、揺るぎない人生の生きがいです。

 クリスマスの季節、私たち大人は、子どもたちのために色々なプレゼントを用意します。お菓子も買ってあげたいし、おもちゃも買ってあげたい。子どもたちを幸せにしてくれるものなら何でもプレゼントしてあげたい。でも、だとすれば、何よりもまず私たちがプレゼントすべきものは、子どもたちの一生を有意義で幸せなものにする、確かな“生きがい”ではないでしょうか。何のために生きるのか。何を目標に生きるのか。これこそが、私たち大人が子どもたちに渡すことのできる、最高のクリスマスプレゼントではないでしょうか。この最高のプレゼントは、まず私たち大人がしっかりと受け取っていなければ、子どもたちに渡すことができないものです。ぜひこれからもご一緒に、イエス様のみことばを学んでまいりましょう。イエス様の生き様を学んでまいりましょう。そして、大人も子どもも一緒に、この教会で一緒に、イエス様が示してくださった最高の人生を歩んでまいりましょう。お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。生きがいのない人生は、つまらない人生です。目標のない人生は、退屈で寂しい人生です。しかし、今日のこのクリスマスに、私たちは幸いな人生の鍵を見つけました。何のために生きるのか。何をして生きるのか。その答えを見つけました。自己中心になりやすい私たちですけれども、自らを低くして、あなたに従っていきます。イエス様のように、自らを捨てて歩んでいきます。どうぞ、「キリスト・イエスのうちにあるこの思い」を、人生の本当の幸いを、私たちの心に送り届けてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。