まなか師
ヨハネ6:1-15「彼らが望むだけ」(まなか師)新着!!
・・・・・・「どこから」という言葉は、ヨハネの福音書のキーワードです。どこから助けはやって来るのか。どこから必要は満たされるのか。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」とイエス様は問われる。旧約聖書の詩篇の作者も次のように問いました。「私の助けは どこから来るのか」(詩篇121:1)。この問いは、今を生きる私たち一人一人にとっても根源的な問いであると思います。「私の助けは どこから来るのか。」・・・・・・
ヨハネ5:41-47「神からの栄誉」(まなか師)
・・・・・・学生時代に、KGKのキャンプの準備をしたことがありました。当時の私はいま以上にもっと未熟で、若さゆえの極端なところもありました。キャンプの最終日に、準備委員を労うサプライズが用意されていて、キャンプ参加者みんなからの寄せ書きをプレゼントしてもらい、「ありがとう」とたくさん声をかけてもらいました。実はそのときの私は「人からの称賛は受けない!」と固く決意していまして、本当は「ありがとう」と言われれば内心うれしいし、頑張ってよかったなと思うけれども、決して喜んではいけないと自分に言い聞かせていました・・・・・・
ヨハネ5:31-40「神による証し」(まなか師)
・・・・・・お医者さんや歯医者さんから、「どうしてもっと早く来なかったんですか」とちょっと叱られてしまう、そんな経験をしたことがある方もいると思います。「こんなにひどくなる前に、どうしてもっと早く来なかったんですか。」すると私たちは、「すみません、ちょっと忙しくて…」とか、「こんなにひどくなっているとは思わなくて…」などと言い訳してみたりするものです。イエス様も同じ気持ちなのだと思います。「どうしてわたしのもとに来ようとしないのか。こんなに疲れているのに、こんなに傷だらけになっているのに、罪の病がこんなに進んでしまっているのに、どうして自分のいのちだけで生きていこうとするのか。どうしてもっとわたしを頼らないのか。どうしてもっとわたしに祈らないのか。」・・・・・・
ヨハネ5:19-30「死からいのちに」(まなか師)
・・・・・・以前、ある方と話していたとき、冗談半分だと思いますが、こんなことを言われました。「いのちのある教会なら通い続けてみたいけど、いのちのない教会はちょっとなあ」。……教会とは、建物のことではなく、私たち一人ひとりのことですから、「いのちのある教会」があるとすれば、「いのちのあるクリスチャン」がいるということになるのでしょうか。「いのちのあるクリスチャン」とはどんな人でしょうか。元気があって、健康で、楽しそうに生きている人が、「いのちのある人」なのでしょうか・・・・・・
ルカ1:26-38「マリアへの受胎告知」(まなか師)
・・・・・・当時の慣習では、結婚していない女性が妊娠すれば、姦淫の罪を犯した者として石打ちの刑です。マリアは不貞を働いた女として、罪人として、突然、妊娠生活を始めなければいけません。周りの人々に何と言われるだろうか。何よりヨセフにどう思われるだろうか。……マリアの人生なのに、マリアの意見が聞かれることもない。何の断りもなく、彼女は神の子の母にさせられました。それにも関わらず、御使いは「おめでとう、恵まれた方」と言ってはばからないのです・・・・・・
ヨハネ5:1-18「安息日に働く主」(まなか師)
・・・・・・彼は間違った方法で癒やされようとしていました。イエス様は「池の中に入れてほしいか」と尋ねたのではなく、「良くなりたいか」と問いかけたんです。でも彼は「はい、良くなりたいです」と答える代わりに、「主よ、誰も池の中に入れてくれないんです」とイエス様に訴えた。それはまるで、寂しさをお酒で癒やそうとしている人が、「主よ。誰もお酒をくれないんです」とイエス様に訴えているようなものです・・・・・・
ヨハネ4:43-54「しるしの信仰、ことばの信仰」(まなか師)
・・・・・・しるしによる信仰、みわざを求める信仰は、順境のときであれば問題ありません。自分は守られていて、自分は祝福されていると感じられる限りは、大丈夫です。……でも逆境のときはどうでしょうか。私たちは、イエス様が現実を奇跡的に変えてくださらないと、イエス様のことが分からなくなってしまうことがないでしょうか。それは結局のところ、イエスのことばを信じる信仰ではなく、イエスのしるしを求める信仰です・・・・・・
ヨハネ4:39-42「聞いて分かったのです」(まなか師)
・・・・・・先生はこんなこともおっしゃいました。「疑問を持つのは信仰成長のプロセスです。聖書に疑問をぶつければ、答えは必ず返ってきます。そしてその答えに対して、私たちがまた応答するというのが、イエス様と向き合い、イエス様と一緒に生きていく関係です。私たちのほうに応答する気があるなら、イエス様は必ずはっきりと語ってくださいます」。サマリアの人々もそうでした。一人の女性から「来て、見てください」と招かれ、「この方がキリストなのでしょうか」と問われて、実際に確かめてみようとやって来た・・・・・・
ヨハネ4:31-38「目を上げて畑を見なさい」(まなか師)
・・・・・・たしかに、実りを見ることなく、種を蒔くことに徹する者もいます。旧約の預言者たちもそうでした。バプテスマのヨハネもそうでした。彼らが労苦した実りは、ほかの人たちが刈り入れました。私たちの労苦は、10年後、20年後、いや何百年も後の人たちが、刈り入れをすることもある。しかしそのとき、蒔く者は、「私が蒔いたものなのに、あの人に横取りされた」と文句を言うのではなく、刈る者とともに喜ぶというのです・・・・・・
ヨハネ4:27-30「来て、見てください」(まなか師)
・・・・・・教会で伝道師として働いていると、様々な方の悩みをお聞きする機会があります。皆さんも、牧師や伝道師でなくても、お友だちやお知り合いの悩みを聞くことがあると思います。「こんな大変なことがあったんです」「こんなひどい人がいたんです」というお話を聞いたりもします。そんなことがあったんですね、本当にお辛かったですね、と心から思います。できる限り、その方の思いに寄り添いたいと思わされます。ただ、多くの人は、「あの人が私にしたこと」「あの人のせいで私の人生に起こったこと」については話しても、「私がしたこと」についてはあまり話しません・・・・・・