ヨハネ3:31-36「天から来られる方」(まなか師)

2023年10月15日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』3章31-36節


31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
32 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
33 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。
34 神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。
35 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。
36 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。



 この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の恵みがありますように。

 今日の箇所の冒頭、31節には、「上から来られる方」という言葉や「天から来られる方」という言葉が出てきます。これはイエス様のことですが、この「上から」や「天から」というテーマは、ヨハネの福音書の大きなテーマの一つでもあります。イエス様はどこから来たのか。さらには、私たちはどこから来たのか。言い換えるなら、「出身」や「出自」というテーマです。これまで読み進めてきたヨハネ3章の中でも、「上から」とか「天から」というキーワードがすでに何度も出てきました。

 ある町についての情報がほしいなら、その町から来た人、その町出身の人に聞くのがいいと思います。盛岡について知りたければMさんに聞くのが早そうですし、新潟のことなら宣愛先生に聞くのが早そうです。また、ある人について知りたいなら、その人の家族に聞くのが一番です。Aちゃんについて知りたければお母さんのNさんに、Mくんについて知りたければお父さんのSさんやお母さんのHさんに聞くのがいいと思います。同じように、神様について知りたいなら、神様のもとから来た方に聞いてみるのが一番です。天についての情報がほしいなら、天から来られた方がどんなふうか観察してみてもいいでしょう。今日は「天から来られる方」のことを、ご一緒に学びたいと思います。


「証しを受け入れた者

 31節は後ほど改めて確認することにして、まず32節から35節をお読みします。


3:32 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
33 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。
34 神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。
35 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。

 32節には、「この方は見たこと、聞いたことを証しされる」とあります。イエス様が天について語るとき、それは誰か他の人から伝え聞いた情報や、又聞きの情報ではありません。実際にご自身が見聞きしたことを語られるわけです。では、イエス様が天で、実際にご覧になったこと、実際にお聞きになったこととは、何でしょうか。イエス様は天で何を見て、何を聞いたのでしょうか。1章18節には次のようにあります。


1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 イエス様は天で、父なる神様を見ておられました。父なる神様の御心を聞いておられました。そして、父なる神様がどんなに人々を愛しておられるかを見聞きしました。その父の御心を、目に見える形であらわしているのがイエス様です。福音書を読むと、たしかにイエス様は父なる神様について様々なことを説き明かしておられます。ただ、それ以上に、イエス様のなさったこと、イエス様のお姿、イエス様の生き方そのものが、父なる神様をあらわしています。第一ヨハネ4章9節にはこうあります。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです」。父なる神様はご自分の民に、ただ単にことばだけで「わたしはあなたがたを愛している」とおっしゃったのではなく、そのことばのとおりに御子イエスを送ってくださった。「わたしはあなたがたを愛している」とおっしゃった、そのことばが、まさしくイエス様において目に見える形になっている。イエス様ご自身において、最もよく証しされている。ことばが人となって来られた。ここに父の愛が示されている。

 33節には、「その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである」とあります。「神が真実である」ということは、神には偽りがない、裏表がないということですが、そこには「神はご自分のことばのとおりに行動する」という意味も含まれます。「あなたを愛している」と言いながら、罪に苦しむ人間を放っておくような神ではない。「あなたを愛している」と言ったそのことばのとおりに、私を救ってくださる神です。私を救おうと、大切なひとり子を遣わしてくださる神です。この、ことばと行いが一致している神こそ、言行一致の神こそ、私たちの神である。神が真実であるということです。

 「神が真実であると認める印を押した」という表現は、少し新鮮に感じられます。いまの時代にも、ハンコというものがあります。たとえば私たちは、宅急便が届いたときに、「受け取りましたよ」という判を押します。回覧板が回ってきたときに、「たしかに受け取りましたよ」という判を押します。

 さらにハンコにはもともと、封印するという機能もあります。たとえば、封筒に手紙を入れて、封をするときに、封かん印を押すことがあります。手紙が勝手に開封されることを禁じるために、封じ目に印を押すわけです。これは古代の世界においても同じでした。遺言書や契約書といった大切な文書について、その内容に自分も同意するという意思を表明するときに、自分の封印をそこに貼り付けました。「自分はこの文書の内容を保証します」という意思表示として、封印をするわけです。ひとたび封印がなされたならば、その保証は保たれます。つまり、印を押すということは、まことにそうだと保証することであり、しっかりと封印をするということは、その保証が永遠に保たれることです。

 私たちも、「神は真実だ」という証言に確認の印を押したわけです。「神は真実だ」という証しは、たしかに本当だ。イエス様というお方が、神が真実であることを証ししていると、私も知った。イエス様が私の救いのために遣わされたことを信じた。この私もそのことをたしかに確認した。そのしるしとして、印を押す。

 そして、印を一度押したならば、その印は神様によって封印され、変わることがない。パウロも、エペソ人への手紙1章13節、14節で次のように言っています。


1:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

 「永遠のいのちはあなたのものです」、「救いの約束はあなたのものです」という保証書が届いたときに、「はい、たしかに受け取りました」という判を押した以上、「受け取っていない」と言うことはできません。私たちはすでに、「御国を受け継ぐ」権利書、「永遠のいのちを持つ」保証書をこの手に受け取っています。その保証書とは、具体的には聖霊です。私たちに聖霊が与えられていることが、私たちの救いの保証です。

 「救いの福音」を聞き、イエス様を受け入れ、「神は真実である」と認めて、ひとたび印を押したならば、その印は解かれることがない。どんなに私たちが道から迷い出たり、信仰を失いそうになったり、もう自分はクリスチャンを名乗れないと失望したとしても、あのときあの場所でたしかにイエス様を受け入れたならば、もはや私ではなく、神様がその信仰を確かなものとしてくださる。ご自身の聖霊によって、欠けだらけの信仰を励まし、助け、導いてくださる。そうやって、頼りない私ではなく、真実な神様ご自身が、すでに信仰の保証人となっていてくださる。聖霊によって私たちの信仰に封をしていてくださる。何と安心で幸せなことでしょうか。私たちは救いから漏れることが決してないと保証されている。神様ご自身が、私たちに与えられた永遠のいのちを守り抜いてくださる。「あなたも御国を受け継ぐ」と保証してくださる。


「地から出る者

 一方で、聖書は私たちの現実からも目を背けません。ヨハネ福音書の3章に戻って、36節をお読みします。


3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

 イエス様に聞き従わない者には、いのちがない。神の怒りがその人の上にとどまる。聖書はまっすぐにそう語ります。私たちの現実を直視しています。「神の怒りが…とどまる」とあるので、神の怒りは新しく起こったわけではない。初めからあったということです。神の怒りは初めから私たちの上にあった。すべての人の上にあった。そして、イエス様が来られてもなお、イエス様を信じない者には、その怒りがとどまり続ける。悔い改めるまで、怒りがとどまり続ける。

 31節には、「地から出る者は地に属し、地のことを話す」とありました。ギリシャ語から直訳すると、「地からの者は地からであり、地から話す」となります。地の事柄について話すということではなく、地から話す。地のことばで、地の言語で話す、といった意味です。ヨハネの手紙第一4章5節には、こうあります。「彼らはこの世の者です。ですから、世のことを話し、世も彼らの言うことを聞きます」。このみことばにも照らし合わせて考えるならば、「地から話す」とは、“神を知らずに生きる人々に受け入れられやすいことばを話す”ということも含まれるのではないかと思います。

 32節には、「だれもイエス様の証しを受け入れない」とあります。地からの者には、天からの方を受け入れることができません。地に属したままの私たち、生まれつきの私たちは、天から来られる方の証しを受け入れることができません。地に属したままの者には、神のことばが理解できないからです。神のことばは、人間のことば・地のことばと真逆です。地のことばでは「神様は真実なお方だけど、でも現実は厳しい」と言いますが、神のことばでは「現実は厳しいけど、神様は真実なお方だ」と言います。地のことばでは「一生懸命がんばった者が最後には救われる」と言いますが、神のことばは「罪人のあなたもいますでに永遠のいのちを持っている」と言います。神のことばは、私たちの予想をはるかに超えていきます。

 中東ではイスラエルとハマスの戦争が激しくなっています。いま、イスラエルやガザ地区で戦争をしている人たちの多くは、ユダヤ教徒やイスラム教徒です。彼らもまた、自分たちが信じる「神のことば」に基づいて戦争を続けています。パレスチナとかイスラエルと呼ばれる土地の権利を巡って、宗教的な意図を持って戦いを続けているわけです。たしかに、この地上では、強い力をもった者が戦いに勝ちます。地のことばは「やられたらやり返さなければ、負けてしまうじゃないか」と叫びます。「相手に屈服したら、神のことばが汚れるではないか」と叫びます。けれども、まことの「神のことば」は、「やられたらやり返せ」と言うでしょうか。「暴力で相手を叩きのめせ」と言うでしょうか。憎しみに憎しみで返すことを良しとするでしょうか。私たちの理解を超えた「神のことば」は、「あなたの敵を愛しなさい」と教えているのではないでしょうか。

 実際のところ、私たちが神のことばをすぐに理解することは難しいですし、ともすれば、受け入れることのできるものは受け入れ、受け入れられないものは受け入れないという態度をとってしまうこともあります。それは、3章の冒頭で、ニコデモがイエス様に対して言った言葉からも分かります。イエス様が「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言ったのに対して、ニコデモは「年をとった自分がもう一度母のお腹に入って生まれることなどできない」と答えました。ニコデモは、イエス様のおっしゃっていることを理解できません。地から出た者には、神のことばが分からないからです。たしかに、初めて福音を聞く人にとって、福音の言葉がまるで外国語のように聞こえる、ということもあります。皆さんにも経験があるかもしれません。「神は罪人を愛しています」と言われても、最初はそれがどういうことか分からなかった。何のことだか理解できなかった。もし、「神は正しい人を愛しています」という「地のことば」であれば、理解しやすかったかもしれません。でも聖書は「神は罪人を愛しています」と語る。

 さらに言えば、仮にこのみことばを理解できたとしても、それを受け入れるかどうかというのは、また次の問題でしょう。「神は罪人を愛しています」というみことばを頭では理解したとしても、それを自分の心の中に受け入れるかどうか、「神は罪人のあなたを愛しています」という自分へのメッセージとして受け取るかどうか、これを私たちは問われます。「たしかに受け取った」と印を押すかどうか、そこが問われるわけです。


「天から来られる方

 ヨハネは32節で「だれもイエス様の証しを受け入れない」とはっきり言い切ります。イエス様が来てくださったのに、イエス様を受け入れない私たちの姿。それは、神の怒りがとどまり続ける罪人の姿です。自己中心や頑なさ、ねたみや憎しみ、汚い感情がうずまく、罪人の姿です。イエス様を十字架につける、罪人の姿です。

 けれどもヨハネは、33節で「その証しを受け入れた者は…」と続けていく。だれも受け入れないと言いつつ、証しを受け入れた者の存在に言及していく。それはなぜでしょうか。ある説教者はこう言います。


神の怒りは初めから我々の上にあった。すべてのものの上にある、その神の怒りを押し除けるようにしてこの方は来てくださる……神の怒りを本当に真剣に受け止めているところで、この怒りによって我々がさばかれるのではなくて、我々がなお救いにあずかることができるとすれば、すべてのものの上に、上から来られる方がおられるということを信じる以外にない。この神の怒りを受け止めて、我々の代わりに死んでくださった方を受け入れる以外にない。

『加藤常昭説教全集12 ヨハネによる福音書1(オンデマンド版)』教文館、2018年、288-289頁

 私たちの罪の現実の中に、「天から来られる方」があります。上から降りてきてくださる方がおられます。この「天から来られる方」が、私たちの罪のすべてを引き受けて、神の怒りをその身に受けて、断絶していた天と地をつないでくださる。地から天へと昇る道はありません。私たちのほうから天について知る道筋はありません。でも、天から地へと道を開いてくださる方がおられます。イエス様が天からやって来てくださる。いや、すでにやって来た。神の怒りを代わりに受けて、私たちを救うために天から来てくださった。イエス様が天から来られ、すでに地に十字架を打ち立ててくださったからには、もう私たちの救いの約束が覆ることはないのです。

 36節には、「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている」とあります。「やがて永遠のいのちを持つだろう」ではなく、「すでにいま永遠のいのちを持っている」と現在形で語られています。この「永遠のいのち」を与えるために、イエス様は天から来られた。ヨハネの福音書17章2節と3節をお読みします。


17:2 あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。
3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

 先週の宣愛先生の説教でも確認しました。私たちはバプテスマ(洗礼)を受けるとき、キリストとともに死に、キリストとともに生きるのだ、と。地に属する古い自分は死に、天に属する新しい自分が生きるのだ、と。「永遠のいのち」とは、すでに私たちに与えられているいのちです。それは、死んだ後にも、私たちの魂が生き続けるというようなことではない。そうではなくて、私たちがいますでに生きているいのちです。真実な神を知り、イエス・キリストを知るとき、私たちはもうすでに永遠のいのちに生きている。この新しいいのちに生きるとき、私たちは地に属するものではなく、天に属するものとなる。地からのもの/地出身のものではなく、天からのもの/天出身のものとなる。

 最後に、今日の箇所の冒頭、3章31節をお読みします。


3:31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。

 「天から来られる方は、すべてのものの上におられる」。これは、福音書を書いたヨハネが、机の前で頭をひねって、「イエス・キリストとはこのような人物だ」と考えたのではありません。何か抽象的な概念として、「イエス・キリストとは天から来られたかのような存在だ」と言ったのではありません。そうではなく、ヨハネは実際に、天から自分のところに下って来てくださったイエス様と会って、その目で御姿を見て、その耳で御声を聞いて、そしてそのお方がすべてのものの上におられることを認め、自分の上にもおられることを認めた。そのお方の権威がすべてのものの上にあり、自分の上にもあることを認めたからこそ、ヨハネはこのように書いたのではないでしょうか。

 この私の上にも、イエス様はおられる。日々のことに精一杯で、悩んだり、迷ったり、苦しんだり、悲しんだり、嘆いたり、怒ったり、そんな私の上にも主はおられる。疲れ果てて、もう立ち上がれないとうずくまる、そんな私の上にもおられる。信仰なんてどこかに置いてきてしまったかのような、神様への信頼など忘れてしまったかのような、そんな私の上にもおられる。救われてもなお、人をねたみ、人をさばき、人を憎み、罪を犯し続ける、そんな私の上にもおられる。イエス様は、そんな私を、力強い権威をもって、治め、支え、導くために、今日も天から降りてきてくださる。そんな私を愛し、守り抜き、永遠のいのちをしっかりと保証するために、今日も天から来てくださる。すべてのものの上におられる方が、その権威をもって、私の救いを、私の永遠のいのちをも保証してくださるとは、何と揺るぎないことでしょうか。

 「天から来られる方が、すべてのものの上におられる」。この約束を握って、今週も歩んでまいりましょう。お祈りいたします。


祈り

 父なる神様。真実なあなたの御名をほめたたえます。本当に揺らぎやすく、頼りない私たちですけれども、イエス様が天から来られたからこそ、私たちの救いは確かなものと保証されました。あなたのその力強い御手と封印をもって、いまも私たちの信仰を保ち、支えてくださることを感謝します。この新しい一週間も、私たちの永遠のいのちを保証し続けてください。私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。