ヨハネ4:27-30「来て、見てください」(まなか師)

2024年4月21日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』4章27-30節


27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。
28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
29  「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。



 この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。

 私が前回説教をさせていただいたときには、4章26節までをお開きしました。

 4章は、イエス様が、一人のサマリア人の女性に、井戸のそばで出会ってくださる場面です。当時、公の場で男性から女性に話しかけることは珍しいことでしたし、それがユダヤ人とサマリア人であればなおさらでした。ユダヤ人とサマリア人は仲が悪かったからです。

 しかしイエス様は、この女性の魂が渇いていることを知っていて、この人に近づいてくださいました。イエス様と女性の会話は、「生ける水」のこと、女性の過去のこと、礼拝の場所のこと、「御霊と真理」による礼拝のこと、と話題がどんどん移っていくようですが、実は根底に流れているテーマは一つです。それは、「あなたの渇きを満たすのは何か」「あなたの渇きを満たすのは誰か」ということです。二人の会話は、26節のイエス様の言葉、「あなたと話しているこのわたしがそれです」という言葉で、クライマックスを迎えます。


驚きと沈黙

 続く27節を改めてお読みします。


27そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。

 8節にあったように、弟子たちは食べ物を買いに、町へ行っていました。食べ物を手に入れて、イエス様のところに戻ってくると、イエス様が女の人と話しています。ここで弟子たちが「驚いた」と訳されている言葉は、かなりの驚きを表す単語です。日本語で言うなら、びっくり仰天といったところでしょうか。

 弟子たちはなぜ、イエス様が女の人と話しておられるのを見て驚いたのでしょうか。それは、最初に申し上げたとおり、当時は男性が女性に話しかけることはタブーだったからです。今では考えられないことですが、当時のユダヤ教の教えでは、「男は、道で女と話してはならない。自分の妻とも話してはならない」と言われていました。それなのに、弟子たちからすれば、自分たちの主人が、女の人と話し込んでいる。予想もしていなかった光景に、面食らったでしょう。うろたえ、動揺したと思います。

 あまりに驚いた弟子たちは、言葉も出ません。思いがけないイエス様の行動を、ただ黙って眺めることしかできません。状況を理解できないまま、不思議そうに見ていることしかできないんです。

 あるいは、弟子たち自身、女の人と言葉を交わすわけにいかないと思っていたので、黙っていたのかもしれません。それが当時の社会の当たり前だったからです。でもさすがに、目の前にいる女性の存在を無視して、イエス様だけに話しかけることもできなかったのでしょう。「一体なんでこの人と話しているんですか?」とイエス様に尋ねることも、さすがにできませんでした。

 いずれにせよ、男性が女性と話しているということは、弟子たちも触れられないようなタブーだったわけです。ここに、弟子たちの驚きと沈黙があります。

 では、女性のほうはどうだったでしょうか。聖書にはっきりとは書かれていませんが、彼女もまた、このとき、驚き、沈黙していたはずです。目の前にいる人が「わたしがキリストだ」と言っている。「あなたと話しているこのわたしがキリストだ」と断言している。彼女は、イエス様の言葉を聞いて、驚き、はっと息を呑んだことでしょう。待ち望んでいたキリストが、いま私の前にいる。キリストを前にして何と言っていいか、言葉も見つからない。

 もしかすると、弟子たちが沈黙したのは、女性の反応を目の当たりにしたから、とも言えるかもしれません。「わたしがキリストだ」というイエス様の驚くべき発言。それを耳にした女性の驚きの表情。その場に漂う厳粛な雰囲気。それらを前にして、弟子たちには言葉を挟む勇気もなかった。

 一人の人が、イエス・キリストと出会うとき、他の人たちが口を挟むことはできない、一対一の関係が生まれます。イエス様とその人の、一対一の関係です。女性は、やって来た弟子たちには目もくれず、イエス様の顔だけを見つめていたのではないかと思います。


「水がめを置いたまま

 そんな彼女は、次の瞬間、どんな行動に出たでしょうか。28節をお読みします。


28彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。

 なんと彼女は町へと走り出していきます。

 思えば、彼女はひたすら人目を避けて、誰もが出歩かないような昼間に、わざわざ町から離れた井戸まで、水を汲みに来たのでした。結婚と離婚を5回も繰り返し、いまは夫ではない人と一緒に住んでいる。そんな後ろ暗い過去があったので、人に噂をされることを恐れ、後ろ指をさされることを恐れ、周りと壁を作って生きてきた。それなのに、そんな彼女が、いまは急いで町の中に入っていくんです。人々の中に入っていくわけです。

 聖書は言います。「彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き」と。この水がめは、彼女が水を汲もうとしていた水がめです。かなり大きい、女性たちが頭の上に乗せて運ぶような重たい水がめです。急いで町に行こうとした彼女が、大きくて重たい水がめを置いていったのは自然なことです。彼女はとにかく早く、一刻も早く、町に行きたかったからです。この驚きと感動を伝えるために、町を目指して、走っていかなければならなかったからです。

 そう考えると、彼女はもはや、水がめの存在など忘れていたのかもしれません。キリストに出会ったという驚くべき事実のゆえに、自分が水がめを持ってきたことなど頭の中から吹き飛んでいました。

 私たちにも、こんな経験があると思います。とても卑近なたとえで恐縮ですが、コンビニやスーパーで、買ったものをレジに置いたまま、出ていこうとしてしまうことがないでしょうか。そして「お客様〜!お品物をお忘れです」と店員さんから呼び止められます。レジを去るときには、「これを買いにきた」という最初の目的を忘れてしまうわけです。なぜ最初の目的が、頭からすっ飛んでしまうのでしょうか。それは、次のことで頭がいっぱいになっているからです。コンビニを出たら、次はどこどこに行こう。車の鍵はどこだっけ。その前にあの人に連絡しなくちゃ。そんなふうに、新しい事柄で頭がいっぱいになるからです。

 彼女は水を汲むために井戸にやって来ましたが、いまはその水よりもはるかに大切な「生ける水」を知ったんです。「生ける水」を新しく知ったので、古い水がめを置いていってしまったんです。古い水がめのことを忘れてしまったんです。新しい「生ける水」を入れるには、古い水がめはもはや必要ないからです。

 「置いたまま」という単語には、後ろに残す、捨てるという意味もあります。これは、弟子たちがイエス様と出会ったときに、魚をとるための網を捨てて、イエス様に従ったのと同じ単語です。私たちも、新しいものを知った喜びのゆえに、今までのものが必要なくなるという経験をします。

 彼女は、キリストを知った驚きに満ちていました。キリストと出会った感動にあふれていました。キリストとの出会いを他の人に知らせないわけにはいかない、知らせずにはいられないという思いが、彼女を突き動かしていました。「生ける水」が彼女の心を満たしていました。その「生ける水」は、さらに彼女の心から満ちあふれ、他の人にも流れていきます。


「来て、見てください

 29節と30節をお読みします。


29「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
30そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。

 彼女はイエス様のことを人々にこう紹介しました。「私がしたことを、すべて私に話した人がいます」。

 イエス様は文字どおり、女性がしたことの「すべて」を言ったわけではありません。イエス様は18節でこう言われたんです。「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました」。

 イエス様はむしろ、彼女が最も知られたくない、彼女が最も隠しておきたい、その一点だけを話しました。だから彼女は言いたかったのは、こういうことだと思います。「あの人は、私が人生で犯してきた大きな罪を、私に話しました。私の人生の最大の過ちを、完全に知り抜いておられました。その罪が私のすべてです」。

 「私がしたことを、すべて私に話した」。彼女のこの言葉について、説教を準備しながら思い巡らしていた中で、一つのことに気付かされました。それは、彼女が「私の人生に起こったことを、あの人はすべて私に話した」とは言わなかったということです。彼女ははっきりと、「私がしたことを、すべて」と言いました。つまり、「私の人生に起こったこと」という、ある意味で受け身な、他人事のような言い回しではなく、「私がしたこと」という自分主体の言葉を使いました。彼女は分かったのだと思います。誰かがしたことではなく、「私がしたこと」で、私の人生はめちゃくちゃになってしまった。私の人生がいまこんなふうになっているのは、他でもない私のせいだ。私を離縁した夫たちのせいでもなく、私を白い目で見る人々のせいでもない。誰かのせいではなく、私自身のせいだ、と彼女は認めた。

 教会で伝道師として働いていると、様々な方の悩みをお聞きする機会があります。皆さんも、牧師や伝道師でなくても、お友だちやお知り合いの悩みを聞くことがあると思います。「こんな大変なことがあったんです」「こんなひどい人がいたんです」というお話を聞いたりもします。そんなことがあったんですね、本当にお辛かったですね、と心から思います。できる限り、その方の思いに寄り添いたいと思わされます。ただ、多くの人は、「あの人が私にしたこと」「あの人のせいで私の人生に起こったこと」については話しても、「私がしたこと」についてはあまり話しません。言い換えれば、「私自身が持っている罪」については話さない、話したくない、もしくは、気づいていない。……すごく分かるんです。自分がしたことを話すことは、怖いことです。恥ずかしいことです。でも、私たちがイエス様に出会うとき、そこで一番の問題となるのは、「あの人がしたこと」「あの人にされたこと」ではなく、「私がしたこと」です。「私が今持っている罪」です。イエス様はそこを見つめておられる。そして、そのイエス様の前だけに、まことの赦しと救いへの道は開かれている。

 サマリアの女性は、イエス様にはすべてがお見通しだということを認めただけではなくて、イエス様の前に明らかにされた自分自身の罪を認めました。私の心の中の罪を、満たされない渇きを、人生についての後悔を、この人は全て知っておられる。知っていてくださる。もちろん彼女はイエス様への恐れを感じていたと思いますが、それだけではなく、自分は神に知られているという喜びと安心も感じていたのではないでしょうか。

 彼女は、「私がしたこと」をもはや隠しません。公にはしたくなかった自分の過去を、いまはもう隠しません。町の人々にイエス様を紹介するとき、「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます」。そう証しするんです。それまでは、自分の後ろ暗い過去が人に知られることを恐れていましたが、いまはもう、そんなことは気にならなくなっている。

 彼女が話しかけた町の人々は、おそらく男性がほとんどだったと思います。道端にいるのは主に男性たちで、女性たちは日中は家にいるからです。彼女は、女である自分が何かを語っても、しかも表立っては言えないような過去を持つ自分が呼びかけても、人々は耳を傾けてくれないかもしれないということは承知の上で、いやむしろそんなことは忘れて、ただただ夢中で叫びました。「来て、見てください」。

 彼女は「もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」と、問いかけました。イエス様がキリストであることに、まだ自信がなかったのだろう、と解釈する人もいます。でも、それだけではないと思います。もし彼女が「この方こそキリストです」と言い切っていたら、人々は腰を上げなかったかもしれません。彼女の問いかけは、人々に、自分の目で見て、確かめるよう促しました。「来て、あなたの目で、キリストを見てください」。

 その結果、人々は町を出て、イエス様のもとにやって来ます。人々の前から姿を隠してひっそりと生きていたはずのこの女性が、わざわざ人前に出て必死に何かを伝えようとしている、その姿が人々を動かしました。彼女の率直さと興奮が多くの人を動かしました。少し後の箇所を読むと、多くの人々が、イエス様を信じることになったと書かれています。

 イエス様から「行って、あなたの夫を呼んできなさい」と言われた女性が、もっと多くの人々を呼んでくることになったわけです。たくさんの人々をイエス様のもとに連れてくることになったんです。

 彼女は「来て、信じてください」とは言いませんでした。「来て、見てください」と言いました。私たちは、誰かにイエス様を信じさせることはできません。信仰は人のわざではなく、神様のわざだからです。でも、「見てください。見に来てください。見て確かめてください」と呼びかけることはできる。「どれ、見てみるか」と腰を上げてくれる人は必ずいる。

 昨年のクリスマスに、Yさんのおじさまが初めて礼拝に来てくださいました。教会の玄関で私が出迎えたときに、おじさまはこうおっしゃっていました。「甥っ子が以前とは様子が変わったんです。その変化の理由が教会にあるのかと思って、今日はそれを確かめに来たんです」。

 皆さんの中には、誰かに対してキリスト教の証しをするのが苦手だなあと感じておられる方がいらっしゃるかもしれません。誰かにイエス様を証しすることは、自分にはできないなあと思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 もちろん、誰かから私たちの信仰について尋ねられたら説明できるように、準備をしておくことは大切です。私たちが何を信じているか、自分の言葉で言い表すというのは大事なことです。

 ですが、神様が自分にどんなことをしてくださったかを伝えるとき、理路整然と伝える必要は、必ずしもありません。相手に納得してもらえるように説明しなくちゃと思わなくていいんです。

 たしかに、論理的に話すのが得意な人もいますし、その賜物が用いられることもあります。パウロもそうでした。パウロが書いた手紙を読むと、しっかりとした論述がなされています。でも、パウロの周りには、他にもキリストの証し人たちがいました。その中には女性たちもいました。神学の勉強をしたわけではない。論理的に説明できたわけではないかもしれない。でも、神様は、そういったたくさんの人たちのうちに働いて、そういった人たちを豊かに用いて、福音の種を蒔いてくださったんです。のちの時代には名前も知られていないような多くの人たちを通して、イエス・キリストとの出会いが証しされ続けてきたわけです。そういう人たちの小さな、しかし神様の目には大きく、尊い働きがあったからこそ、いまの時代の私たちにまで、この私にまで、キリストの福音が届けられた。

 むしろ、キリストとの出会いにおいて、聖霊が私たちの心に働くとき、その働きは説明がつくものではありません。「なんて説明したらいいか分からないんだけど、イエス様が私の救い主であることが分かったんだ」と証しをする人を、私もたくさん見てきました。私自身もそうです。一生懸命、言葉を尽くして証しをしますが、どうしても人間の言葉では説明がつかないことというのは、信仰の世界にあるんです。説明がつかないからこそ、人間の働きではない、聖霊の働きだと分かることもある。人目を避けていたサマリアの女性が、イエス様と出会った後に、町の人々のところに駆け込んでいったのは、聖霊の働きによる変化としか思えません。

 私たちは、ただ「来て、見てください」と叫べばいい。そうやって、一人の人をキリストのもとに招くのです。証しをする自分に自信を持てなくても大丈夫です。「私を見てください」と言うのではなく、「キリストを見てください」と言えばいいからです。

 サマリア伝道の最初の一声は、この女性の「来て、見てください」という言葉でした。ひとりの女性の言葉が、その地で福音が広がっていくきっかけとして用いられるのです。

 初めは小さく見える事柄が、どのように展開されていくか、神様がどのように用い、広げていってくださるかは、人間には見当もつきません。見当もつかないこそ、神様に期待し続けることができます。

 「来て、見てください」と、一人でも多くの人を、キリストのもとに招きたいと思います。キリストのからだである、この盛岡みなみ教会に、招いていきたいと願います。

 お祈りいたします。


祈り

 父なる神様。「来て、見てください」。この一言を言うのに、私たちにはどれほどの勇気が必要でしょうか。あの人にイエス様のことを伝えたいという気持ちは持っていても、伝えるための言葉を持ち合わせていないような私たちです。自分自身がしたことを話すのにも、恐れを覚えるような私たちです。どうぞ聖霊様が働いてくださり、私たちを力づけ、私たちの小さな証しを用いてくださいますように。サマリアの女性が叫んだように、新しい喜びとともに、「来て、見てください」と人々をイエス様のもとにお連れすることができますように。キリストのからだなる、この盛岡みなみ教会にお招きすることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。