ヨハネ3:1-15「新しく生まれなければ」(まなか師)

2023年6月25日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』3章1-15節


さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3 イエスは答えられた「まことに、まことに、あなたに言います人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモはイエスに言った「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」



「真っ新に生まれ変わって 人生一から始めようが」

 この朝も、皆さんとご一緒に、神様のことばに聴くことができる幸いを覚えます。お一人おひとりの上に、今日も神様の祝福が豊かにありますように。

 私が盛岡みなみ教会に遣わされて3ヶ月が経ちました。皆さんにご配慮いただき、新しい環境に慣れるまでは、比較的のんびりと過ごさせていただきましたが、今朝初めてみことばの奉仕に立たせていただくこととなりました。今日は「新しく生まれなければ」という題でみことばを取り次がせていただきます。共に神様のことばに聴いてまいりましょう。

 さて、「新しく生まれる」と言うと、生まれ変わって人生をやり直す、というイメージが浮かぶのではないでしょうか。少し前に流行った歌で、King Gnuというグループの「白日」という歌があります。ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。その歌の中にこんな歌詞があります。


真っ新に生まれ変わって 人生一から始めようが
へばりついて離れない 地続きの今を歩いているんだ

King Gnu「白日」(作詞・作曲/Daiki Tsuneta)

 この歌詞からは、現代を生きる人たちの願いや求めが聞こえてくるように思います。人生を一から始めたい。生まれ変わって新しく生きたい。失敗も後悔もない、新しい人生を生きたい。

 だから、ああ、本当はもっと理想的な自分だったらよかったのに。もっと違う環境に生まれていればよかったのに。もっと違う両親のもとに育っていれば。もっとお金があれば。もっと才能があれば。あのとき受験に失敗していなければ。あのとき就職がうまくいっていれば。あのとき人間関係がうまくいっていれば。あのときあんな選択をしていなければ。

 そんな過去を断ち切って、全く新しい自分に生まれ変わりたい。でも、実際には、失敗も後悔も抱えたまま、目の前の現実を生きていかなければならない。変われない自分のままで、置かれている立場も環境もそのままで、歩んでいかなければならない。

 このように、生まれ変わりたいという願いと、そう願いながらも変わらない今を生きていかなければならないという現実とのはざまで、葛藤している人は多いのかもしれません。結局のところ、生まれ変わることなんてできない。地続きの今を歩いていくしかない。


ニコデモという人物

 一方で、ヨハネの福音書3章に出てくるニコデモは、そもそも生まれ変わる必要を感じていない人物でした。1節と2節をお読みします。


さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 ニコデモは、「パリサイ人の一人」で「ユダヤ人の議員」でした。パリサイ人というのは、ユダヤ教徒の中でも、えりすぐりの熱心な人たちでした。律法という、神様のルールを厳しく守ることで、神の国に入ろうとする、ある意味では努力家で真面目な人たちだったと言えます。

 そんな人々の中でもニコデモは、「ユダヤ人の議員」でした。71人しかいなかったユダヤの最高議会のメンバーだったんです。いわゆるエリートでした。人からも信頼され、順風満帆な人生を歩んでいました。あらゆるものを持っていた人、とさえ言えるかもしれません。

 そんなニコデモは、イエス様と話してみたいと思ってやって来ました。そして言います。


2 ……「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。……」

 ニコデモは、イエス様が神のもとから来た方であると感じていました。このニコデモの考えは正しいものでした。だからこそ、ニコデモのうちには、自負心があったかもしれません。「このイエスという男が神のもとから来たことに、自分は気付いた!ただ者ではないということに、気付けたんだ!」そういう自負心です。そのような自負心は、パリサイ人として忠実に、熱心に生きてきたという自信からきていたのでしょう。彼はとにかく熱心で、自信満々だった。

 しかし、一方で、そんなニコデモがイエス様のところにやって来たのは「夜」でした。夜に訪ねてくるというのは、人目を避けたいという気持ちがあったからです。彼はこう思ったのかもしれません。「ユダヤの議員である自分が、最近話題のイエスという男に会いに行くなら、たちまち噂になるだろう…。」

 たしかに、今日の箇所の直前、2章の後半を見てみると、イエス様は、いわゆる「宮清め」のために、神殿で騒ぎを起こしたばかりでした。神殿で暴れたイエス様は、ユダヤ教当局から危険な人物だと目をつけられていたのです。そんなイエス様に堂々と会いに行くことは、ニコデモにはどうしてもできませんでした。だから世間体を気にして、暗い夜にやって来た。夜の闇に隠れてやって来た。

 先週の礼拝説教の中では、イエス様とイエス様の言葉を恥じていないか、ということが語られました。イエス様は「わたしとわたしのことばを恥じるなら、わたしはその人を恥じる」とおっしゃった。

 水曜チャペルで、この説教から語られたことを分かち合ったときに、YさんとNさんと同じグループになったんですが、私は子どものころから「恥」や「恥ずかしさ」を強く感じるほうだという話をしました。いま、宣愛先生と私はこの教会の建物の2階に住まわせていただいていますが、私は子どもの頃から教会と家が同じ建物だったので、小学生の頃から、近所では「教会の子」と認識されて育ちました。教会の建物の前は通学路だったので、小学生がみんな通るんですが、私が朝、学校へ行くために家の玄関を出ると、その子どもたちと顔を合わせるわけです。小学校は、全校生徒が800人以上の大きい学校だったので、みんながみんな顔見知りというわけではありませんでした。教会から出てくる私を、みんなが興味深そうに見るわけです。玄関から家の中を覗き込んで、「この建物の中にはいったい何があるんだろう」「この建物から出てきたこの子は何者だろう」という顔をしている子たちもいました。私はそうやって注目を浴びることがとても恥ずかしかったんです。なので朝は、なるべく人通りが途絶えたときを見計らって、玄関を開けるようになりました。

 この話を先週の水曜チャペルで分かち合ったところ、Yさんから「今も教会に住んでいて、同じような気持ちになるんですか」と聞かれました。献身して伝道者になったからには、さすがに恥ずかしいという思いはありませんし、教会と同じ建物に住まわせていただいていることには感謝しかありませんが、でも、注目を浴びることや目立つことに対する苦手意識は、正直いまもあります。伝道者になると、嫌でも前に立つ機会は増えるので、私は伝道者には向いていないなあと思うことも実はよくあります。職場でも地域でも、ある意味でクリスチャンや教会は「異質な存在」なので、やはり目立ってしまうことは多いように思います。そういった、注目を浴びることや、異質な存在になることに対する恥ずかしさが、福音宣教の働きや、地域で証しを立てることの妨げになってしまうかもしれない、という恐れは、いまでも私の弱さだなと感じています。

 私自身の話が長くなりましたが、こう考えてみると、私たちにも、ニコデモと似たようなところがあるのではないでしょうか。イエス様を信じてはいても、どこか堂々とできない。「私はクリスチャンなんだ」と誇りをもって言えない。

 もちろん、職場でも地域でも、「自分はクリスチャンなんだ」ということを初めから伝えている、という方もたくさんおられると思います。すばらしいことだと思います。すごいなあと思います。しかしそれでも、たとえば、信仰のゆえに職場で孤立してしまう、地域で孤立してしまう、親族・家族の中で孤立してしまうということになったら、自分はどうするか。そう考えるとき、少なくとも私は暗い気持ちになります。信仰を守り通せる自信がない。むしろ、自分の立場を守りたい、自分を犠牲にはしたくない、そんな思いがわいてきます。

 もっと言うならば、『塩狩峠』のモデルとなった長野さんのように、自分のいのちを捨てるような究極の決断を迫られたときに、クリスチャンとしての証しを立てられるか、いのちを捨ててまでも信仰に生きることができるか、と問われたら、もちろん、自信をもって「できる」と本当は言いたいけれども、100%「できる」と言い切れる人はなかなかいないのではないでしょうか。

 自分の立場を守りたい、自分を犠牲にはしたくない。そういったずるいところが人間にはある。ニコデモはここで、そういう私たちの代表として、夜の闇の中に登場しているんです。

 私たちは、「自分を守りたい」という気持ちがどうしても捨てきれないことに気づくとき、それは、自分の信仰が足りないからだ、自分の信仰が生ぬるいからだ、と考えます。イエス様のために死ぬことができないのは、私の信仰が弱いからだ。そして、もっと熱心にイエス様を信じなければ、と思います。恐れや不安がなくなるくらい、もっともっと信仰を強く持たなければ、と思います。私たちは、熱心さによって、信仰の足りなさを補おうとするんです。

 ニコデモはもともと熱心な人でした。神の国に入るためなら、どんなことでもする。どんな厳しい律法も守ってみせる。そんなふうに、熱く燃やされた思いを持った人でした。しかし彼のうちには、恐れがあった。イエス様に近づいていく道を選ぶならば、自分の立場を失ってしまうと恐れていた。ニコデモの心のうちには、熱心さと恐れの両方があったのではないかと思います。私たちがどんなに熱心だとしても、「いまの立場を失ったらどうしよう」という恐れを締め出すことはできないのです。


新しく生まれるとは

 そんなニコデモに、イエス様は言われます。


3 ……「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 イエス様は、ニコデモの恐れを見抜いたうえで、迫ります。「人は、新しく生まれなければいけない。あなたもそうなのだよ、ニコデモ。あなたこそ、新しく生まれなければならないのだよ。」

 ところが、ニコデモはイエス様のおっしゃっていることが理解できません。


4 ……「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

 イエス様は、目に見えない世界のことを語られたのに、ニコデモは、目に見える世界のこと、肉体が生まれ変わることだと思っていました。そして、そんなことがいったいどうやって起こるのか、そんなの不可能だ、と思ったのです。

 新しく生まれるとは、どのようにして起こるのか。イエス様は、ニコデモに答えを用意してくださっていました。13節から15節をお読みします。


13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 天から下って来た者、人の子とは、イエス様のことです。

 モーセが荒野で蛇を上げたという出来事は、民数記に記されています。民数記21章4節から9節を読んでみたいと思います。


21:4  彼ら〔イスラエルの民〕はホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、
神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」
そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。
民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」

9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

 荒野で人々が神様に逆らったとき、神様が燃える蛇を送られたので、蛇は人々にかみつきました。人々が悔い改めると、主はモーセに、青銅の蛇を造らせ、それを旗ざおの上につけさせます。主はこう言われました。「蛇にかまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」

 人々が蛇を仰ぎ見ると生きたように、私たちは、イエス様を仰ぎ見ると生きる。では、そのイエス様は、どこにおられるのか。それは、十字架の上です。ヨハネ3章14節「人の子も上げられなければなりません」の「上げられる」という言葉、これをギリシャ語で見てみると、13節の「天に上る」とは別の単語が用いられています。14節の「上げられる」は、ὑψόω(イプソオー)という動詞です。この動詞は、ヨハネの福音書では、イエス様の十字架を意味する箇所でしか使われていません。なので、14節で「人の子も上げられなければならない」と言われているのは、十字架のことです。イエス様は、天上のすべてのものを捨てて、この地上に下ってきてくださり、十字架にまでかかってくださった。神としての立場を捨てて、十字架にかかってくださった。

 その十字架の上におられるイエス様を仰ぎ見るならば、私たちは生きる、と言うのです。「十字架のわたしを見て信じなさい。すべてを捨てたわたしを見て信じなさい。そうすればあなたがたは生きる。新しく生まれる。」イエス様はそう言われたのです。


3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。

 イエス様はここで二つの「ねばならない」を語られました。一つ目は、「あなたがたは新しく生まれなければならない」。そして、二つ目は、「人の子は十字架に上げられなければならない」。ここで私たちが覚えておきたいのは、「私たちが永遠のいのちを持つ」という約束、つまり「新しく生まれる」という約束は、イエス様が十字架に上げられることを絶対の条件にしているということです。私たちが新しく生まれるには、イエス様が必ず十字架にかからなければならなかった。

 地上の論理では、ニコデモのように熱心に努力を重ね、神の国に近づこうとした人が、神の国を見ることができます。しかし、天上の論理では、それとは反対に、すべてを捨てた人が、神の国を見ることができるのです。それは、イエス様こそが、すべてを捨てた結果、栄光を受けられたからです。ここで私たちは問われます。自分は、安全なところから、十字架上のイエス様を見ていればよいのだろうか。私にいのちを与えるために、ご自分のいのちを捨ててくださったお方を、遠くから見ていてよいのだろうか。

 ニコデモの熱心さ、真面目さ、立派さは、人間の目から見ればすばらしいものだったでしょう。議員という立場も、人から信頼された結果だったでしょう。ニコデモ自身も、それらは良いものだと信じて疑わなかったでしょう。けれども、自分では良いと思っているものこそ、捨てる必要があるのかもしれません。私たちがイエス様を信じようとするとき、私たちの目に良さそうなものが、実は邪魔になっていることがあります。地上のものを捨てなければ、自分に死ななければ、自分を差し出さなければ、新しく生まれることはできません。

 では、すべてを捨てたら、私たちには何も残らないのでしょうか。そうではありません。私たちはイエス様だけを持つのです。私たちがイエス様にならって、すべてを捨て、地上には何も持たない者になるとき、私たちはイエス様だけを持つことになるのです。


新しく生まれ始める

 ニコデモは、このヨハネの福音書に三回登場します。一回目は、こそこそとイエス様のところに来た、この夜の場面。

 そして二回目は、議会の中で、イエス様を何とか弁護しようとする、7章の場面です。そこには、自分の立場を危険にさらし始めるニコデモの姿があります。

 そして最後に登場するのは、19章、イエス様の十字架の場面です。そこでニコデモは大胆な行動に出ます。十字架上で死なれたイエス様のからだを引き取り、墓に埋葬したのです。犯罪者として処刑された人物を引き取って埋葬する。そんなことをしたら、ニコデモの立場は危険です。イエス様を犯罪者として断罪した、議会の決定に逆らうからです。それでもニコデモは自らをささげ、イエス様から離れませんでした。何を失っても、イエス様とともに生きていくことにしたのです。これが、新しく生まれ始めた者の姿です。

 「新しく」と訳されているギリシャ語には、「上から」という意味もあります。「上から生まれなければ」つまり「天におられる神から生まれなければ」、神の国を見ることはできない。どんな人でも、神に由来する者にならなければ、神の国を見ることはできない。ニコデモの変化は、地上の論理とは反対の、天上の、神由来の論理でしか説明できません。ニコデモは、地上では何も持たない者へと、イエス様だけを持つ者へと変えられていったのです。

 彼はその後も、失敗をしなかったわけではないでしょう。何かを失いたくなくて、信仰が揺らぐこともあったかもしれません。けれども、新しく生まれるとは、立派な人間になるとか、劇的に信仰が強くなるとか、二度と間違いを犯さないとか、そういうことではありません。「新しく生まれる」とは、十字架に上げられたキリストを仰ぎ見て生き始める、ということです。自分の弱さにくず折れそうになっても、すべてを捨てた方を見上げ、そのお方のように自分を少しずつ捨て始めていくことが、新しく生まれることです。自分という人間において、余計なものを捨てていくんです。

 また、「生まれる」という動詞は、ギリシャ語では受け身です。神様がなしてくださることを、私たちは受け取るだけです。新しい誕生は、自分の努力で勝ち取るものではありません。真面目さも熱心さも、必要ありません。

 「生まれる」とは創造されること、新しくつくり出されることです。私たちがもともと持っている何かよいものを、生かすわけではありません。心の中の、何もないところに、いやむしろ、自分の力では捨てられないもので満ちていて、自分ではどうしようもできないところに、神様が働きかけてくださる。神様が私たちを少しずつつくり変えてくださる。それが、「新しく生まれる」、「上から生まれる」ということです。

 8節では、この神様の働きが、風が吹くことにたとえられています。8節をお読みします。


8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。

 ギリシャ語では、「風」と「御霊」は同じ単語です。風が目に見えず、どこから来てどこへ行くのか分からないように、御霊の働きも目には見えないし、御霊が誰にどのように働くのか知ることはできない。風が思いのままに吹くように、神様もみこころのままに御霊を送られるんです。しかし、目には見えなくても、御霊が働かれた結果は分かります。御霊ご自身は目に見えなくても、御霊によって新しくされた人間は目に見えるからです。風が吹くと、風の音が聞こえ、木の葉が揺れ、雲が流れていくのと同じように、御霊が働かれると、人は新しく生まれ、つくり変えられていきます。御霊によって生まれた者も、たとえすぐには分からなくても、新しく生まれた結果ははっきりと認められるようになるのです。私たちも、イエス様に従っていく歩みをする中で、御霊の促しによって、自分が握りしめていたものを手放せたという経験を少しずつ重ねていくのではないでしょうか。

 私自身、握りしめているもの、なかなか手放せないものがあります。「恥ずかしい」、「注目を浴びたくない」という感情です。自分をすぐに変えることは難しい。けれども、イエス様を証ししたいと願うならば、人を恐れていては始まらない。御霊が私を新しくし、恐れを取り去ってくださるよう祈っています。いまでも、人前に出ること、ましてや説教壇に立つことは緊張します。恐れを覚えます。でも、少しずつ少しずつ、主が私を変えてくださることを信じていますし、実感もしています。十字架の上で裸にされ、あざけられ、人々の冷たい視線を浴びた、そのイエス様のつらさ、恥ずかしさを見つめるとき、私自身が人前に出て受ける恥のなんと小さいことか、このことが少しずつ分かっていくのです。

 イエス様を信じる者は、新しいいのちを生きています。すでに新しい者として、生き始めているんです。御霊によってこのイエス様のいのちに結び合わされ、イエス様とともに新しく生きるなら、上からの者として生きるなら、この地上の現実の中を歩むときも大丈夫だ、イエス様はそうおっしゃいました。たしかに、目に見える現実は厳しいままかもしれない。「自分に死ぬ」ことはすぐには難しいかもしれない。すべてを捨てることは簡単ではないかもしれない。でも、イエス様とともに生き始めたなら、すでに私たちは新しく生まれています。ニコデモのように、自分を捨て始め、イエス様だけを持ち始めています。熱心な信仰でなくてもいい。イエス様のために死ぬ覚悟は、いまはできなくてもいい。ただイエス様にすがりつき、イエス様から離れないで、助けを求めて祈るならば、イエス様ご自身が私たちに働いてくださる。この信仰によって、このお方とともに、今週も安心して歩んでまいりましょう。お祈りいたします。


祈り

 神様。新しく生まれなければならないというみことばを、聞きました。私たちは何と多くのものを握りしめて生きていることでしょうか。しかし、十字架に上げられたイエス様を仰ぎ見ることが許され、今日も新しいいのちに生かされています。イエス様、あなたについていくのに不必要なものがあれば、お示しください。すべてを捨て、あなただけを持ちたいと願っています。それは私たちには簡単なことではありません。主よ、どうぞ助けてください。あなたご自身が、御霊によって私たちを新しく生まれさせ続けてください。