ヨハネ4:1-15「渇くことのない水」(まなか師)

2023年11月19日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』4章1-15節


1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」



 この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。

 今日のみことばのキーワードのひとつは「渇き」です。皆さんはどれくらいの頻度で、喉の「渇き」を感じるでしょうか。余談ですが、私はカルピスがまあまあ好きで、ファミレスのドリンクバーなんかでは時々飲むんですけれども、あの飲み物は不思議ですね。味は美味しいんですが、飲めば飲むほど喉が渇くんです。一口飲むと、喉が潤された気になるものの、すぐにまた喉が渇いて、次の一口を飲みたくなります。カルピスの消費量を増やすための、アサヒ飲料の戦略かもしれません。

 最近はずいぶん気温が下がってきたので、夏の暑い時期に比べると、喉が渇いたなあと感じることは減ったように思います。でも、冬の空気は乾燥しているので、自分でも自覚していないところで、私たちの身体は結構渇いているそうです。

 私たちの霊的な状態、心の状態はどうでしょうか。私たちの心は潤っているでしょうか。それとも、「渇き」を覚えているでしょうか。私たちの心の「渇き」とは何でしょうか。そして、どうすれば「渇き」は満たされるのでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。


心の「渇き」:飲めば飲むほど渇く水

 まずは1節から6節をお読みします。


1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。

 イエス様は、エルサレムがあるユダヤ地方におられましたが、ご自身のことがパリサイ人たちの間で噂になっていると知ると、故郷であるガリラヤ地方に戻ることにされます。パリサイ人たちにまだ捕まるわけにはいかなかったからです。宣教活動は始まったばかりです。十字架の時が来るまで、まだまだ福音を宣べ伝える使命があります。

 ところが、ユダヤ地方とガリラヤ地方の間には、サマリアという名前の地域がありました。急いでガリラヤ地方に向かうためには、このサマリアを通らなければなりません。

 サマリア人と呼ばれる人々はもともと、ユダヤ人と同じイスラエルの12部族に属する人々でした。けれども、人種的に純粋なユダヤ人ではなくなり、偶像礼拝も行っていたため、ユダヤ人はサマリア人を自分たちの仲間とはみなしませんでした。そのことのゆえに、互いが互いを攻撃する事件が、数百年の間に何度も起こりました。ユダヤ人とサマリア人は対立し、憎しみ合うようになりました。

 ただしサマリア人も、偶像礼拝をしつつ、まことの神様への礼拝も行い、独自の信仰を保ちました。イエス様の時代には、エルサレム神殿ではなくゲリジム山という山で、神様を礼拝するようになっていました。そういう意味では、ユダヤ人とサマリア人は、同じ神様を礼拝し、同じように救い主メシアを待ち望んでいたものの、宗教的には互いに対立していたと言えます。ユダヤ人はむしろ、サマリア人が自分たちと同じ神様を礼拝していたからこそ、我々のほうが正しい、我々の礼拝のほうが正統だと激しく主張したわけです。そう考えると、いま戦争をしているイスラエルとハマスも、天地万物を造った聖書の神を礼拝しているという点では、どちらも同じ神様を信じているはずです。しかし、それぞれ自分の正しさを主張し、自分の権利を主張するためなら相手を叩き伏せることもいとわない。彼らの姿は、まことの神様を悲しませているのではないでしょうか。

 イエス様の時代に話を戻しますが、当時の資料を読むと、ユダヤ人の皆が皆、サマリアに足を踏み入れることを避けていたわけではないようです。けれども、少なくともユダヤ教の指導者たちは、やはりサマリア人との接触を避けていたのではないかと言われています。

 イエス様はユダヤ人ですが、故郷に帰る道を急いでいたので、サマリアを通らなければいけませんでした。最短ルートでガリラヤに戻るには、サマリアを通らざるを得なかったからです。そしてスカルというサマリアの町にやって来られます。

 そこには井戸がありました。6節にはこうあります。「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。」

 この箇所を読むと、率直に思います。「イエス様も疲れを覚えることがあるんだなあ」。もちろんイエス様は神の子ですけれども、私たちと同じ人間として、この地上を歩んでくださったお方です。旅をすれば疲れるし、よっこいしょと座って休憩したくなる。喉も渇く。このあたりは乾燥し、カラカラに乾いた気候です。しかも時刻はおよそ第六の時、つまり正午ごろです。ギラギラと日が照りつける真っ昼間に、炎天下で汗を流しながら、井戸のほとりに座っておられるイエス様。疲れてへとへとになって、ただそこに座っておられるイエス様。疲れていてもなお、旅を続けなければならない、前に進んでいかなければならないイエス様。まことの人間として、私たちの弱さも苦しみも経験してくださったイエス様の姿です。

 続く7節から9節をお読みします。


7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。

 彼女はとても驚き、困惑しました。ユダヤ人の男性から話しかけられたからです。当時は、公の場で男性から女性に話しかけることは多くなかったようですし、それがユダヤ人の教師とサマリア人の女性であればなおのことです。しかも、16節以降で明らかになるように、この女性には後ろ暗いところがありました。結婚と離婚を5回も繰り返し、さらにはいま同棲している相手とは結婚していない。現代の感覚でも、なかなかの異性関係の遍歴かもしれません。まして、当時の社会では、とんでもない女、不道徳な女だと後ろ指をさされても不思議ではなかった。こんな女とは関わりたくないと、社会から除け者にされていたかもしれない。

 だからこそ彼女は、本来なら人が出歩かないような真っ昼間に、水を汲みにくるんです。町中の井戸ではなく、わざわざ遠くの井戸へ。できるだけ誰とも顔を合わせないで済むように。誰からも後ろ指をさされないで済むように。

 そうやって今日も人目を憚りながら井戸までやって来ると、ひとりのユダヤ人の男性が井戸のそばに座っている。誰にも会いたくないと思っていたのに。水を汲んでさっさと帰ろう。そう思っていると、その人が突然「水を飲ませてください」と話しかけてくる。彼女は思わず後ずさりしたかもしれません。なぜこの私に話しかけてくるのだろう。ユダヤ人であり、男性であり、教師であり、自分とは対極にいるような人。自分とは全く違う世界に生きている人。自分とは関わることすらないような人。もし私の事情を知っていたなら、私に話しかけることなどあり得ないような人。


渇くことのない水

 けれどもイエス様は、ユダヤ人とサマリア人という人種の壁も、男尊女卑という差別の壁も、罪人と蔑まれるような男性遍歴の壁も飛び越えて、彼女に話しかけます。イエス様のほうから話しかけたことで、本来は出会うはずのなかった二人の会話が始まっていきます。10節から15節をお読みします。


10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 イエス様は、この人の本当の必要をご存じで、その渇いた魂をご存じで、彼女に話しかけました。彼女をさばく者としてではなく、彼女を救う者として。彼女の苦しみを、彼女の本当の求めを理解している者として、出会ってくださいました。

 彼女の魂はカラカラに渇いていました。結婚をするたびに、「今度の人はきっと大丈夫、私を幸せにしてくれる」と思うのに、その期待は裏切られてきた。五人も六人も男性たちと過ごしてきたけれど、どうしても心は満たされなかった。満たされない心、裏切られて傷ついた心を満たしてほしいと、また新しい男性に拠り所を求めるということを繰り返して、人生はめちゃくちゃになってしまった。自分の幸せはどこかにいってしまった。町の人たちからは白い目で見られる。ふしだらな女だと蔑まれる。どうしようもない女だということは自分でも分かっている。男性たちだけではなくて、自分のせいでもあることは分かっている。でも、私だってこんな人生を送りたかったわけではない。幸せになりたかっただけなのに。心を満たしてくれる人を探し求めてきただけなのに。こんなはずではなかったのに。

 イエス様は言われます。「あなたの心は、あなたの魂はカラカラに渇いているね。わたしはそれを知っているよ。」そんなふうに、イエス様は、彼女のカラカラに渇いた魂に「生ける水」を与えようと、彼女に近づいてくださったんです。

 皆さんは、魂の渇き、霊の渇きを感じたという経験があるでしょうか。「私の魂はいま渇いている」「満たされることを求めて渇いている」と特に感じたことがあるでしょうか。

 私は振り返ると、特に大学時代にそのような期間を過ごしたなと思います。先日、ある人と話していて、東京は人が多い分、「なんでこんなにたくさんの人がいるのに、私はひとりなんだろう」と孤独を感じるよね、という話になりました。親元を離れて慣れない環境で一人暮らしを始め、大学での学びに一杯一杯だった日々は、色んな葛藤や困難だらけでしたが、教会とKGKという居場所が恵みとして与えられ、表面上はなんとか保たれていました。でも大学卒業間際にふと、私の四年間は果たして何だったのだろうかという思いになったんです。そして、「ああ、私はひとりだった、ずっと孤独だった」と感じました。たしかに教会やKGKの信仰の仲間たちに恵まれ、クリスチャンに限らない友人にも恵まれ、なんとかやってきた大学生活だったけれども、本質的なところで私はずっとひとりだった、神様と一緒に歩んでこなかったと気付かされたんです。四年間、神様はいったいどこにおられただろうかと思いました。

 私たちは渇いた心を、人との関わりによって満たそうとします。人と関わることによって、自分は一人ぼっちではないと思い込もうとします。しかし、究極的な渇きというのは、神様と一緒に生きていないことから生じます。自覚しているか、自覚していないかに関わらず、神様が共におられないときに、人間は渇いている。他のものや他の人に満たしを求めても、満たされることはない。神様にしか満たすことのできない渇きがある。私は本質的なところではずっと渇いていたのに、それに気づかないままで、大学の四年間をやり過ごしてしまいました。卒業を目前にするまで、自分自身の渇きに気づくことができませんでした。

 しかし、「私はずっとひとりでした。主よ、あなたはどこにおられたのですか」と心の中で叫んだときに、あるクリスチャンの友人が、その私の心の叫びに気づいて、こう祈ってくれたんです。「まなかちゃんが孤独を感じていたときにも、イエス様が共にいてくださったことを感謝します」。この祈りを聞いた次の瞬間、目が開かれました。ずっと私はひとりだと思ったけれども、私が目をつぶっていただけで、すぐそばにはイエス様がおられた。目をつぶっている私のそばに、「主よ、どこにいるのですか」と問う私のそばに、悲しそうな顔をしてイエス様が共におられる。その光景が目に浮かびました。

 そこで初めて、「主よ、いつもそばにいてくださったのに、私はあなたを無視していました。ごめんなさい。いつもそばにいてくださって、ありがとうございます」と悔い改めと感謝の祈りをすることができました。

 一人であることを認めるとき、私たちは渇きを自覚します。他のものや他の人、日々のことや忙しさでごまかしてきた渇きに、向き合わざるを得なくなります。いや、神様が、渇きに気付きなさいと促してくださるのかもしれません。

 イエス様はサマリアを通らなければいけませんでした。それは急いでユダヤからガリラヤに行くためには、サマリアを通るのが最短ルートだったからです。けれどもそれは、表面的な理由に過ぎません。

 ヨハネの福音書の3章をこれまでご一緒に読んできた中で、繰り返し確認したのは、神様の「ねばならない」です。「人は新しく生まれなければならない」、「キリストは十字架にかからなければならない」、そして「キリストは盛んになり、私は衰えなければならない」。これらはみな、神の意志によって、成し遂げられることです。私たちを救うという神の決心によることです。人間の「ねばならない」ではなく、神の「ねばならない」です。

 イエス様がサマリアを通らなければならなかった本当の理由。それは、このサマリアの女性に出会わなければならなかったからです。イエス様はこの一人の魂を目指して、彼女の渇きを満たしに来られた。

 サマリア人としてユダヤ人から憎まれ、女性として男性から見下され、不道徳な者として律法からさばかれる。そんな地を這うような歩みをしていた女性に、神などどこにいるのかと叫んでも不思議ではない女性に、イエス様は何としても出会おうとしてくださった。あえてサマリアを通る道を選び、あらゆる壁を壊してくださった。そして最終的には、この女性の心の壁をも壊してくださった。何人もの男性と暮らしてもなお孤独であり続けた女性の渇きを、満たしてくださった。

 サマリアを通るということになれば、何かしらの面倒事に巻き込まれる可能性もありました。パリサイ人たち、ユダヤの指導者たちから、さらに目をつけられる危険性もありました。遠くても、サマリアを避けて回り道をすれば、安全な道を行くこともできました。けれどもイエス様は、渇き切って苦しみあえぐこの女性のために、サマリアを通ることを喜んで選んでくださった。

 イエス様と女性の会話を読むと、彼女はイエス様の心を理解することがなかなかできません。イエス様が霊的な渇きのことを話しているのに、彼女は肉体的な渇きのことを話しています。ニコデモのときにもそうであったように、イエス様と彼らの会話はどこか噛み合わないんです。でも、イエス様のほうは、彼らの求めを深く理解されています。その魂の渇きを、彼ら自身が理解しているよりも、もっともっと深く理解されています。私たちは目の前の問題、目の前の困難の解決を求めて叫ぶかもしれません。けれどもイエス様は、私たちのもっと深いところにある問題、満たされる必要がある渇きをおしえてくださるんです。

 サマリアの女性が求めたのは、「ここに汲みに来なくてもよいように」という表面的な解決でしたが、イエス様はもっと根本的な問題を解決しようとされました。私たちも、自分自身の悩みや苦しみについて、表面的な解決を求めてしまうことがあります。お金が足りなくなって不安になれば、お金が手に入るようにと祈り、お金が手に入るとまた安心する。病気になって不安になれば、病気が治るようにと祈り、病気が治ると安心する。しかしそれは、表面的な解決に過ぎません。十分なお金があることも、健康な身体があることも、もちろん大切なことですし、感謝すべきことですが、しかし根本的な問題は、私たちがイエス様とともに生きているか、ということです。イエス様に信頼し、イエス様がともにいてくださることを知っているなら、どんなに困難な状況に陥ったとしても、渇くことはない。不安に押しつぶされることはない。

 なぜイエス様は、私たちの渇きを理解することができるのでしょうか。それは、イエス様が神の子であり、なんでもお見通しだからということもあるでしょう。たしかに、イエス様は私たちの心のうちを全て知っておられる。しかしそれだけではありません。イエス様ご自身が渇きを経験されたからです。喉が渇くという肉体的な渇きのことではありません。十字架で、父なる神様との関係が断たれるという、霊的な渇きです。イエス様は十字架上で言われました。「わたしは渇く」。神はどこにいるのか。どうしてわたしをお見捨てになったのか。この渇きをその身をもって経験してくださったお方だからこそ、イエス様は私たちの渇きを深く深く知っていてくださる。そして、イエス様が渇いてくださったのは、私たちが潤されるためでした。

 14節をもう一度お読みします。


14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。

 イエス様が与えてくださる水とは何でしょうか。いつまでも決して渇くことのない水とは、何でしょうか。その人の内で泉となる水とは何でしょうか。永遠のいのちへの水とは何でしょうか。私たちの渇きを満たし、潤すことのできる、唯一の水とは何でしょうか。

 少し後の箇所で、イエス様はこの水とは何か、はっきりと語っておられます。ヨハネ7章37節から39節をお読みします。


7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。

 イエス様が与えてくださる水とは、御霊です。渇いた者がイエス様のもとでいただくことのできる水とは、御霊です。決して渇くことのない水とは、御霊です。

 7章38節では、イエス様を信じる者は「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようにな」るとあります。4章14節でも、イエス様が与える水は、「その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出」ると言われます。

 イエス様は私たちの心に水を与え、渇きを満たし、潤してくださるだけではない。さらにそこに泉が湧き出て、川が流れ出る。そこを源として、水がこんこんと湧き出て、外へと豊かに流れ出ていくと約束されています。

 私たちに与えられた御霊は、私たちの周りの人をも潤すものです。イエス様は私たちに与えられた御霊を通して、他の人たちをも潤してくださる。

 私の大学時代の経験をお分かちしました。交わりによってぎりぎり保たれていた私の日々は、神様の前では本質的にはたった一人、孤独で渇いた日々でした。けれども、その渇きに私自身が気付かされたとき、もう一度神様に目を向けさせてくれたのは、他でもない、同じ神様を信じる人との交わりでした。私のために祈ってくれた友人が、「まなかが孤独なときにもイエス様は共におられた」とおしえてくれたのです。後になって、その友人に「あのとき、あのように祈ってもらえたから、私は信仰を回復することができたんだ」と感謝を伝えたところ、友人は私のために祈ったことすら覚えていませんでした。でもだからこそ、「人間の力ではなく、御霊が働いてくださったんだね」と確認することができました。友人のうちに住んでおられる御霊を通して、主は私の渇きを満たしてくださったんです。

 渇きを満たしていただいた者として、私たちも周りの人の渇きを満たすために用いられることができます。主は私たちのうちに御霊を与え、その泉から湧き出る水を、川のように広げていってくださる。渇きを満たすことのできるお方はイエス様お一人ですが、私たちのうちに与えられている御霊は、周りにいる人たちの渇きに気づかせてくださいます。隣人の渇きに気づくよう促してくださいます。御霊の促しはささやくような御声によって聞こえてきます。その細い御声によく耳をすませながら、私たち自身もイエス様から渇きを満たし続けていただく、そのような教会の歩みでありたいと願います。お祈りいたします。


祈り

 父なる神様。イエス様が私たちの深いところにある渇きを、知っていてくださることを感謝いたします。イエス様ご自身が、私たちの渇きを満たしてくださいますように。また、私たちのうちに与えられている、渇くことのない水である御霊によって、隣人の渇きのためにも仕えることができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。