ヨハネの福音書

聖書の説教
ヨハネ6:1-15「彼らが望むだけ」(まなか師)新着!!

・・・・・・「どこから」という言葉は、ヨハネの福音書のキーワードです。どこから助けはやって来るのか。どこから必要は満たされるのか。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」とイエス様は問われる。旧約聖書の詩篇の作者も次のように問いました。「私の助けは どこから来るのか」(詩篇121:1)。この問いは、今を生きる私たち一人一人にとっても根源的な問いであると思います。「私の助けは どこから来るのか。」・・・・・・

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ヨハネ19:1-16a「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」(使徒信条⑨|宣愛師)

・・・・・・数ヶ月前のことですが、「今度から日曜礼拝で使徒信条の説教シリーズを始めるんだよ」という話をしたら、Hくんから、「使徒信条の中になぜピラトの名前が入っているのかについても、ぜひ取り扱ってほしいです」と言われました。「なんだかピラトがかわいそうで」という話にもなりました。たしかに、キリストを十字架につけて殺した人物として、世界中の教会でその名前が呼ばれ続けるなんて、やっぱりかわいそうだという気がします。しかし、そんな風に考える私たちは、どこかでこのピラトという人を、自分とは無関係の、他人事だと思っているのかもしれません・・・・・・

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ヨハネ5:41-47「神からの栄誉」(まなか師)

・・・・・・学生時代に、KGKのキャンプの準備をしたことがありました。当時の私はいま以上にもっと未熟で、若さゆえの極端なところもありました。キャンプの最終日に、準備委員を労うサプライズが用意されていて、キャンプ参加者みんなからの寄せ書きをプレゼントしてもらい、「ありがとう」とたくさん声をかけてもらいました。実はそのときの私は「人からの称賛は受けない!」と固く決意していまして、本当は「ありがとう」と言われれば内心うれしいし、頑張ってよかったなと思うけれども、決して喜んではいけないと自分に言い聞かせていました・・・・・・

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ヨハネ5:31-40「神による証し」(まなか師)

・・・・・・お医者さんや歯医者さんから、「どうしてもっと早く来なかったんですか」とちょっと叱られてしまう、そんな経験をしたことがある方もいると思います。「こんなにひどくなる前に、どうしてもっと早く来なかったんですか。」すると私たちは、「すみません、ちょっと忙しくて…」とか、「こんなにひどくなっているとは思わなくて…」などと言い訳してみたりするものです。イエス様も同じ気持ちなのだと思います。「どうしてわたしのもとに来ようとしないのか。こんなに疲れているのに、こんなに傷だらけになっているのに、罪の病がこんなに進んでしまっているのに、どうして自分のいのちだけで生きていこうとするのか。どうしてもっとわたしを頼らないのか。どうしてもっとわたしに祈らないのか。」・・・・・・

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ヨハネ1:18「そのひとり子」(使徒信条④|宣愛師)

・・・・・・ある人は、「使徒信条はここから、ユダヤ教やイスラム教と袂を分かつことになる」と語りました。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、この天地をお造りになった全能の神を信じている。そういう意味では、同じ神を信じていると言うこともできます。しかし私たちキリスト教徒が、使徒信条の第一部から第二部に進んで、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白する瞬間、ユダヤ教徒やイスラム教徒とは違う仕方で、神を信じるということになる・・・・・・

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ヨハネ5:19-30「死からいのちに」(まなか師)

・・・・・・以前、ある方と話していたとき、冗談半分だと思いますが、こんなことを言われました。「いのちのある教会なら通い続けてみたいけど、いのちのない教会はちょっとなあ」。……教会とは、建物のことではなく、私たち一人ひとりのことですから、「いのちのある教会」があるとすれば、「いのちのあるクリスチャン」がいるということになるのでしょうか。「いのちのあるクリスチャン」とはどんな人でしょうか。元気があって、健康で、楽しそうに生きている人が、「いのちのある人」なのでしょうか・・・・・・

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ヨハネ5:1-18「安息日に働く主」(まなか師)

・・・・・・彼は間違った方法で癒やされようとしていました。イエス様は「池の中に入れてほしいか」と尋ねたのではなく、「良くなりたいか」と問いかけたんです。でも彼は「はい、良くなりたいです」と答える代わりに、「主よ、誰も池の中に入れてくれないんです」とイエス様に訴えた。それはまるで、寂しさをお酒で癒やそうとしている人が、「主よ。誰もお酒をくれないんです」とイエス様に訴えているようなものです・・・・・・

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ヨハネ4:43-54「しるしの信仰、ことばの信仰」(まなか師)

・・・・・・しるしによる信仰、みわざを求める信仰は、順境のときであれば問題ありません。自分は守られていて、自分は祝福されていると感じられる限りは、大丈夫です。……でも逆境のときはどうでしょうか。私たちは、イエス様が現実を奇跡的に変えてくださらないと、イエス様のことが分からなくなってしまうことがないでしょうか。それは結局のところ、イエスのことばを信じる信仰ではなく、イエスのしるしを求める信仰です・・・・・・

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ヨハネ4:39-42「聞いて分かったのです」(まなか師)

・・・・・・先生はこんなこともおっしゃいました。「疑問を持つのは信仰成長のプロセスです。聖書に疑問をぶつければ、答えは必ず返ってきます。そしてその答えに対して、私たちがまた応答するというのが、イエス様と向き合い、イエス様と一緒に生きていく関係です。私たちのほうに応答する気があるなら、イエス様は必ずはっきりと語ってくださいます」。サマリアの人々もそうでした。一人の女性から「来て、見てください」と招かれ、「この方がキリストなのでしょうか」と問われて、実際に確かめてみようとやって来た・・・・・・

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ヨハネ1:12-13「望まれず生まれたとしても」(宣愛師)

・・・・・・自分は邪魔者だったのだろうか。自分は“要らない子”だったのだろうか。もっと別の子が良かったのではないか。自分がもっと親に愛されるような、愛されやすいような子どもだったら良かったのだろうか。子どもの頃に受けた傷が、大人になってもじゅくじゅくと残って、いつも不安を抱えている。親から見捨てられた経験のある子どもたち。「お前を産んだのが人生最大の失敗だった」なんて言われた子どもたち。どうすれば、自分の人生を喜ぶことができるでしょうか。どうすれば、「自分は生まれてきてよかったのだ」と心の底から信じることができるでしょうか・・・・・・

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