ヨハネの福音書
ヨハネ13:36-38「しかし後には」(まなか師)
・・・・・・ある時点では、私たちには分からないこと、できないことがあります。でも、それでいいのです。「しかし後には」という約束が与えられています。イエス様がどんなお方か、私のために何をしてくださったのか、どんなふうに私を愛してくださったのか、分かるときが来ます……私たちは、イエス様が私たちを変えてくださるという、確かな約束の中を生きているのです。だから、今はついて行けなくても、「しかし後には」という約束に信頼して、少しずつ、イエス様について行く練習をすればよい・・・・・・
ヨハネ13:31-35「互いの間に愛があるなら」(まなか師)
・・・・・・誰かに親切にしてあげたり、誰かを助けてあげたりしても、感謝されなかったり、むしろ迷惑がられたりするかもしれません。思っていたような結果にならなくて、自分が傷つくこともあります。裏切られたと感じることもあると思います。そうすると「裏切られるくらいなら、最初から愛さなければいい」「傷つくくらいなら、最初から近づかなければいい」と思ってしまうかもしれない。でもそんなときは、イエス様の姿を思い出したらいいのです。裏切られて傷つくことがあっても、「私もイエス様と同じ栄光を頂いたのだ」と思っていいのです・・・・・・
ヨハネ13:12-15「互いの足を洗い合う」(まなか師)
・・・・・・人の足を洗うとは、私たちにとって具体的にどういうことでしょうか。賀川豊彦というクリスチャンは、病気で身体中から膿が出ている人がやってきたとき、その膿を自らの口で吸い出して手当てをした、と言い伝えられています。私たちにはそこまでのことをするのは難しいかもしれません。けれども、人の罪を一緒に背負い、きよめていくことは、身近なところからできるはずです。仲違いをしている人たちの間に入り、仲直りができるように尽力する。誰かが失敗してしまったとき、「自業自得だ」と責めるのではなく、自分も一緒に頭を下げる。それがたとえ自分の利益にならないとしても、汚れてしまった誰かの足を洗ってあげるために、自分の歩みを止めて、上着を脱いで、ひざまずくのです・・・・・・
ヨハネ12:20-26「一粒の麦」(まなか師)
・・・・・・ある人はこう言います。「イエス様が30歳で死ぬのは早すぎたんじゃないか。イエス様がもっと長生きをしていれば、もっとたくさんの人に福音が伝わったんじゃないか。」しかし、そうではないのだと思います。イエス様がそのいのちを文字通りささげてくださったからこそ、全世界に福音が広がったのです。イエス様は「一粒の麦が、地に落ちて死ぬ」というその「時」を見逃しませんでした・・・・・・
ヨハネ21:15-17「人の弱さを愛の強さに」(「弱さ」シリーズ④|宣愛師)
・・・・・・新しいクラス、新しい職場、新しい環境の中で、「うまくやっていけそうだ」と楽観的な私たちかもしれません。もしくは、「うまく馴染めなかったらどうしよう」「何か失敗をやらかしてしまったらどうしよう」と悲観的になっている私たちかもしれません。ある有名な神学者が、インタビューの中でこんな質問をされたそうです。「キリスト教の将来について、あなたは楽観的ですか、それとも悲観的ですか。」すると、その神学者は次のように答えました。「私は楽観的でも悲観的でもありません。イエス・キリストはよみがえられました!」・・・・・
ヨハネ12:12-19「ろばの子に乗って」(まなか師)
・・・・・・今日、この場所には、朝早くから家族のために食事を整えた方がおられます。あるいは、明日からの仕事場で、誰に評価されるわけでもないけれど、黙々と責任を果たそうとしている方がおられます。時に私たちは「自分の人生、こんなことの繰り返しでいいのだろうか。もっと自分を高く評価してくれる場所があるのではないか」と焦りを感じることがあります。けれども、イエス様がろばに乗って私たちのところに来られたのは、そのような「目立たないけれども人に仕える歩み」の中にこそ、本当に価値ある生き方があることを示すためでした・・・・・・
ヨハネ12:1-8「ユダの正論とマリアの愛」(まなか師)
・・・・・・今日の聖書箇所に記されたマリアの行いは、惜しみない愛、理屈を超えた献身として私たちの心を打ちます。しかし一方で、ユダが投げかけた「この香油を売って、貧しい人々に施すべきだ」という言葉も、聖書の正義に照らせば正しい考えです。実際に私たちも「そんなことにお金を使うなら、もっと困っている人のために使うべきではないか」という問いにぶつかることがあるでしょう。「礼拝をするための時間やお金があるなら、外に出ていって困っている人たちを一人でも多く助けたほうがいいんじゃないですか?」と尋ねられたら、皆さんは何とお答えになるでしょうか・・・・・・
ヨハネ11:38-40「信じるなら神の栄光を見る」(まなか師)
・・・・・・長年修復しようと努力してもうまくいかない家族関係。何度挑戦しても跳ね返される仕事や経済的な壁。あるいは、誰にも言えずに抱え続けてきた過去の傷や、こんな自分は変われないという無力感。私たちはそういった問題の前で立ち尽くし、「もうこれが自分の運命なのだ」とあきらめてしまうことがあります。……しかし、イエス様はこれから起こる「いのち」のわざを見ておられました。私たちが「もう手遅れだ」と思うその場所こそが、神様が働かれる舞台なのです・・・・・・
ヨハネ11:1-6「あなたが愛しておられる者が」(まなか師)
・・・・・・「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」不思議なことに「ラザロが病気です」とか「弟が病気です」とは言いませんでした。「あなたが愛しておられる者が病気です」と言ったのです。……私たちも、自分や家族が苦しい状況に置かれたとき、ひどく弱っているとき、「神様が愛してくださっているはずなのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか」と思うことがあります。神様が私を愛してくださっているなら、どうしてこんなことが起こるのか。なぜ神様はこんな苦しみをお許しになるのか・・・・・・
ヨハネ9:1-7「神のわざが現れるため」(まなか師)
・・・・・・この盲人は、泥を目に塗られた不格好な状態で、池に向かっていく。途中で、周りの人たちから注目され、ひそひそと後ろ指をさされたかもしれない。恥ずかしくて不甲斐ない思いをしたかもしれない……私たちは普通、「顔に泥を塗られる」ようなことが起こると、恥ずかしさのあまり、自分の失敗を責めたり、他人の罪を責めたくなってしまいます。しかし、「実はこの泥は、私のためにイエス様が塗ってくださった泥なのかもしれない」「私を造り変えるための泥なのかもしれない」と気づくとき、私たちの「盲目」は癒やされていくのです・・・・・・










