ヨハネの福音書
ヨハネ4:39-42「聞いて分かったのです」(まなか師)
・・・・・・先生はこんなこともおっしゃいました。「疑問を持つのは信仰成長のプロセスです。聖書に疑問をぶつければ、答えは必ず返ってきます。そしてその答えに対して、私たちがまた応答するというのが、イエス様と向き合い、イエス様と一緒に生きていく関係です。私たちのほうに応答する気があるなら、イエス様は必ずはっきりと語ってくださいます」。サマリアの人々もそうでした。一人の女性から「来て、見てください」と招かれ、「この方がキリストなのでしょうか」と問われて、実際に確かめてみようとやって来た・・・・・・
ヨハネ1:12-13「望まれず生まれたとしても」(宣愛師)
・・・・・・自分は邪魔者だったのだろうか。自分は“要らない子”だったのだろうか。もっと別の子が良かったのではないか。自分がもっと親に愛されるような、愛されやすいような子どもだったら良かったのだろうか。子どもの頃に受けた傷が、大人になってもじゅくじゅくと残って、いつも不安を抱えている。親から見捨てられた経験のある子どもたち。「お前を産んだのが人生最大の失敗だった」なんて言われた子どもたち。どうすれば、自分の人生を喜ぶことができるでしょうか。どうすれば、「自分は生まれてきてよかったのだ」と心の底から信じることができるでしょうか・・・・・・
ヨハネ4:31-38「目を上げて畑を見なさい」(まなか師)
・・・・・・たしかに、実りを見ることなく、種を蒔くことに徹する者もいます。旧約の預言者たちもそうでした。バプテスマのヨハネもそうでした。彼らが労苦した実りは、ほかの人たちが刈り入れました。私たちの労苦は、10年後、20年後、いや何百年も後の人たちが、刈り入れをすることもある。しかしそのとき、蒔く者は、「私が蒔いたものなのに、あの人に横取りされた」と文句を言うのではなく、刈る者とともに喜ぶというのです・・・・・・
ヨハネ4:27-30「来て、見てください」(まなか師)
・・・・・・教会で伝道師として働いていると、様々な方の悩みをお聞きする機会があります。皆さんも、牧師や伝道師でなくても、お友だちやお知り合いの悩みを聞くことがあると思います。「こんな大変なことがあったんです」「こんなひどい人がいたんです」というお話を聞いたりもします。そんなことがあったんですね、本当にお辛かったですね、と心から思います。できる限り、その方の思いに寄り添いたいと思わされます。ただ、多くの人は、「あの人が私にしたこと」「あの人のせいで私の人生に起こったこと」については話しても、「私がしたこと」についてはあまり話しません・・・・・・
ヨハネ20:19「フラットランドを超えて」(宣愛師)
・・・・・・突然現れたかと思えば、突然見えなくなる。「いつもあなたがたとともにいます」と言ってくださったかと思えば、天に昇って行ってしまう。……復活したイエス様はなぜ、こんなにもやりたい放題で、自由奔放なのでしょうか。そしてなぜ、イエス様のやりたい放題が、私たちには全く理解できないのでしょうか。このことを理解するためには、私たちが生きている次元と、復活したイエス様が生きておられる次元の違いについて、考えてみる必要があります・・・・・・
ヨハネ4:7-26「まことの礼拝」(まなか師)
・・・・・・「水」について話していたはずなのに、どうして急に夫が出てくるのか。どうして急に話題を変えたのか。一体なんなの? 彼女も面食らったでしょう。……しかし、実は話題が変わったわけではありませんでした。イエス様は彼女に、問いたかったんです。「あなたはこれまで、何によって自分の渇きを満たそうとしてきたのか?」・・・・・・
ヨハネ4:1-15「渇くことのない水」(まなか師)
・・・・・・私はカルピスがまあまあ好きで、ファミレスのドリンクバーなんかでは時々飲むんですけれども、あの飲み物は不思議ですね。味は美味しいんですが、飲めば飲むほど喉が渇くんです。一口飲むと、喉が潤された気になるものの、すぐにまた喉が渇いて、次の一口を飲みたくなります。……私たちの霊的な状態、心の状態はどうでしょうか。私たちの心は潤っているでしょうか。それとも、「渇き」を覚えているでしょうか。私たちの心の「渇き」とは何でしょうか。そして、どうすれば「渇き」は満たされるのでしょうか・・・・・・
ヨハネ3:31-36「天から来られる方」(まなか師)
・・・・・・初めて福音を聞く人にとって、福音の言葉がまるで外国語のように聞こえる、ということもあります。皆さんにも経験があるかもしれません。「神は罪人を愛しています」と言われても、最初はそれがどういうことか分からなかった。何のことだか理解できなかった。もし、「神は正しい人を愛しています」という「地のことば」であれば、理解しやすかったかもしれません。でも聖書は「神は罪人を愛しています」と語る・・・・・・
ヨハネ3:22-30「私は衰えなければ」(まなか師)
・・・・・・「衰え」は、どちらかと言うと、私たちにとってネガティブなものです。できれば衰えたくないと願います。「衰え」ないために、日常的に運動をしよう、頭のトレーニングをしよう、身体によいものを食べよう。世の中にはそういう言葉があふれています。そうやって、私たちは「衰え」に逆らおうとします。でも、聖書がここで語っている「衰え」とは、私たちが逆らうべきものなのか。逆らうべきでないとしても、仕方なく受け入れるしかないものなのか。「衰え」ることを甘んじて受け入れなさい、と聖書は言っているのだろうか・・・・・・
ヨハネ3:16-21「ひとり子をお与えになったほどに」(まなか師)
・・・・・・「人が足りません。もっと兵士を送るよう、各国に働きかけてください」。けれどもアメリカはこう答えたそうです。「ルワンダに軍隊を送ってもアメリカの利益にはならない。アメリカの国民に対して、国益とは程遠いルワンダのために、『あなたたちの息子の命を差し出してください』とはとても言えない。」……愛する息子を、「世」に送る。それは父なる神様にとって苦渋の決断でした・・・・・・