マルコ3:13-19「彼らをご自分のそばに」
2022年9月25日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』3章13-19節
13 さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。
14 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、
15 彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
16 こうしてイエスは十二人を任命された。シモンにはペテロという名をつけ、
17 ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
18 さらに、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
19 イスカリオテのユダを任命された。このユダがイエスを裏切ったのである。
「ご自分のそばに置くために」
もう3週間前になりますが、9月の最初の週に、「補教師研修会」という研修会に参加しました。何人かの先輩牧師たちが講師になってくださって、色々なテーマについて研修を受けたんですが、その研修の中で、ある先生が引用していた御言葉が、ちょうど今日の箇所の13節と14節でした。改めてお読みします。
13 さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。
14 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、
15 彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
この箇所を読んだ後で、その先輩牧師はこんな質問をしました。「イエス様が十二人の弟子たちを選んだのは、何のためだったと書いてありますか?」そこで私は、「宣教をさせることと、悪霊を追い出させることです」と答えようとしたんですが、私よりも先に別の人が、「ご自分のそばに置くためです」と答えまして、「あっ」と思いました。もちろん、「宣教をさせることと、悪霊を追い出させることです」という私の答えも間違ってはいないわけですが、なぜか私は、「ご自分のそばに置くため」という部分を見落としていたんです。
どうして私は、「宣教をさせる」とか、「悪霊を追い出させる」という言葉は目に留まったのに、「ご自分のそばに置くため」という言葉を見落としてしまったのか。「長時間の研修で疲れていたからだろう」とも思ったんですが、もっと根本的な問題があるようにも思いました。もしかすると私は、「イエス様の弟子になるということは、何をするよりもまず、イエス様のそばにいることなんだ」という基本的なことを、そもそも忘れてしまっていたのかもしれない、と思ったんです。私たちがイエス様の弟子であるということ、つまり、クリスチャンであるということは、宣教をするとか、伝道をするとか、悪霊を追い出すとか、そういうことよりもまず先に、イエス様のそばにいることなんだ、ということを忘れてしまっていたのかもしれないな、と思ったんです。
もちろん、「宣教をする」とか、「悪霊を追い出す」ということも大切です。この二つの働きは、イエス様ご自身の働きの中心でした。ですから、それを弟子たちにもさせるということは、イエス様ご自身の働きを弟子たちに引き継がせる、ということです。私たちクリスチャンは、イエス様のように宣教をし、イエス様のように悪霊を追い出すために、クリスチャンになったわけです。
「宣教をする」ということなら分かりやすいかもしれませんが、「悪霊を追い出す」と聞くと、「そんなことできないよ」とか、「悪霊なんてそもそも見たことないよ」と思うかもしれません。しかし、悪霊というのは目に見えないだけで、今の時代にも様々な形で働いています。たとえば、誰かに対する怒りで頭も心もいっぱいになっている人は、怒りをもたらす悪霊に支配されてしまっていると考えられますし、恐怖とか嫉妬とか、そういう負の感情に支配されてしまっている人も、悪霊の思い通りにされていると考えられます。逆に言えば、「クリスチャンになったら、あんまり怒らなくなった、イライラしなくなった」という人がときどきいますが、それは、その人に対する悪霊の支配が、少しずつ消え去っているということでもあるわけです。その人に取り憑いていた悪霊が追い出されて、イエス様の聖なる霊、聖霊様がその人に入ってくださっているわけです。
そうやって誰かの人格が変わっていく様子を、「たまたま気分が良くなっただけでしょ」とか、「宗教のおかげで明るい性格になっただけでしょ」と切り捨てることもできますけれど、私たちはそれを、“悪霊に対するイエス様の権威”として受け止めているわけです。そういう意味で、私たちクリスチャンは、「悪霊を追い出す権威」をイエス様からいただいて、自分自身やほかの人々を、悪霊たちの支配から解放していく、自由にしていく、そういう使命が与えられているわけです。
しかし、“宣教をすること”とか、“悪霊を追い出すこと”よりも、まずイエス様が大切にされたこと。それが、「彼らをご自分のそばに置く」ということでした。なぜイエス様は、「彼らをご自分のそばに」呼び寄せたのか。それは、イエス様ご自身の生活をすぐ近くで見せるためでした。イエス様はどのように宣教をするのか。イエス様はどのように悪霊を追い出すのか。イエス様はどのように罪人たちと関わり、権力者たちと関わるのか。イエス様はどのように祈り、礼拝し、父なる神様と交わりを持つのか。イエス様の言葉遣い、息遣い、立ち振舞い、眼差し。その全てを近くで見て、目に焼き付ける。そうする中で、イエス様の“権威”が、弟子たちに受け継がれていく。
私たちは、当時の弟子たちとは違って、自分の目でイエス様の姿を見ることはできません。しかし、私たちには“福音書”が与えられています。しかも、感謝なことに、四つも与えられています。「四つも要らないよねえ」と思う人もいるかもしれませんが、私は、四つでも足りないくらいだと思っています。もしも、「聖書の中でいちばん大切な書物はどれですか?」と尋ねられたら、私は「福音書です」と答えます。もちろん、聖書は全て“神のことば”ですから、どの書物も大切ですが、福音書はやっぱり特別です。なぜなら、福音書に書かれているのは、単なる“神のことば”ではなく、“人となった神のことば”だからです。福音書を読むことは、イエス様の弟子であるクリスチャンの基本です。福音書を学ぶということは、イエス様の「そばに」いるということです。
取税人も、熱心党員も
ただ、「彼らをご自分のそばに置く」ということは、“イエス様の生き様をすぐ近くで見て学ぶ”ということだけではないと思います。もし、“イエス様のそばにいる”ということが、“イエス様の生き方から学ぶ”ということだけだったら、教会は要らなくなってしまうでしょう。それぞれが自分の家で福音書を読んでイエス様の姿を学べばそれだけでいい、ということになります。しかし、イエス様が「彼らをご自分のそばに置く」ということは、“個人レッスン”ではありませんでした。“イエス様のそばにいる”ということは、“他の弟子たちとも一緒に生活する”ということなんです。16節から19節をお読みします。
16 こうしてイエスは十二人を任命された。シモンにはペテロという名をつけ、
17 ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
18 さらに、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
19 イスカリオテのユダを任命された。このユダがイエスを裏切ったのである。
ここに出て来る「十二人」は、はっきり言って、“雑多な人たち”でした。一応全員がユダヤ人でしたが、普通なら一緒にいることなんて無いはずの人たちでした。たとえば、最初に出てくる四人、ペテロとヤコブとヨハネとアンデレは、もともとは舟で魚を獲る“漁師”でしたが、それに対して、「マタイ」という人は元々“取税人”でした。マルコの2章に取税人の「レビ」という人が出てきましたが、おそらく「マタイ」と同一人物です。“取税人”が集めていた税金、関税の中には、当然“魚”という商品も含まれていましたから、ペテロやヤコブのような漁師たちが、ガリラヤ湖で獲った魚を他の町に売りに行くときには、取税人たちに必ず呼び止められて、「何割分の魚は置いていけ」だの、「何パーセント分の税金を払え」だの、ムカつくことを言われていたわけです。つまり、“漁師”のような商売人たちにとって、“取税人”というのは、“嫌なやつ”でした。友達になんてなりたくない部類の人々だったわけです。もしかすればペテロたちは、マタイ本人から税金を取られたことさえあったかもしれません。
さらに、11番目には「熱心党のシモン」という人が出てきますが、この「熱心党」というのは、ユダヤ民族を支配するローマ帝国を心の底から嫌っていて、チャンスがあれば暗殺だってするし、反乱戦争だってやってやる、そういう過激なグループでした。過激な“民族主義者”でした。それに対して、先ほどもお話しした“取税人のマタイ”というのは、ローマ帝国の“手先”のような存在で、ローマ帝国のために税金を集めていました から、「熱心党のシモン」からすれば憎い相手でした。つまり、取税人のマタイと、熱心党のシモンというのは、本当なら一緒にいるはずのない二人だったんです。しかし、彼らは今、一緒にいる。生活を共にしている。なぜでしょうか? 答えは簡単です。イエス様が「彼らをご自分のそばに」呼び寄せたからです。彼らはお互いのことが好きで一緒に生活していたわけじゃない。本当なら顔だって見たくない。でも、イエス様に呼ばれて、イエス様の近くに行ってみたら、「嘘だろ?あいつもいるのかよ」と驚くわけです。
みなさんは、カール・バルトという神学者をご存知でしょうか。「20世紀最大の神学者」とも言われる神学者ですが、彼についてこんな面白いエピソードが残っています。
宮田光雄『キリスト教と笑い』岩波書店、1992年、174頁。
カール・バルトは少ししつこい婦人から、永遠の生命について尋ねられた。「先生、教えて下さい。私たちが天国で私たちの愛する人々にみな再会するというのは、本当に確かなのでしょうか」。バルトは、その婦人を鋭く見すえながら、おもむろに、しかし力をこめて言った。「確かです。――だが、他の人びととも再会します」。
私たちはついつい、天国には、「私たちの愛する人々」しかいないと思ってしまいます。「私が大好きなあの人」「私と気の合うあの人」そういう人たちばかりが、神の国には集まっているのだ、と思い込んでしまいます。しかし、神の国には、“取税人”もいるんです。“熱心党員”もいるんです。私たちが嫌いなあの人だって、苦手なあの人だって、神様は愛しておられるからです。
先々週の礼拝で、秋山先生が聖餐式の意義について語ってくださいました。教会の全ての交わりの基本は、聖餐によるイエス様との交わり。イエス様との交わりがなければ、教会というのは、単なる仲良しサークルになってしまう。横の交わりの前にまず、イエス様との縦の交わりがあり、それによって初めて、教会という横の交わりが生まれてくる。イエス様がくださる聖餐のパンを、取税人のマタイが取って食べるとき、その隣で、熱心党のシモンも同じパンを食べるわけです。同じ杯を飲んだわけです。「あいつと同じパンなんて食べたくない。あいつと同じ杯なんて飲みたくない」とは言えないんです。それが、イエス様のそばに置かれる、ということだからです。
9月の月間聖句、今月のみことばは、ヨハネ13章35節でした。
13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
どうして、「互いの間に愛がある」だけで、イエス様の弟子であると認められるんでしょうか? 「互いの間に愛がある」人たちなんて、別にクリスチャンじゃなくても、教会じゃなくても、どこにでもいるじゃないですか。仲良しのグループなんてそこら中にあるわけですし、愛し合っている家族や夫婦がいるからと言って、それだけで、「ああ、あの人たちはクリスチャンなんだな」とか、「ああ、あの人たちはイエス・キリストの弟子なんだな」とはならないでしょう。
しかし、取税人と熱心党員が愛し合っていたなら。少なくとも、当時のユダヤ人たちがそんな光景を見たなら、「なんてことだ、あり得ない。どうしてあいつらが一緒にいるんだ?」と不思議に思うわけです。そして、「そうか、あいつらは、イエスと一緒にいるのか」と納得する。決して一緒にいるはずがない人々が、一つのパンを分け合っている。一つの杯を分け合っている。このことは、少なくとも当時の世界では、彼らがイエス様の弟子であることの証拠だったわけです。
「ご自分が望む者たち」
マルコ3章に戻って、13節をご覧ください。イエス様が呼び寄せた「十二人」というのは、イエス様が「望む者たち」でした。イエス様が「望む者たち」とはどういうことでしょうか? 他の弟子たちに比べて優秀だったとか、聖書に詳しかったとか、信仰が強かったとか、そういうことでしょうか? いや、彼らはどちらかと言えば、普通の人々でした。律法学者でもなければ、預言者でもない。普通の漁師とか、普通の取税人とか、そういうぱっとしない人々でした。
しかも、イエス様が「望む者たち」の中には、あの裏切り者のユダもいたんですね。私たちは、「イエス様はどうしてユダを選んだんだろう?」と不思議に思います。十字架で殺されるために、ユダに裏切ってもらおう、ということでしょうか? いや、別にユダがいなかったとしても、ユダが裏切らなかったとしても、イエス様が十字架にかかることはできたはずです。それではなぜ?
正直言って、私たちには分かりません。どうしてイエス様がユダを選ばれたのかは、聖書には書かれていません。もしかするとユダにも、イエス様を裏切らないという可能性があったのかもしれません。たとえばルカの福音書22章3節を見てみると、サタンがユダの中に入って、ユダを支配するようになったのは、イエス様が十字架にかかる直前のことでした。ということは、この時はまだ、ユダの中にサタンは入っていなかった。しかし、おそらくユダは最初から、イエス様を裏切って権力者に引き渡してしまうような、そんな危うい信仰を持っていたのでしょう。だからイエス様は、誰よりも弱くて、脆くて、危険なユダの信仰を守り育むために、彼の信仰が壊れてしまわないように、ユダを十二人に選んで、ご自身のそばで育てようとされたのかもしれません。
もちろん、イエス様はユダが裏切ることを最初から知っていて、それでもあえてユダを選んだ、という可能性もあります。私たちには分かりません。でも、一つだけ確かなことは、イエス様はユダを愛していた、ということです。イエス様はユダを心から愛していた。そして、イエス様は、イエス様を中心とする愛の交わりの中に、ユダにも入ってほしいと望まれた、ということです。
このようなイエス様の愛を思う時、私たちは、「ああいう人はうちの教会に来てほしくないな」と思ってしまうような、そんな自分勝手な心を正されます。「あんな人はイエス様にはふさわしくない」と勝手に決めつけてしまう自分の傲慢さを反省させられます。私たちが望むかどうかは、大切ではありません。教会に集まって来るのは、私たちが「望む者たち」ではなく、イエス様が「望む者たち」です。もちろん、ユダがイエス様を裏切った時には、私たちはユダを厳しく戒め、場合によっては教会から追い出さなければならないでしょう。しかし、イエス様がユダを望まれたのなら、ユダを交わりに加えることを望まれたのなら、たとえどれだけユダを憎んでいたとしても、私たちはユダとともに生きるのです。ユダがイエス様のそばにいる限り、ユダとさえともに生きるんです。イエス様のそばにいるとは、そういうことだからです。お祈りをしましょう。
祈り
私たちの父なる神様。私たちがイエス様のそばで、イエス様と共に歩ませていただけるのは、イエス様に呼び寄せていただいたからです。「望む者」として招いていただいたからです。イエス様のそばには、マタイがいました。シモンがいました。あのユダでさえいました。彼らもまた、「望む者」として招かれていました。どうか神様、この盛岡みなみ教会が、私たちが望む者たちの集まりとか、私たちが気に入った人たちの集まりではなく、イエス様がお望みになった者たちの集まりでありますように。そして、そのような交わりの中で、“神の国”とはどのようなものなのか、私たちがしっかりと学ぶことができますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。