マルコ3:31-35「イエスは家に帰らない」

2022年10月16日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』3章31-35節


31 さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。

32 大勢の人がイエスを囲んで座っていた。彼らは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます」と言った。
33 すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。
34 そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。
35 だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」


「宗教は家族を壊す」 ?

 先日、ある大学生の女の子の話を聞きました。その女の子は、3ヶ月くらい前から教会で聖書の学びをするようになって、最近ついにイエス様を信じる決心をしたんですが、洗礼を受けるかどうかは迷っている、と言うんですね。というのは、彼女のご家族はクリスチャンではなくて、しかも彼女のご両親、特にお父さんは、「何をするにも家族は一緒」ということを大切にしているので、そんなお父さんに対して、「洗礼を受けたい」とはなかなか言い出せない、というわけです。

 統一教会のことが話題になってから、「宗教は家族を壊す」というイメージが広がっています。「宗教は大切な家族を壊す」とか、「宗教は大切な家族を奪う」というイメージが広がってしまっています。たしかに、統一教会はそういう問題を数多く起こしてきた宗教ですし、統一教会以外にも、家族を壊してバラバラにしてしまうような宗教は少なくありません。

 それでは、私たちが信じているキリスト教はどうでしょうか? もちろん、私たちの教会では、家族を大切にすることを教えているはずですし、聖書もそのように教えているはずです。しかし、少なくとも今日の聖書箇所を読むと、「キリスト教は家族を壊す」と言われても仕方がないような気がしてしまいます。31節から33節をお読みします。


31 さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。
32 大勢の人がイエスを囲んで座っていた。彼らは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます」と言った。
33 すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。

 「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか。」このイエス様の言葉は、あまりに冷たく聞こえます。「どうしてイエス様は、自分の家族にこんなに冷たいのか?」と思ってしまいます。「イエス様は家族を愛していないのか?」「家族を蔑ろにしているのか?」と思ってしまいます。

 なぜイエス様は、ご自分の家族に対してこんなに冷たい態度を取ったのでしょうか? それは、イエス様には“使命”があったからです。どうしても成し遂げなければならない“使命”があったからです。その“使命”とは、教会という、新しい“家族”を作ることでした。34節と35節。


34 そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。
35 だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

 イエス様の「周りに座って」いたのは、どんな人々だったでしょうか? イエス様の近くには、いろんな人が集まっていましたけれど、中でも特に多かったのは、“罪人”と呼ばれる人々でした。“取税人”のような人々や、“売春婦”のような女性たちが、イエス様の周りにいた。彼ら彼女らは、普通なら社会から仲間外れにされていたような人々でした。もしかすれば、家族や親戚からも嫌われて家を追い出されてしまったり、身売りされてしまったような人々もいたかもしれません。そんな“罪人”と呼ばれる人たちが、イエス様の「周りに座って」いたわけです。

 31節を見てみると、イエス様のお母さんや兄弟姉妹は、自分たちで直接イエス様を呼びに行くのではなく、「人を送ってイエスを呼んだ」と書いてあります。どうして彼らは、自分たちで直接イエス様を呼びに行かないのでしょうか? 可能性は色々と考えられますが、おそらく最も可能性が高いのは、イエス様の近くに“罪人たち”がいたからだと思われます。当時の普通のユダヤ人たちは、取税人や売春婦のような“罪人たち”と一緒にいたら、自分たちまで“罪人”になってしまう、自分たちまで“汚れて”しまうと信じていました。ですから、もしかするとイエス様の家族は、“罪人たち”に近づきたくないという理由で、代わりに「人を送ってイエスを呼んだ」のかもしれない。

 イエス様の家族、つまり血のつながった“肉親の家族”は、“神の家族”を理解できませんでした。イエス様が作り出した“神の家族”を受け入れられませんでした。彼らにとって、“神の家族”はあまりにも汚かったからです。“罪人”が多すぎたからです。しかしイエス様は、そういう家族を作りたかった。作らなければならなかった。それがイエス様の“使命”だったからです。


イエスは家に帰らない

 “罪人たち”はイエス様の近くにいられて幸せだったんだと思います。“罪人”と呼ばれ、人々からバカにされ、仲間外れにされていた自分を、イエス様だけは受け入れてくださった。「こっちに来るな罪人」とか、「お前みたいな罪人は地獄行きだ」と言われ続けて、自分みたいな汚い人間は誰にも愛されないと思っていたけど、イエス様だけは優しく声を掛けてくれた。愛を教えてくれた。

 そんなとき、イエス様の家族がイエス様を捜しに来たんです。イエス様を連れ戻すためにやって来たんです。“罪人たち”は不安になったかもしれません。「ああ、そうだよな。イエス様には家族がいる。帰るべき家がある。本当はイエス様は、おれたちみたいな奴らじゃなくて、家族と一緒にいるべきなんだよな。ああ、イエス様と一緒にいられるのも、今日で終わりかあ。イエス様の近くにいられた楽しい毎日も、今日でもう終わりかあ」と、諦めてしまったかもしれません。

 しかし、その時イエス様は何と言ったか。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言ったんです。そして、周りにいる人々を見回して、“罪人たち”のことを見回して、「ご覧なさい、わたしの母、わたしの兄弟です」と言ったんです。「わたしの帰るべき家はここにある」と言ったです。この言葉を聞いて、“罪人たち”はどれほど驚き、またどれほど安心したでしょうか。「ああ、イエス様は、これからもおれたちと一緒にいてくださる。イエス様は家に帰らない。家族のもとに帰らない。ここが家だと言ってくださる。イエス様はおれたちを家族だと言ってくださる…。」

 私たちだって、社会や家族から追い出されたりしたわけじゃないかもしれませんけれど、この“罪人たち”のように、イエス様を頼って、イエス様のところに集まって来たわけですよね。もしもイエス様がいなかったら、ほかに行くあてなんて無かった私たちかもしれません。もしもイエス様があの日、ご自分の故郷に帰ってしまっていたら、もしもイエス様があの日、「じゃあ、わたしは家族のところに帰るから、今日でこの集まりは解散!みんなそれぞれがんばって」なんて言って、私たちを見捨ててしまっていたら、今ごろ私たちは何のために生きていたでしょうか。何を人生の指針として生きていたでしょうか。そういう意味では、私たちもやっぱり、あの日イエス様の周りに座っていた“罪人たち”の一人なんだと思うんです。もうイエス様の隣にしか居場所はない。もしイエス様が、私たちを見捨ててどこかに行ってしまったら、もう何を信じて生きていいのか分からない。でも、イエス様は私たちを選んでくださったんです。肉親の家族を捨てて、私たちを選んでくださった。罪の中で死んでいくしかなかった私たちを、家族として受け入れるために。


主イエスの肉親――マリア、ヤコブ、ユダ

 イエス様の“肉親の家族”は、イエス様の“使命”を理解できませんでした。ですから彼らは、3章21節に書かれているように、「イエスはおかしくなった」と思い、イエス様を連れ戻しに来たわけです。もしかすると私たちは、「えっ、イエス様の母ってことは、マリア様のこと? マリア様でもイエス様のことを理解しなかったの?」と驚くかもしれません。たしかにマリアは、クリスマスの物語に書かれているように、イエス様がただの人間ではないということ、イエス様が神の子だということを知っていたはずでした。でも、イエス様は只者ではないと知っていたマリアでさえ、“罪人と一緒に生きる”というイエス様の使命を理解することはできなかったんです。

 ただし、この時はイエス様のことを理解できなかったマリアも、やがてはイエス様を理解し、イエス様を信じ、イエス様の弟子の一人となりました。マリアだけじゃありません。イエス様の弟のヤコブも、最初はイエス様の“使命”を理解できませんでしたが、やがてはイエス様の弟子になり、エルサレム教会のリーダーになりました。新約聖書の中に『ヤコブの手紙』という手紙がありますが、この手紙を書いたのは、イエス様の弟のヤコブだ、と考えられています。その手紙の冒頭で、ヤコブは次のように語っています。ヤコブの手紙、1章1節と2節(新約458頁)。


1:1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります。
2 私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。

 「離散している十二部族」というのは、イエス様を信じる教会のことです。ヤコブは教会の仲間たちに向かって、「キリストの弟ヤコブ」とは言わず、「しもべヤコブ」と書きました。普通の宗教であれば、“教祖の弟だ”ということは非常に重要で、信者たちの尊敬を集められたりするものです。しかしヤコブは、自分がイエス様の弟であることを自慢したりはせず、むしろほかのクリスチャンたちに向かって、「兄弟たち」と呼びかけるんです。最初はイエス様を理解しなかったヤコブも、最後には、“肉親の家族”としてではなく、“神の家族”として、イエス様に従うようになったんです。

 同じように、新約聖書には『ユダの手紙』という手紙もありますが、この「ユダ」というのも、おそらくイエス様の弟の「ユダ」だと考えられています。そしてそのユダも、「おれはキリストの弟だぞ」なんて自慢したりはしませんでした。ユダの手紙、1章1節(新約489頁)。


1:1 イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。

 イエス様はたしかに、一度は“肉親の家族”を捨てました。しかし、最後にはイエス様は、“肉親の家族”との関係を取り戻しました。イエス様は、“神の家族”を作るという使命のために、一度は“肉親の家族”を捨てなければなりませんでした。しかし、最後にはついに、マリアも、ヤコブも、ユダも、イエス様を理解したんです。彼らは、“肉親の家族”としてではなく、“神の家族”として、以前よりもますます、イエス様を愛するようになったんです。


イエス様が作る大きな家族

 先々週の私の説教でも、先週のマーク先生の説教でも、“教会と家族の関係”ということについて語られました。私たちの家族は、教会のことをあまりよく思っていないかもしれないし、私たちも、キリスト教や教会の話を、家族や親戚に上手に話すことができない。それどころか、「せっかくの日曜日なのに、家族と過ごさずに教会に行くなんておかしい」とか、「せっかくのお給料を教会に献金しちゃうなんてもったいない」と思われているかもしれない。「教会なんて無くたって別に誰も困らないでしょ? 教会なんて無ければ、家族ともっとゆっくり過ごせるし、お金も十分使えるし、そのほうがいいんじゃないの?」と言われてしまうこともあるかもしれない。

 そんなとき私たちは、別に“反論をする”とか、“喧嘩をする”ということではありませんけれど、優しく丁寧に、こういう風に答えられたらいいなと思うんです。「たしかに、教会のせいで家族を蔑ろにしてしまうときもあるよね。ごめんなさい。もっと家族を大切にできるように頑張るね。でも、それでもやっぱり、教会は必要だと思うんだ。もちろん、それぞれが家族と一緒に過ごすことは大切だけど、でも、事情があって家族と一緒に暮らせない人たちもいれば、誰からも受け入れてもらえず、一人ぼっちになってしまっている人もいる。そんな人たちのために、イエス様が教会を作ってくださったから、イエス様が大きな家族を作ってくださったから、だから私も教会のために働きたいんだ。小さな家族ももちろん大切だけど、教会っていう大きな家族のためにも、私の人生を献げたいんだ」と、丁寧に説明できたらいいなと思うんです。どこまで上手に伝えられるかは分からないけど、少しずつでも理解してもらえるように、説明していきたいと思うんです。

 そしてもちろん、そうやって説明する以上は、実際に私たちの教会が、説明した通りの教会になっていく必要もあります。盛岡みなみ教会がもし、別に教会が無くても幸せに生きていける人たちの集まりとか、もともと幸せな人たちが暇つぶしに集まっているだけの集まりになっているのだとしたら、「それなら別に無くてもいいじゃない」と言われてしまうでしょう。でも、もし盛岡みなみ教会が、“罪人たち”が安心していられるような集まりになるなら、いや、私たち自身がまず、“赦された罪人”として集まることができるなら、教会がそんな特別な“家族”を作り出していくなら、いつか私たちの“肉親の家族”も、教会を大切にする私たちの想いを理解してくれると思うんです。

 今日の午後に“教会ミーティング”が開かれますけれども、このミーティングの目的というのは、「どうすれば私たちにとって居心地の良い教会が作れるか」という内向きのものだけではなくて、「どうすれば周りの人たちにイエス様の福音を伝えられるか」という外向きのものでもあります。たとえば今日のミーティングでは、“小グループ活動”ということについて話し合いますが、これは「教会の中に、少ない人数の小グループを作ったら、私たちがもっと楽しめるかも」ということだけではなくて、「小グループを作ったほうが、大人数のなかに入るのが苦手な人とか、いきなり礼拝に行くのは緊張しちゃうっていう人に、もっと安心してイエス様の話を聞いてもらえるかも」という外向きの目的で話し合っていくわけです。

 また、今回のミーティングでは、“男子トイレの件”という項目もありまして、「なんだこれ?」と思った方もいると思いますが、これは、盛岡みなみ教会には「男子トイレ」と「女子トイレ」はあるけれど、「男女兼用トイレ」というのが一つも無いので、たとえば性同一性障害に悩んでおられる方が教会に来た場合に、安心して使えるトイレが無いということになってしまう。だから「男子トイレ」を「男女兼用トイレ」に変えるのはどうか、ということを話し合うわけです。もちろん、同性愛やLGBTQを聖書的にどう考えるかということについては、クリスチャンによって様々な意見があります。でも、少なくとも教会が最初から「あなたたちの居場所はありません」「あなたたちのためのトイレはありません」みたいな風になってしまっているとしたら、それはイエス様が作った“神の家族”とは程遠い。だから、トイレのこともしっかりと話し合うんです。

 そうやって私たちは、イエス様が二千年前にお作りになった教会を、この盛岡の地にも実現していきたいと思います。家族や親戚からはなかなか理解されないかもしれません。でも、もし私たちが、イエス様がお作りになったような教会を本当に作ることができるなら、きっと私たちの家族も、親戚も、友人も、「教会って素晴らしいんだね。教会って無くてはならないものなんだね」と、理解してくれる日が来ると思うんです。私たちにとってのマリアやヤコブやユダは、その素晴らしさにまだ気づいていないかもしれません。しかし、彼らもいつの日か必ず、イエス様の素晴らしさに気づく日が来るはずです。教会の素晴らしさに気づく日が来るはずです。ですから私たちは、その時が来るまで、忍耐強く、イエス様の道を歩んで行きたいと思います。お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちは、イエス様が作られた教会として歩みたいと願っています。「有っても無くてもだれも困らないでしょ?」と言われてしまうような教会ではなく、この地域に本当に必要な教会として歩みたいと願っています。どうか神様、私たちの“肉親の家族”が、“神の家族”の素晴らしさに気づいてくれるその日まで、イエス様ご自身が私たちを導いてください。今日の午後の教会ミーティングも、これからの盛岡みなみ教会の歩みも、大いに祝福してください。罪深い私たちを“家族”と呼んでくださった、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。