マルコ4:1-20「イエスの"謎"に喰らいつく」
2022年10月23日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』4章1-20節
1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。非常に多くの群衆がみもとに集まったので、イエスは湖で、舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな、湖の近くの陸地にいた。
2 イエスは、多くのことをたとえによって教えられた。その教えの中でこう言われた。
3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4 蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、
6 日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
7 また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。
8 また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」10 さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。
12 それはこうあるからです。
『彼らは、見るには見るが知ることはなく、
聞くには聞くが悟ることはない。
彼らが立ち返って赦されることのないように。』」13 そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。
14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。
16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、
17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、
19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。
20 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」
本当に「神の国」は来るのか?
5月から読み進めてきたマルコの福音書も、先週で3章が終わりました。マルコ福音書は全部で16章まであって、まだ5分の1も終わっていないわけですから、「おいおい、いつまで続くんだよ」と思われる方もいるかもしれません。四つの福音書の中でいちばん短いマルコでさえも、半年間で5分の1しか進まないとなると、私なんかはついつい、「イエス様がダラダラと働いていたから、福音書はこんなに長くなっちゃったんじゃないの? イエス様はもう少しパパっと、スピーディに神の国をもたらしたら良かったんじゃないの?」なんてことを思ったりしないわけでもない。
実は、そんな疑問を持っていたのは、私だけじゃなかったみたいなんです。当時のイエス様の弟子たちも、「イエス様、神の国は一体いつになったら来るのですか? あなたは『神の国が近づいた』と仰るけれど、むしろ、多くの人々はあなたのことを理解しないし、あなたに敵対する人々さえいます。イエス様、本当に神の国は来るのですか? あなたが語っている神の国の福音は、本物なのですか?」と、当時の弟子たちも疑問に思ったみたいなんです。「イエス様、もしも本当にあなたが救い主なら、どうしてこんなにも多くの人々が、あなたのことを理解しないのですか?」
そんな弟子たちの疑問に対して、イエス様がお答えになったのが、この“種蒔きのたとえ”です。1節から9節までをお読みします。
1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。非常に多くの群衆がみもとに集まったので、イエスは湖で、舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな、湖の近くの陸地にいた。
2 イエスは、多くのことをたとえによって教えられた。その教えの中でこう言われた。
3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4 蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、
6 日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
7 また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。
8 また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
先ほどもお話したように、弟子たちが考えていた「神の国」というのは、救い主が突然現れて、悪者たちを一瞬でやっつけて、「神の国到来!どどーん!」みたいな、そういうイメージでした。ところがイエス様は、「神の国というのはね、お前たちが考えているようなものではないんだよ。神の国というのは、みことばを聞いた人々によって広がっていくものなんだよ。理解しない人や敵対する人がいるのは、当然のことなんだよ」と、イエス様はお語りになったんです。
ガリラヤ湖畔の“居残り授業”
残念なことに、弟子たちにはピンと来ませんでした。イエス様が話した「たとえ」の意味が分からなかったんです。弟子たちがイメージしていた「神の国」と、イエス様がお語りになった「神の国」が、あまりにも違っていたからです。しかし、弟子たちはそこで諦めませんでした。弟子たちはイエス様に質問をすることにしたんです。10節から12節までをお読みします。
10 さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。
12 それはこうあるからです。
『彼らは、見るには見るが知ることはなく、
聞くには聞くが悟ることはない。
彼らが立ち返って赦されることのないように。』」
弟子たちは、イエス様に“居残り授業”をお願いしたわけです。ここが弟子たちの偉いところだなあと思います。ほかの多くの人々は、イエス様のたとえ話を聞いた後、「面白い話だったなあ」とか、「よく分からなかったなあ」と言って、家に帰ってしまいました。ガリラヤ湖を離れて、それぞれの家に帰って行ってしまいました。しかし弟子たちは、ガリラヤ湖にとどまって、「イエス様、よく分からなかったので、もう少し詳しく教えてもらえませんか?」と喰らいつくわけです。
12節の言葉は、旧約聖書『イザヤ書』の6章9節10節からの引用ですが、この言葉は一見すると、「人々に理解させないために、わざと分かりにくいたとえを使う」というふうにも読めてしまいます。しかし、イエス様がここで言いたかったのは、「理解させないために、わざと分かりにくいたとえを使う」ということではなくて、むしろ、「たとえを聞いても、よく考えたりせずに、すぐに帰ってしまうような人々は、聞くには聞くが悟ることはない」という意味です。
これが、イエス様の「周りにいた」弟子たちと、すぐに帰ってしまった「外の人たち」の違いでした。「外の人たち」というのは、イエス様の話を聞いても、「勉強になったなあ」とか、「よく分かんなかったなあ」で終わってしまう人たちのことです。しかし、イエス様の弟子というのは、「イエス様のあのみことばは、どういう意味なんだろう?」とか、「イエス様のあの教えを実践するためには、どうしたらいいんだろう?」と考え続けた人たちのことです。
「たとえ」という単語は、ギリシャ語ではたしかに「たとえ」という意味しかないので、日本語の聖書では「たとえ」と訳しています。ただ、イエス様が話していたヘブル語やアラム語では、「たとえ」という言葉には、“謎”とか“なぞなぞ”という意味も含まれているんです。ですから、イエス様の「たとえ話」というのはもちろん、“何かを分かりやすく説明する”という目的もあるんですが、その逆に、“自分で考えなければ分からないように謎掛けをする”という目的もあるんです。“なぞなぞ”のように、自分で考えなければ、何を言っているのかよく分からない、というのが、イエス様の「たとえ」であり“謎”なんです。だから、弟子たちのように喰らいつくことが大切なんです。「どういう意味だろう?」と、問い続けることが大切なんです。
ですから、11節でイエス様が仰った、「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです」ということの意味は、「他の人たちには絶対に分からないように秘密にするけど、あなたたちには特別に神の国の奥義を教えてあげる」という“えこひいき”ではありません。むしろ、ここでイエス様が仰ったのは、「わたしが話す“たとえ”、わたしが話す“謎”を聞いて、何も考えずすぐに帰ってしまうような人々には、『神の国の奥義』は与えられないけれども、あなたたちのように、わたしの教えを聞いた後、聞くだけで終わらずに考え続ける人々には、『神の国の奥義』が与えられるんだよ」という意味です。
勇気を与える“なぞなぞ”
弟子たちはイエス様に喰らいつきました。そこでイエス様は、“種蒔きのたとえ”の意味を説明してくださいました。「やれやれ、こんなに簡単ななぞなぞも分からないのかい」と、出来の悪い弟子たちに対して半分呆れていたかもしれませんが、それでもイエス様は、弟子たちの熱心な想いに応えて、なぞなぞの答えを丁寧に教えてくださったんです。13節から20節までをお読みします。
13 そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。
14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。
16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、
17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、
19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。
20 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」
イエス様を理解しない人々や、イエス様に敵対する人々がたくさん現れるのを見て、弟子たちはつまずきそうになっていました。「本当に神の国は来るんだろうか? イエス様は本当に救い主なんだろうか?」しかしイエス様は、「安心しなさい。わたしは種を蒔いているんだ」とお答えになったんです。「神の国というのは、そんなに急に訪れるものではないんだよ。たしかに多くの人々は、わたしのことばを聞いても、受け入れることができなかったり、長続きしなかったり、実を結ばなかったりするだろう。しかし、わたしのことばを聞いて、何倍もの実を結ぶ人々も、必ずいるんだ。だから安心していなさい。神の国は、今も確かに広がっているんだよ。」
私たち盛岡みなみ教会もこの18年間、神の国の広がりを目指して、宣教活動を続けています。そのような尊い働きの中で、イエス様の福音を受け入れ、イエス様の弟子となった方々もいます。しかし時には、教会に来て聖書の話を聞いても、特に興味を持たない、という方もいます。時には、キリスト教に強い興味を持って教会に来るけれども、家族から反対されたり、周りの人から冷たい視線を向けられたりして、クリスチャンになることを諦めてしまう、という方もいます。
教会でイベントを開いても、友だちを教会に誘っても、イエス様の福音がなかなか伝わっていかない。イエス様の福音は本物であるはずなのに、それが人々になかなか受け入れてもらえない。そのような中で、私たちもやっぱり疲れてしまうというか、自信を失ってしまうということがあると思います。「イエス様が本当に救い主なら、どうしてこんなに多くの人が、キリスト教を拒否するんだろうか。どうしてこんなに多くの人が教会から離れるんだろうか。神の国が一気に現れて、多くの人々が一気にイエス様を信じてもいいんじゃないか」と思うこともあるかもしれません。
そんなとき、私たちはこの“種蒔きのたとえ”を思い出さなければなりません。たしかに多くの人々は、イエス様のみことばを聞いても、イエス様を信じないままで離れていく。でも、たしかに実を結ぶ人々もいるんだ。「道端に蒔かれたもの」とか、「岩地に蒔かれたもの」とか、「茨の中に蒔かれたもの」ばかりに見えるかもしれないけれど、しかしたしかに、「良い地に蒔かれたもの」もあるはずなんだと、何倍もの「実を結ぶ」人々もいるはずなんだと、イエス様のこの“なぞなぞ”を思い出すことで、私たちは今日も勇気をもらうことができるんです。
「実を結ぶ」ということ
ところで、「実を結ぶ」というのは、そもそもどういうことなんでしょうか。「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」というイエス様の言葉を、「一人のクリスチャンが、三十人、六十人、百人の人をイエス様に導く」という意味で理解することもできるでしょう。しかし、ここでイエス様が仰った「実を結ぶ」ということは、「クリスチャンを増やす」という意味だけではないと思います。むしろイエス様がここで仰ったのは、「一人のクリスチャンを通して、みことばが現実のものとなる」ということだと思います。もちろん、だれかにイエス様のみことばを伝えることも大切ですけれども、まず私たち自身の中で、みことばが豊かに実を結んでいるだろうか、ということです。「実を結ぶ」ということについて、パウロは次のように語っています。『ガラテヤ人への手紙』5章22節と23節前半をお読みします。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。
このような「御霊の実」を、私たちクリスチャンがまず、しっかりと実らせているでしょうか。今こうして説教を聞いている私たちが、イエス様のみことばを毎週、もしくは毎日、熱心に聞いているはずの私たちが、「聞くには聞くが悟ることはない」、なかなか実を結ぶことができない、ということはないでしょうか。みことばを聞いているはずなのに、愛がない。みことばを聞いているはずなのに、いつもイライラしていて喜びがない。みことばを聞いているはずなのに、人の言動がいちいち気になって、文句をつけてしまう。みことばを聞いているはずなのに、いろいろなことを心配してしまって、平安がない。イエス様の尊いみことばを聞いているはずなのに、自分の口から出てくる言葉はいつも、悪口や皮肉や妬みばかり。
それどころか、聖書の言葉を使って誰かを批判したり、誰かに嫌味を言ってしまうことさえあるかもしれない。何年前に聞いたかは忘れましたが、クリスチャン同士が激しい言い争いをしていたときに、「お前みたいな律法学者は救われない」とか、「行いのない信仰には何の意味もないって聖書に書いてあるのはお前のことだな」というふうに、相手を攻撃するために聖書の言葉を引用していた、という話を聞いたことがあります。私たちも、さすがにそこまであからさまなことはしないとしても、心の中では同じようなことをしているかもしれない。自分の罪や間違いは棚上げにしたままで、誰かに嫌味を言うために聖書の言葉をそんなふうに使ってしまうのだとしたら、聖書なんて読まないほうがいいのかもしれません。
でも、そんなふうにして、いつまで経っても実を結ぶことができないような私たちこそ、そんな私たちにこそ、イエス様のみことばが必要なんだと思うんです。百倍どころか、三十倍どころか、まだ一つも実を結べていないように思える私たちこそ、イエス様のみことばを聞いても、その意味を理解できず、いや、理解できても、それを実践することができない、どうしようもない私たちこそ、イエス様のみことばにしがみついて、喰らいついて、分からないなりに、耳を傾け続ける必要があると思うんです。
愛も喜びも、平安も寛容も、親切も善意も、誠実も柔和も自制も、まだまだ全然足りなくて、「こんな自分がクリスチャンだと名乗っていいんだろうか。イエス様の弟子だと名乗っていいのだろうか」と思うような私たちこそ、イエス様のみことばに喰らいつく必要がある。「イエス様、あなたがお話しくださったこの言葉は、どういう意味なのですか。イエス様、私には分からないんです。あなたのみことばを聞いても、頭では理解できたとしても、それを実践できないんです。実を結ぶことができないんです。でも、それでも、そんな私だからこそ、あなたのみことばを聞き続けて、実を結びたいんです」と、必死に喰らいついていく。イエス様のみことばに喰らいついていく。それこそが、「外の人たち」とは違って、私たちクリスチャンだけに与えられている特権だと思うんです。そのようにしてまず私たちが、みことばに必死に喰らいついていくなら、「外の人たち」にも、みことばが届いていくんだと思うんです。まず、私たちが実を結ぶことを目指したいと思います。たくさんの実を結ぶ、「良い地」になることを目指したいと思います。そのために、イエス様が語られる“謎”を、諦めずに尋ね続けたいと思います。ご一緒に祈りましょう。
祈り
父なる神様。あなたのみことばをどれだけ聞いても、相変わらず罪を犯し、人を憎んだり、色々な心配をしたり、いつもイライラしてしまうような、そんな私たちです。しかし、そのような私たちだからこそ、あなたのみことばが必要です。どうかイエス様、あなたのみことばを聞いて、すぐ家に帰ってしまうような私たちではなく、「もっと詳しく教えてください。愚かな私のためにもっともっとお語りください」と、あなたの前に進み出る、愚かではあっても、素直な私たちとさせてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。