No.34【聖餐式も"みことば"?】

◆盛岡みなみ教会の週報を読んだ友人から、こんな質問をされたことがあります。「なんで聖餐式も“みことば”に入ってるの?」――たしかに、盛岡みなみ教会の礼拝プログラムは〈Ⅰ招待と賛美〉〈Ⅱ祈りと交わり〉〈Ⅲみことば〉〈Ⅳ応答と祝福〉の4つに分かれていて、聖餐式は〈Ⅲみことば〉に入っています。「聖書朗読と説教が“みことば”なのは分かるけど、なんで聖餐式も“みことば”なの?」ということです。みなさんならどう答えるでしょうか?

◆実は、古来よりキリスト教会では、“説教”のことを「目に見えない神のことば」と呼び、“聖餐”や“洗礼”のことを「目に見える神のことば」と呼んで来ました。その伝統に倣って、私たちの教会でも聖餐式を〈Ⅲみことば〉に含めているわけです。単に、「タイミング的に説教の後だから、とりあえず〈Ⅲみことば〉に入れちゃえ!」ということではないんです。

◆「でも、“ことばが目に見える”なんて変な感じ」と思います。たぶん日本人は、「言葉」という漢字を使っているせいで、〈葉っぱみたいに軽くて不確かなもの〉というイメージを持ちやすいのでしょう。しかし、聖書が語る「神のことば」は、ふわふわと掴みどころの無いものではありません。触れることができ、掴むこともでき、食べることさえできる、確かなものです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)からです。