エペソ2:8-10「この恵みのゆえに」(宣愛師)

2024年4月7日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『エペソ人への手紙』2章8-10節


8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。



「クリスチャンの中にいるのが辛くなった」

 2024年度最初の日曜礼拝を、こうして皆さんとご一緒におささげできますことを、主イエスに感謝しています。本日は、新しい年度の年度聖句を覚えつつ、特に「恵み」ということについて、「恵み」とは何か、ということについて、ご一緒にみことばを聞いていきたいと願っています。

 ある教会で行われた集会に、クリスチャンではない友人と一緒に参加した時のことです。賛美歌を歌ったり、聖書のメッセージを聞いたり、メッセージに関する感想を分かち合ったりする集会でしたが、気づいたらその友人が集会を抜けて、後ろの方にひとり座って泣いてしまいました。どうしたのかと話を聞くと、「クリスチャンの中にいるのが辛くなった」と言うんです。「教会も結局はキラキラした人たちの集まりなんだと思って、そこにいるのが辛くなった」と。

 私たちクリスチャンは、すべての人が安心して安らげるような教会を目指しています。教会は、救いを必要としているすべての人々、特に、心に傷を負っている人々や、自分という存在に価値が見い出せない人々のために存在しています。しかし、私たち教会は時に、救いを必要としている人々を救いに導くどころか、むしろ苦しめてしまうことがあるんです。「クリスチャンの中にいるのが辛くなった」と思わせてしまうことがあるんです。

 私とまなか先生の共通の友人で、キリスト教団体で働いている素敵なご夫妻がいます。この二人は学生時代からとても優秀で、今は海外留学のために準備をしているのですが、この二人が数年前に結婚することになった時、結婚式の司式を担当した牧師が二人にこんなことを言ったのだそうです。「お二人が結婚して、結婚生活が順調に進んでいった時に、『あの二人なら大丈夫だね』と周りから思われないように気をつけてください。」

 「優秀で素晴らしいあの二人だから、結婚生活も上手くいくに決まってるよね。」そう思われてしまわないように気をつけなさい。なぜ、そのように思われてしまってはいけないのでしょうか。それは、そこには神様の「恵み」が現れないからです。優秀な二人だから、人格的に優れている二人だから、結婚生活も上手くいく。もしもそれが真実なのだとすれば、そこには「恵み」が見えて来ません。神の恵みが入る余地がありません。「ああ、あの二人は優秀で、自分みたいな人間とは違うんだ」と思わせてしまうだけです。「自分はあの二人のようにはできない」と、周りの人を落ち込ませるだけです。優秀で素晴らしい二人だけれども、だからこそ、「あの二人だからだね」と思われるような、イエス様なしで上手くやっているような、そんな勘違いを周りにさせてはいけない。優秀な二人だけれど、実は神様がいなければ何もできない二人なのだということが、周りにも分かってもらえるくらいに、ますます神様の恵みに頼りながら歩んで行ってください、と。

 神の「恵み」とは何でしょうか。先ほど朗読していただいた部分の冒頭、エペソ書2章8節には、「この恵みのゆえに……救われた」と書かれていますが、そもそも「この恵み」とはどのようなものなのでしょうか。少し遡って、2章の1節から5節までをお読みします。


1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、

2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

 『北斗の拳』というアニメの有名な台詞で、「お前はもう死んでいる」という台詞があります。たぶん皆さんの中には私よりも詳しい方々がいると思いますが、アニメの第一話、人質にされた女の子を救い出すために、主人公のケンシロウが悪党たちをやっつける場面です。ケンシロウの「北斗百裂拳」を喰らった悪党は、最初は特に変化がなかったので、「きさまの拳など蚊ほどにも効かんわ!」と言ってケンシロウに襲いかかろうとするのですが、「お前はもう死んでいる……」とケンシロウが呟いた次の瞬間、悪党の身体は内側から破裂してしまいます。

 パウロも同じようなことを書いています。「あなたがたは……死んでいた」。「死んでいた」とはどういうことでしょうか。生きているように見えて、実は死んでいた。死ぬ、ということ自体も恐ろしいことですけれども、もっと悲惨なのは、死んだ身体が腐っていくことです。人間や動物の死体は、放っておけばあっという間に悪臭を放ち、様々な病原菌の温床となり、見た目も醜く変化していきます。うじ虫が湧くこともあるでしょう。それが、パウロがここで言っている、「あなたがたは罪の中に死んでいた」ということです。

 私たちは生きているように見えて、実は死んでいた。あちこちが腐り始めていて、周りに悪臭を放っていた。罪という病原菌、マスクをしても抑えられないウイルスを周りに撒き散らしていた。「いや、そんなことはない!」と思う人もいるでしょう。「クリスチャンになる前から、私はもっと立派に生きていた」という人もいるかもしれません。たしかに、すべてが腐っていたわけではなかったかもしれない。しかし、それでも腐り始めていたに違いないと思います。少なくとも私はそうです。クリスチャンの家庭で育ちましたけれども、中高生時代に、自分の中に自分ではどうすることもできない具体的な罪があることに気づいて、この罪を放っておけば、いつか自分は大切な人たちを傷つけてしまうだろうと恐ろしくなりました。今もそうです。臭い物に蓋をするように、なんとかごまかしながら、悔い改めながら、その罪となんとか戦っています。

 「お前はもう死んでいる」もしくは「あなたがたは死んでいた」という言葉を認めることは、なかなか難しいことかもしれません。「あなたは腐っている」と言われて、「はい、私は腐ってます」と言える人はなかなかいません。しかも、ただでさえ自己肯定感の低さに苦しむ私たちです。「あんたみたいな人間は消えてしまえ」と言われて傷ついたり、心の中で自分に暴言を吐いて、自分で自分を傷つけたりしてしまう私たちです。もうこれ以上、自分の存在価値を揺るがすような言葉を受け入れることはできないと思うのは当然のことです。

 しかし、「あなたはすでに腐っている」というパウロの言葉を認めることは、不思議なことに、私たちの自己肯定感を低めるどころか、むしろ極限まで高めることになるんです。考えてみていただきたいのですが、誰かが亡くなって数時間、いや数十時間が経って、すっかり臭くなってしまったような死体を、誰もが忌み嫌い遠ざけるような死体を、その強烈なにおいにもかかわらず、優しくぎゅっと抱きしめた人がいたとすれば、その光景を見ていた人たちは、この二人の間にあった愛の深さを認めざるを得ないでしょう。その身体が腐れば腐るほど、抱きしめる人の愛の深さは明らかになるんです。

 「私は死んでいた」と認めることと、「私は誰にも愛されていない」と絶望することは、全く違います。むしろその逆です。「私は死んでいた。腐っていた」と認めることは、「それなのに、イエス様が私を抱きしめて、私のために死んでくださって、私を救ってくださったということは、イエス様にとって私は、ものすごく大切な存在に違いない」という気付きにつながっていくんです。「こんなにも腐り果ててしまった私のために、十字架にかかってくださるなんて、イエス様は私をどれほど深く愛しているのだろうか」と思えるようになっていくんです。


「あなたがたから出たことではなく」

 改めて、エペソ人への手紙2章8節から10節までをお読みします。


8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

 ここでパウロは、「行い」という言葉と「良い行い」という言葉を区別して使っています。「行い」と「良い行い」の違いはいくつかありますが、最も根本的な違いは、「行い」は私たちの中から出てくるものであり、「良い行い」は神が備えてくださるものだ、ということです。もし、私たちの中から「良い行い」が出てくるように見えたとしても、実際には、神様があらかじめ備えてくださったものだ、ということです。

 このことをはっきり知っている人は、「神様、今日はこれこれの働きをしたいと思いますので、どうかお力添えをください」とは祈りません。「神様、こういう活動をしますので、見守っていてください」とも祈りません。私たちが何かの良い行いをするということは、最初から最後まで、一から十まで、すべて神様が備えてくださったものだからです。「お力添え」とか「見守り」どころの話ではないんです。もしもクリスチャンたちが「キラキラ」しているように見えるとすれば、それはそのクリスチャンたちが人格的に優れているとか、優秀な能力を持っているとか、そういうことでは全くありません。

 それなのに私たちクリスチャンは、一から十まで神様のおかげとはせずに、二つ、いや三つくらいは自分のおかげもあるだろう、というような雰囲気を出してしまうんです。「少しくらいは、自分にも救われる理由があったに違いない」というようなことを、口には出さないとしても、心のどこかで考えてしまうんです。「自分がキリスト者になれたのは、諦めずに聖書を読み続けたからだ」と考える人もいるでしょう。「自分がキリスト者になれたのは、真面目に礼拝に通い続けたからだ」と考える人もいるでしょう。「自分がキリスト者になれたのは、普通の日本人たちよりも自由な考え方を持っていたからだ」と考える人もいるでしょう。

 こういう高慢な考え方を、神様は徹底的にお怒りになるんです。一から十まで神様のおかげなのに、「少しくらいは自分のおかげでもある」と考えることを、神様は全くお認めになりません。「なんだ、神様って意外と心が狭いなあ。僕たちにも少しは良いところがあるって考えることくらい、別に許してくれたっていいじゃないか」と思うかもしれません。なぜ神様は、そのような考え方を徹底的にお怒りになるのでしょうか。高慢な人間を見ているとイライラしてしまうからでしょうか。もしくは、手柄を横取りされたような気がして、お怒りになってしまうのでしょうか。そうではありません。神様はそんなに心の狭いお方ではありません。聖書には、「主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである」と何度も何度も書かれています。

 それではなぜ神様は、「自分が救われたのには、ちょっとは自分のおかげもあるだろう」とクリスチャンたちが考えることを、絶対にお認めにならないのでしょうか。それは、そのような考え方が少しでも入り込んでいる教会は、本当に救いを必要としている人々を救いに導くことができないからです。救いを必要としている人々を救いに導くどころか、むしろ辛い思いをさせる教会になってしまうからです。

 たしかに教会には偉そうな人たちもやって来ます。「自分のような優れた人間は、聖書を学べばさらに優れた人間になれるだろう」という高慢な考えを持って教会に来る人もいます。しかし多くの人は、「自分のような人間でも教会に行って良いのだろうか」と悩みながら、「でも、神様は罪人を救ってくださると聞いた。救いは恵みによると聞いた。それならこんな自分でも、こんな惨めな人間でも、救っていただけるかもしれない」と思って、恐る恐る教会にやって来るんです。

 そんな人に対して私たちクリスチャンが、「自分は聖書を熱心に読み続けたのでクリスチャンになれました」とか、「真面目に礼拝に通い続けたので真理を発見しました。あなたも早くクリスチャンにおなりなさいね」などと、ほんの少しでも自慢げなことを言う。もしくは、口には出さないとしても、そんな感じの顔をして椅子に座っていたとする。せっかく勇気を出して教会に来た人々は、「やっぱり自分には無理だ」と思ってしまうでしょう。「自分みたいな人間が来る場所ではない」と思ってしまうでしょう。「たしかに、ここにいるクリスチャンの人たちは、諦めずに聖書を読み続けることができそうな顔をしているし、真面目に礼拝に通い続けそうな顔をしているし、他の普通の日本人たちよりも自由な考え方を持っていそうだ。それに比べて自分は、そんな素晴らしい素質を一つも持っていない」と思わせ、苦しめてしまうかもしれません。

 私たちのちょっとした高慢が、ささいな自慢が、人々を救いから遠ざけてしまいます。自己嫌悪と罪悪感に苦しみながら必死に教会にたどり着いた人々を、救いの恵みから遠ざけてしまいます。だから神様は、「私がクリスチャンになれたのは、ちょっとくらいは自分のおかげだ」という傲慢な考え方を、徹底的にお怒りになるんです。私たちが高慢になる度に、神様の恵みは見えにくくなっていくからです。私たちが高慢になる度に、神様が造られた「神の作品」がけがされていくからです。私たちが自分の中から出てきた「行い」によって救われたかのような顔をする度に、「クリスチャンの中にいるのが辛くなった」と思わせてしまうような教会になっていくからです。

 ここまで考えてみると、10節に書かれている「良い行い」というのがどういうものなのか、分かってきたような気がします。神が「あらかじめ備えてくださ」ったというその「良い行い」とは、一体どのようなものなのか。具体的には色々なことが考えられます。貧しい人や困っている人を援助するということも、大切な「良い行い」でしょう。しかし、根本的に私たちがなすべき「良い行い」とは、神様の「恵み」を具体的な行動によって示すことです。「腐りきっていた私たちが、救われる価値など全くなかったはずの私たちが、実はものすごく愛されているのだ」という聖書のメッセージを、目に見える形で表していくことだと思います。「恵み」が目に見えるような教会として歩んでいく、ということだと思います。

 私たち盛岡みなみ教会は、クリスチャンではない方々に、自分に自信が持てずに苦しんでいる方々に、辛い思いをさせてしまうような教会でしょうか。それとも、自分に自信が持てずに苦しんでいる方々に、「ここにいる時だけは安心できる。価値のある存在として愛してもらえる」と思っていただけるような教会でしょうか。そう思っていただくためにはまず、私たちクリスチャンがもっともっと悔い改めなければなりません。もっともっと「恵み」を受けなければなりません。自分の中にある腐った部分に蓋をするのではなく、イエス様に抱きしめてもらわなければなりません。

 神様の恵みによって、私たちはもっともっとあたたかい教会になっていくことができます。ますます互いに愛し合い、互いの価値を認め合う教会になっていくことができます。「クリスチャンの中にいるのが辛くなった」と言われるのではなく、「クリスチャンの中にいると、クリスチャンじゃない自分も、なんだかイエス様に愛されているような気がしてきた」と言ってもらえるような教会になっていくことができます。「そんな教会になれるだろうか。そんな風に思ってもらえるような教会になれるだろうか」と心配する必要はありません。なぜなら、教会は私たちが作り上げなければならない作品ではなく、神様の恵みによって造られる「神の作品」だからです。心配する必要はありません。不安になる必要はありません。変に緊張する必要もありません。最初から最後まで全て、一から十まで全て、神様が備えていてくださるからです。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。罪の中に死んでいた私たちを、醜く腐った私たちを、それでも抱きしめて愛してくださったあなたの恵みを感謝いたします。私たちが救われたのが、私たちの能力とか、私たちの向上心とかによるのではなく、ただあなたの恵みによるものであることを、もっと多くの人々に知っていただくことができますように。私たちのちょっとした自慢が、ちょっとした高慢が、必死に救いを求めて教会に来る人々の妨げとなってしまわないように、どうか悔い改めの心をお与えください。悔い改めることさえできない頑なな私たちに、悔い改めに進ませてくださるあなたの恵みをお与えください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。