マルコ8:1-10「分からず屋の弟子たち」(宣愛師)

2023年5月14日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』8章1-10節


1 そのころ、再び大勢の群衆が集まっていた。食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた
2「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです
3 空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなります。遠くから来ている人もいます。」
4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょう。」
5 すると、イエスはお尋ねになった。「パンはいくつありますか。」弟子たちは「七つあります」と答えた
6 すると、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った
7 また、小魚が少しあったので、それについて神をほめたたえてから、これも配るように言われた
8 群衆は食べて満腹した。そして余りのパン切れを取り集めると、七つのかごになった
9 そこには、およそ四千人の人々がいた。それからイエスは彼らを解散させ、
10 すぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方に行かれた



なぜ同じような出来事が二度も?

 昨日この教会で行われたYさんの結婚式は、本当に素晴らしいものとなりました。準備のために様々なご奉仕をしてくださった皆さんは、昨晩はきっと心地よい疲れの中でお休みになられただろうと思います。かくいう私も、結婚式の司式という大役を初めて任せていただき、不十分なところも多々あったかと思いますが、なんとかやり遂げたという気持ちでした。お二人の祝福のために、盛岡みなみ教会として、これからもぜひ祈っていきたいと思います。

 さて、今日はマルコの福音書を読んでいますけれども、「あれ、この箇所って何ヶ月か前にも読まなかったっけ? もしかして宣愛先生、昨日の結婚式の疲れで間違えちゃったのかな?」と思った方もいるかもしれません。疲れているのは確かですが、間違えたわけではありません。同じ箇所をもう一度選んでしまったのではなく、同じような箇所が二つあるというだけです。

 聖書をお持ちの方は、よろしければ、マルコの福音書6章の32節から44節をお開きになってみてください。今日の聖書箇所と似たような出来事が記録されています。8章に書かれているのと同じような出来事が、6章にも記されていたわけです。

 6章32節から44節に記録されているのは、「五千人の給食」と呼ばれる出来事です。それに対して今日の聖書箇所、8章1節から10節に記録されているのは「四千人の給食」と呼ばれる出来事です。同じような出来事が二回も記録されている。「同じような話なら、どっちかだけ書いておけば良かったんじゃないのか?」と思ってしまいそうです。

 どうしてマルコは、どちらか一方を省略したりしなかったのでしょうか? どうして、似ている出来事を二回も記録しているのでしょうか? もちろん、「両方の出来事がものすごい奇跡だったから、マルコはどっちも書き残したかった」というだけのことかもしれません。しかし、この二つの聖書箇所を注意深く読み比べてみると、一見同じような出来事に見えて、実はいくつかの大切な違いがあるということに気づくんです。


一つ目の理由:ユダヤ人から全世界へ

 「五千人の給食」と「四千人の給食」の違いについて、表を作ってみました。学校の授業みたいになってしまい恐縮ですが、今日の聖書箇所を理解するために必要なので、ぜひご覧ください。

 第一に、集まっていた人数が違います。「五千人」と「四千人」です。第二に、パンと魚の数が違います。6章では「五つのパンと二匹の魚」ですが、8章では「七つのパンと少しの小魚」です。第三に、「かご」の数が違います。6章では「十二のかご」ですが、8章では「七つのかご」です。

 ここまでのところは比較的気づきやすいことかもしれません。しかし、その他にも大切な違いがあります。第四に、起こった場所が違います。「五千人の給食」は、ユダヤ人の多いガリラヤ地方で起こりましたが、「四千人の給食」は、外国人の多いデカポリス地方で起こりました。これについては、マルコの福音書の流れを注意深く読んでいないと、なかなか気づきにくいと思います。

 そして第五に、これはかなり細かな違いなんですが、実は「かご」と訳されているギリシア語が違うんです。6章で「かご」と訳されているのは、ユダヤ人がよく使っていた「コフィノス(κόφινος)」という特殊なかごです。それに対して、8章で「かご」と訳されているのは、外国人にも使われていた「スピリス(σπυρίς)」というより一般的なかごです。

 このように、6章の出来事と8章の出来事は、似ている話ではあっても、実際には重要な違いがあるんです。そしてその違いは、私たちに大切なメッセージを伝えています。それは、“イエス様の恵みが、ユダヤ人だけではなく、外国人にも広がり始めた”ということです。


二つ目の理由:分からず屋の弟子たち

 ただ、マルコが同じような出来事を二度も記録した理由は、もう一つあったと思われます。二つ目の理由、それは、“弟子たちがいかに分からず屋だったかを伝えるため”という理由です。8章4節と5節をお読みします。


4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょう。」
5 すると、イエスはお尋ねになった。「パンはいくつありますか。」弟子たちは「七つあります」と答えた。

 弟子たちが、「どうすりゃいいんですか」と悩んでいるわけですが、私たちからすれば、「いやいや、6章に書いてある五千人の給食のこと、もう忘れたの!?」と思うわけですし、イエス様もそう思われたはずです。「なんにも覚えてないの?」と。

 でも、イエス様はそんな思いをぐっと堪えて、「パンはいくつありますか」とお尋ねになります。「五千人の給食」のときにも、イエス様は全く同じ質問を弟子たちにされました。ですからおそらく、ここで「パンはいくつありますか」とお尋ねになったのは、イエス様からのヒントです。「ほら、この質問、前にもしたよね? 思い出したかな?」というヒントです。

 しかし弟子たちは、「ああ、そうでした!以前、五千人の人が空腹になったときは、イエス様がたった五つのパンで全ての人をお腹いっぱいにしてくださったんでした!それなら、今回もイエス様がいれば大丈夫ですね」とは言わず、まるで以前の出来事をなんにも覚えていないかのように、ただ「七つあります」とだけ答えます。「これじゃぜんぜん足りませんよ」と。

 「もう、弟子たちはなんておバカさんなんだろう…」と呆れてしまいます。イエス様があんなに素晴らしい奇跡を行ってくださったはずなのに、「イエス様がいてくだされば、どんな状況でも大丈夫だ」って学んだはずなのに、まだ何一つ分かっていない。「どうしよう、どこからパンを手に入れればいいんだろう」と相変わらず悩んでいる弟子たちは、なんて愚かなんだろう。

 しかし、私たちはこの弟子たちをバカにできるでしょうか。私たちだって、「あれが足りない、これが足りない」と何度も何度も心配をして、そのたびにイエス様にお祈りをして、助けていただいた。イエス様がいれば大丈夫だ、どんな状況でも心配する必要はないと、何度も学んできたはずです。それなのに、また何かが足りなくなると、「どうしよう、どうすればいいんだろう」と心配する。お金が足りない。時間が足りない。能力が足りない。ああどうしようと、何度も何度も不安になって、そして、再びイエス様に助けていただくと、「ああ、よかった。どうなることかと思った」と安心する。

 マルコが気づかせようとしたのは、そのような私たちの愚かさです。私たちはマルコの福音書を読んで、弟子たちをバカにします。「おいおい、前にも同じようなことがあったじゃないか。隣にイエス様がいるじゃないか。なのにどうしてそんなに心配してるんだ」と笑ってしまう。しかし、そんなふうに弟子たちの姿を面白がりながら、「あれっ、もしかしてこれは、自分のことなのでは?」と我に返る。


一度では分からないから

 2021年のクリスマスごろ、大塚先生ご一家が福岡に行くと知らされた時も、皆さんは「この先、盛岡みなみ教会はどうなってしまうんだろう」と心配されたはずです。私自身も、盛岡に遣わされると決まり、秋山先生の助けがあるとは言っても、「自分一人でやっていけるだろうか」と心配になりましたし、実際にこの一年間働く中でも何度か、「やっぱり自分じゃダメなんじゃないか」と思いました。それでも、どうにかなった。

 昨年の夏に、S家が横浜へ帰ってしまうと聞いた時も、あの賑やかな5人家族がいなくなってしまって、なんだか教会にポッカリ大きな穴が空いてしまったような感じがして、「これから大丈夫かなあ」と不安になりましたし、実際に今でも「また盛岡に帰ってきてくれないかなあ」と思ってしまうわけですが、それでも、どうにかなった。

 そして今日、Yさんがいなくなってから初めての礼拝を迎えて、「ああ、ほんとにYさん、青森に行っちゃうんだなあ」としみじみ思う私たちです。去年の秋にYさんから、「結婚を前提にお付き合いを始めました。たぶん青森に引っ越すことになります」とご報告を受けた時、「おめでとうございます」と口では言いながら、内心ではどれほど落ち込んだことか…。Yさんが抜けた穴は大きい。私たちに今何が足りないかと言えば、Yさんが足りない。Yさんロスです。

 でも、それでも何とかなるはず。ここで「どうしよう、どうしよう」とあたふたしてしまったら、私たちがバカにしてしまった弟子たちと同じです。慌てる必要はない。イエス様は必ず、私たちに必要な助けを与えてくださる。必要なものをすべて備えてくださる。

 「あれ、似たような話、前にも読んだことあるかも?」というのは、今日の聖書箇所に限ったことではないかもしれません。聖書の中には、似たような話とか、同じような言葉がよく繰り返されます。「恐れてはならない」とか「安心しなさい」という御言葉は、聖書の中に百回以上出てきます。どうして神様は、そんなに何度も同じことを言われるのか。それは、何度言われても、百回言われても、私たちがまだ恐れ続けるからです。

 「平安」という言葉も、聖書に百回くらい出てきます。「平安がありますように」なんて、至るところに書かれています。聖書を読んでいると、「また平安かよ」と言いたくなるくらいです。どうして神様は、そんなに何度も「平安平安」と仰るのか。それは、何度言われても、何百回言われても、私たちが平安になれないからです。神様を信じず、思い悩み続けているからです。

 私たちは分からず屋です。私たちの心は頑なです。一度言われて、完全に理解できるほどお利口さんじゃありません。でも、そんな分からず屋で頑固者の私たちを見捨てずに、イエス様は何度でもみことばを語ってくださる。私たちが分かるようになるまで、心の底から信仰を持てるようになるまで、イエス様は聖書を通して、何度でも語りかけてくださる。

 ですから私たちも、分からず屋なりに、みことばに耳を傾けたいと思います。デカポリス地方の四千人の人々が、三日間もイエス様と一緒にいて、食料が尽きてもなお、イエス様のみことばに耳を傾け続けたように、私たちも熱心に、イエス様のみことばを求め続ける者となりたいと思います。分からず屋は分からず屋なりに、イエス様を心から信じ切ることができるようになるまで、何十回でも、何百回でも、みことばを聞かせていただきたいと思います。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神さま。二度目の奇跡にもかかわらず、分からず屋の弟子たち。そして、二度目だろうと三度目だろうと、何度イエス様の助けをいただいても、分からず屋の私たちです。神様、どんなに大きな変化が起ころうと、どんなに大きな困難が起ころうと、慌てふためくことなく、安心していられるような信仰を、私たちにお与えください。分からず屋の私たちをお見捨てにならず、今日も、明日も、みことばをお語りください。イエス様の御名でお祈りします。アーメン。