マルコ12:28-34「礼拝している場合なのか」(宣愛師)

2024年3月3日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』12章28-34節


28 律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」
29 イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
30 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
31 第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」
32 律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。
33 そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」
34 イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。



礼拝か、人助けか?

 昨年の10月、日本同盟基督教団の「秋の研修会」に参加しました。その研修会の中で、今は北海道の苫小牧福音教会で働いておられる水草修治先生が、次のようなお話をされました。簡単なメモしか取れなかったので、記憶違いがあるかもしれませんが、今から何年も前に、水草先生が長野県の教会で働いていた時のお話でした。その町で、ある土曜日に、川遊びをしていた一人の子どもが行方不明になってしまった。捜索活動が始まり、警察はもちろん、町全体でその子どもを探した。土曜日には見つからなかったので、日曜日にも捜索活動が行われることとなった。水草先生は悩んだそうです。日曜日の礼拝を中止して、朝から捜索活動に加わるべきか。それとも、神様を礼拝することを第一として、後から捜索活動に加わるべきか。神様を礼拝することと、行方不明の子どもを探すことの、どちらを優先すべきか。悩みに悩んだ末、最終的には礼拝を中止しないで、予定通り行なうことにしたのだそうです。「しかし、それが正しい決断だったのかどうか、今でも考えます」と、先生は言いました。

 私たち盛岡みなみ教会も、今日もこうして礼拝のために集まっていますけれども、ふと立ち止まって考える必要があるかもしれません。私たちは本当に、礼拝をしている場合なのだろうか。今この時にも、助けを必要としている人が大勢いるはずなのに、その方々を放っておいて、礼拝をしていて良いのだろうか。それが本当に、神様が願っておられることなのだろうか。そのような問いについて考えながら、まずは28節から31節までをお読みしたいと思います。


28 律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」
29 イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
30 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
31 第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」

 律法学者が尋ねたのは、「すべての中で、どれが第一の戒めですか」という質問でした。ところがイエス様は、「第一の戒め」に加えて、「第二の戒め」についてもお語りになった。隣人を愛することを、神を愛することと切り離せないものとしてお語りになった。なぜイエス様は、この二つを結びつけたのでしょうか。この二つの戒めはどのように結びついているのでしょうか。

 いつのことだったか忘れましたが、ある日、Aちゃんと教会でおしゃべりをしていましたら、「私、実は少しだけギリシャ語を勉強してるんです」という、衝撃の発言が飛び出してきました。ノートを見せてくれたんですが、確かにギリシャ語の文字がびっしり書いてあるんです。「どうしてギリシャ語? 聖書の勉強をしたいから?」と尋ねると、「いや、好きなゲームのキャラクターがギリシャの人だったから」と。もう少し詳しく話を聞いてみると、ロシア人のキャラクターが好きになった時には、ロシア語の勉強もしたとのこと。そんな話をした数カ月後に、今度はインド人のキャラクターが好きになったと言ったので、「今度はヒンドゥー語を勉強するの?」と聞いたら、「いや、インドカレーの作り方を勉強しようかな」とのことでした。

 自分が好きな人に、少しでも近づきたい。好きな人が大切にしているものを、自分も大切にしたい。こういう気持ちは、Aちゃんだけに限らず、多くの人に共通するものではないかと思います。そういえば私も、まなか先生、というか、まなかちゃんに片想いをしていた学生時代、なんとかしてお近づきになりたくて、あれこれと小細工をしていたことを思い出しました。映画が好きだという情報は知っていたので、LINEで「おすすめの映画ってある?」なんてことを尋ねてみて、教えてもらった映画を全部観て、その感想を伝えて、またおすすめ映画を聞いて、ということを繰り返していました。これが恋愛術として適切だったかどうかは分かりませんし、実際に後で本人から、「あれはちょっと分かりにくい」と批判されましたが、好きな人の好きなものを自分も好きになりたいという感情は、人として自然なことだろうと思います。

 イエス様は、「あなたの神、主を愛しなさい」という言葉を、旧約聖書から引用しました。この言葉は、ヘブル語でもギリシャ語でも、実は命令形ではありません。直訳すれば、「あなたの神、主をあなたは愛するだろう」という言葉です。もちろん、「愛しなさい」という意味なんですが、そこには「愛するだろう」「愛してくれるはずだ」という神様の思いが込められているんです。それと同じように、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉も、直訳すれば、「あなたの隣人を自分自身のようにあなたは愛するだろう」となります。「あなたは、あなたの唯一の神であるわたしを愛してくれるはずだ。そして、あなたはあなたの隣人をも愛するはずだ。」単なる命令ではなく、神様の願いが込められているんです。もっと踏み込んで考えるなら、こういうことにもなるかもしれません。「あなたはわたしを愛してくれるだろう。そして、もしあなたがわたしを愛してくれるなら、あなたの隣人のことも愛してくれるだろう。なぜなら、あなたの隣人もまた、わたしの愛するわたしの子どもなのだから。」これこそが、「第一の戒め」と「第二の戒め」が結びつくところなのではないかと思います。


「賛美歌なんて歌っている暇があったら」

 続いて、32節から34節までをお読みします。


32律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。
33 そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」
34 イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。

 この律法学者は、ただイエス様のお答えを繰り返しただけではなく、大切なポイントを付け加えて答えました。神を愛することと隣人を愛することは、「どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」これは、単なる賢い答えというだけではなく、勇敢な答えでした。なぜなら、この対話が行われていた場所は、ささげ物やいけにえが献げられていたエルサレム神殿だったからです。神殿でいけにえさえ献げていれば神様は喜んでくださるだろうと、皆が思い込んでいるそのただ中で、この律法学者は、いけにえなんかよりも愛のほうがよっぽど大切だ、と言い放ったんです。この答えを聞いて、イエス様も大変お喜びになりました。「あなたは神の国から遠くない」というイエス様の言葉は、おほめの言葉として理解して間違いないと思います。

 私たちはもう、動物をいけにえにしたり、神殿でささげ物を献げたりすることはありません。しかし、たとえば礼拝の中で賛美歌を歌うことは、ある意味では「ささげ物」のようなものです。私は賛美歌がとっても好きですが、賛美を歌いながらふと、「神様は本当に歌を聞いて喜ばれるのだろうか」と疑問に思ってしまうこともあります。「もっと他にやるべきことがあるんじゃないか」と冷静になるんです。石川県でも、ウクライナやパレスチナでも、苦しんでいる人たちがたくさんいる。もちろん、この盛岡の町にだって、今も助けを必要としている人たちがたくさんいる。それなのに、「主よ、あなたをほめたたえます」と歌っている場合なんだろうか。

 行方不明の子どもを探すために、日曜日の礼拝を中止とすべきか。「もちろん、神様を礼拝することが第一に決まっている」と言って、簡単に結論を下す人もいるでしょう。その逆に、「礼拝を中止として、子どもを探すことを優先すべきに決まっている」と、これまた簡単に結論を出す人もいるでしょう。しかし、そうやって簡単に答えを出せると思っている人たちは、神様を愛することと隣人を愛することの結びつきを、本当に理解していないのではないかと思うんです。

 「別に神様なんて信じなくても、隣人を愛することくらいできるさ」と言う人もいるでしょう。そして実際に、そういう人たちがいます。クリスチャンでなくても、神様を信じていなくても、困っている人たちのために見返りも求めず働き続けるような、素晴らしい人たちがいます。そういう人たちからすれば、毎週日曜日に礼拝に集まるクリスチャンを見て、「賛美歌なんて歌っている暇があったら、ボランティアでもしたらどうですか」と思われても仕方がないかもしれません。

 しかし、そういう素晴らしい人たちはともかくとして、少なくとも私たちには、神様を礼拝し続けるということが、絶対的に必要だと思うんです。なぜかと言えば、少なくとも私たちには、罪深い私たちには、愛することが難しい隣人がいるからです。苦手な人、嫌いな人、憎むべき人、とてもじゃないけど愛することなんてできないような人が、私たちの人生には必ず現れるからです。そして、そういう人たちを私たちが愛せるようになるためには、その人たちを愛しておられる神様を、もっと愛せるようになる必要があるからです。

 「私は神様を愛していますが、神様が愛しておられるあの人のことは愛せません」ということは許されません。「第一の戒め」と「第二の戒め」を勝手に切り離すことはできません。だからこそ私たちは、もちろんボランティアに行くことも大切ですけれども、神様を礼拝することも蔑ろにはできないんです。人を愛せない罪、隣人を憎んでしまう罪を抱えている私たちは、もっと神様を礼拝し、もっと神様を愛せるようにならなければならない。神様が愛しておられるものを、私たちが一つ残らず愛せるようになるまで、神様を愛する歌を、もっと歌い続けなければならない。


「赦しがたい悪人でも……神様は悲しまれる」

 教会の創立20周年を祝う記念誌のために、多くの方が証しの原稿をお送りくださっています。伝道師というか編集者の特権として、一足先に、おひとりおひとりの証しを読ませていただいています。「なぜ私はクリスチャンになったか」ということの経緯を書いてくださった方もあれば、「クリスチャンになってからどのように歩んできたか」ということを書いてくださった方もあり、もしくは「まだクリスチャンになる決断はしていないけれども、私はどのように聖書と向き合っているか」という方もいらっしゃいます。それぞれの文章を読んで、本当に励まされています。

 その中に、「赦し」ということについて、証しを書いてくださった方がいました。詳しい内容については、記念誌が完成してから皆さんにも読んでいただきたいと思いますが、その人は、自分をひどく苦しめた人々に対する恨みを持ち、神様に対しても不満を持っていた。そして、その不満はやがて祈りとなり、「神様、あなたのお考えを教えてください」と祈り求めるようになった。するとある時、「主の祈り」から、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」という言葉が示された。そして、次のような告白に至ったのです。


私は彼女らの事を赦さなければならない、神様が私を赦してくださったように。例え私にとって赦しがたい悪人でも神様は愛しておられるのだから、その人々の事を傷つけたら神様は悲しまれる。そう思えたとき私は凄く気持ちが軽くなりました。罪を許さなければならないという義務を負わされたように解釈することもできます。しかし、私は神様の前では誰も彼も等しい価値だということに気づき、いじめをした取り巻きのことも多くの人々と同じように愛することができるようになったのです。今まで心の中にあったわだかまりが全て取り除かれたような感覚でした。私を苦しめていたものの本当の正体は、彼女らをいつまでも許せない醜い自分自身だったのです。 

 正直なことを言えば、初めて私がこの文章を読んだ時には、本当にここに書いてあるように、自分を傷つけた人たちを赦せたのだろうかと、思ってしまいました。「愛することができるようになったのです」と書いているけれども、どこか無理をしているのではないだろうか。簡単に赦すことなんてできないような傷を受けたはずだからです。死ぬまで憎み続けてもおかしくはない痛みだと想像するからです。おそらく、すっかり完全に赦すことができて、全く気にすることがなくなった、ということではないはずです。一度は赦せたとしても、赦せない気持ち、憎む気持ちがよみがえってくることもあるはずです。しかし、たとえ憎む気持ちが残っていたとしても、「愛することができるようになったのです」と、はっきり言葉にして書くことは、人間の努力でできることではない。聖霊様のお働きによるものとしか考えられない。

 「例え私にとって赦しがたい悪人でも神様は愛しておられるのだから、その人々の事を傷つけたら神様は悲しまれる。」この証しは、なぜ私たちは神様を礼拝し続けるのか、ということの証しでもあると思います。なぜ私たちは、何よりもまず第一に、神様を愛し、神様を礼拝することを求めるのか。そしてなぜそれが、隣人を愛することに繋がっていくと信じているのか。それは、この神様を礼拝することによってのみ、私たちは、私たちが愛したくないと思うような人をも、真に愛することができるようになるからです。礼拝と賛美とみことばを通して、この神様が私たちをどれだけ愛し、赦してくださったかを確認し続けることによってのみ、私たちは、自分の限界を超えた愛によって、真に隣人を愛し、赦すことができるようになるからです。

 ですから、賛美歌を歌っている場合かと尋ねられれば、賛美歌を歌っている場合だと答えます。もっと歌いましょう。聖書のみことばを聞いている場合です。もっと聞かなければなりません。もっとみことばを聞いて、神様を愛せるようになりたいと思います。私たちの隣人を憎む思いが、赦せない思いが、これ以上大きな罪となって、私たちを支配してしまわないように、何よりもまず、礼拝をし続けたいと思います。時には、礼拝を中止して、人助けに向かうことが最善であるということもあるかもしれません。しかし、神様を礼拝することなしに、隣人を心から愛せるほど、私たちは善人じゃありません。もっとイエス様に近づきたいと思います。もっと深く、強く、この方の愛に捉えていただきたい。このお方がどれだけ強く私たちを愛し、どれだけ深く私たちを赦してくださっているか、ますます知っていきたい。礼拝をしている場合です。何よりもまず、礼拝をしなければなりません。週に一回では足りないくらいです。日曜日以外にも、もっと神様に近づいていきましょう。生活の全てを礼拝としましょう。なぜなら、私たちにとっては、私たちのように愛の足りない罪人にとっては、この方を礼拝することだけが、「第二の戒め」に至る道だからです。この方を礼拝し続ける以外には、すべての人が心から赦し合い、愛し合うことのできる世界、すなわち「神の国」に至る道は、どこにも存在しないからです。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。愛しやすい人を愛し、赦しやすい人を赦すことなら、私たちにもできるかもしれません。しかし、それ以上の愛は、私たちの内にはありません。神様が愛しておられる全てを、私たちも愛せるようになりたいです。それくらいに、あなたを愛する思いで満たされたいです。もっと礼拝をしたいです。もっとみことばを聞きたいです。もっともっと深いところまで、私たちの罪をお赦しください。もっともっと深く、あなたの愛をおしえてください。イエス様の御名によってお祈りします。