マルコ8:22-34「はっきりと見えるように」(宣愛師)

2023年5月28日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』8章22-34節


22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した
23 イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた
24 すると、彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった
26 そこでイエスは、彼を家に帰らせ、「村には入って行かないように」と言われた。

27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
28 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」
29 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」
30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた

31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。



「キリストのために苦しむこと」

 本日は私たち盛岡みなみ教会の創立記念日です。今から19年前の5月、もっと正確に言えば2004年5月30日の日曜日に、盛岡みなみ教会としての最初の礼拝がささげられました。この19年間は、みなさんにとってどのような日々だったでしょうか。最近この教会に参加し始めたという方も、「19年前なんてまだ生まれてなかったよ」という子どもたちも、ぜひこの機会に、今日までの人生を振り返ってみてください。

 先ほど私たちは、『望みも消えゆくまでに』という讃美歌を歌いました。先週の礼拝でも歌った曲です。「かぞえよ 主の恵み」という歌詞が印象的な讃美歌です。この19年間、イエス様は私たちのために、どれほどの恵みをくださったでしょうか。ひとつひとつ数えたいと思います。

 ただ、私たちはつい、「恵み」という言葉を聞くと、嬉しいこととか楽しいことばかりを想像するかもしれません。しかし、以前に説教でお話ししたことがありますが、聖書が語る「恵み」というのは、必ずしも嬉しいことや楽しいことばかりではありません。ピリピ人への手紙1章29節で、パウロは次のように語っています。


1:29 あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

 もちろん、楽しいことや嬉しいことをたくさん思い出して、神様に感謝することは大切です。しかし、「恵み」というのは「キリストのために苦しむことでもある」と言われている。私たちは、“イエス様がどれだけ楽しませてくださったか”だけでなく、“イエス様のためにどれだけ苦しむことができたか”ということも、恵みの一部として思い出しても良いと思います。盛岡みなみ教会のこの19年間の歩みも、楽しいことばかりではなかったはずです。色々な苦しみがあったはずです。しかし、それが「キリストのために苦しむこと」であったならば、それは私たちの恵みでもある。

 逆に言えば、もし私たちが、この19年間の歩みを振り返って、「イエス様のために苦しんだことなんて全然なかったなあ」と言うのなら、それはとても残念なことかもしれません。「イエス様は私たちを楽しませてくださっただけで、苦しいことなんて何もなかった」と言うのなら、もしかすると私たちは、何か間違いを犯しているのかもしれません。


盲人の癒やし:“三つの段階”

 マルコ8章に戻って、22節から26節までをお読みします。


22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した。23 イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。24 すると、彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。26 そこでイエスは、彼を家に帰らせ、「村には入って行かないように」と言われた。

 ベツサイダという町に、目の不自由な人がいました。この人について、マルコは“三つの段階”を記録しています。一つ目の段階は、“まだ何も見えていない”。二つ目は、“ぼんやりと見えるようになった”。そして三つ目の段階は、「すべてのものがはっきりと見えるようになった」です。

 こういう奇跡の出来事を読むと、「ああ、イエス様は本当に素晴らしいなあ」とか、「この人は本当に嬉しかっただろうねえ」と思わされます。しかしこの出来事は、そのような感想で終わってはいけないんです。なぜなら、この出来事には大切な、象徴的な意味が込められているからです。

 先週の聖書箇所になりますが、同じくマルコ8章の17節と18節をご覧ください。


17 イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。
18 目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。

 ここでイエス様は、「目があっても見ないのですか」という言葉によって、弟子たちの愚かさを指摘しています。あまりにも分からず屋の弟子たちは、目があっても見えていない、まるで盲人のようだと、イエス様は厳しい指摘をなさったんです。このように、「目が見えるようになる」ということは、「大切なことを理解する」とか、「真理を悟る」ということを象徴するものです。

 そう考えると、先ほど申し上げた“三つの段階”にも、象徴的な意味が込められていることになります。“まだ何も見えていない状態”、“ぼんやりと見えるようになった状態”、そして、「すべてのものがはっきりと見えるようになった」状態。これらは一体何を表しているのでしょうか?

 27節から30節までをお読みします。


27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
28 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」
29 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」
30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。

 イエス様について、「バプテスマのヨハネの生まれ変わりだ」と言う人たちもいれば、「あの偉大なエリヤの再来だ」と言う人たちもいるし、「預言者の一人だ」と言う人たちもいる。しかし、弟子たちは気づいていた。イエス様はただの預言者ではない。偉大な預言者の生まれ変わりでもない。「あなたはキリストです。」これが弟子たちの答えでした。

 ここで、先ほどの“三つの段階”を思い出してみましょう。“まだ何も見えていない状態”、“ぼんやりと見えるようになった状態”、そして、「すべてのものがはっきりと見えるようになった」状態。頭の回転が早い方であれば、こう考えると思います。「そうか、三つ目の“はっきりと見えるようになった状態”というのは、イエス様がキリストだと気づいた弟子たちのことを象徴してるんだな。そうなると、二つ目の“ぼんやりと見えるようになった状態”というのは、イエス様のことを預言者だと言っていた人々のことか。そして一つ目の“まだ何も見えていない状態”というのは、イエス様に反対するパリサイ人たちのような人々のことを象徴しているのかな」と。

 確かに、そのような考え方であれば、ピッタリとハマるような感じがします。「そうか、良かった良かった。弟子たちはついに、イエス様がキリストだって気づいたんだ。ああ、弟子たちの目が開かれて良かった」と思うかもしれません。ところが、実際はそうではなかったんです。


「下がれ、サタン

 31節から34節までをお読みします。


31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

 「あなたはキリストです」と告白した弟子たちです。しかし、彼らは実はまだ、“はっきりと見えるようになった”わけではありませんでした。彼らはまだ、“ぼんやりと見えるようになった”だけだったんです。「あなたはキリストです」というのは、確かに正しい答えでした。しかし、彼らの目は、完全には開かれていなかったんです。

 たしかにイエス様は、「キリスト」です。“救い主メシア”です。そのことに間違いはありません。しかし、当時のユダヤ人たちは、この「キリスト」とか「メシア」という言葉を、「ローマ帝国を滅ぼしてくれる偉大な指導者」という、軍事的かつ暴力的な意味で使っていました。弟子たちも、「キリスト」というのはそのような存在だと思い込んでいました。つまり、弟子たちがイエス様に対して「あなたはキリストです」と言ったとき、彼らの頭の中にあったのは、「あなたはローマ帝国を滅ぼして私たちユダヤ人を救い出してくださる軍事的指導者です」というような意味だったんです。

 イエス様は、「あなたはキリストです」という告白そのものは否定しませんでした。弟子たちの告白を受け止めました。しかし、「キリストとはどういう存在か」ということについては、弟子たちの理解を拒否されました。むしろ、本物の「キリスト」とは、「多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」のだと、弟子たちに教え始めます。

 ところが、弟子たちにはイエス様の言葉が理解できません。まだぼんやりとしか見えていないからです。ペテロがイエス様をわきに連れて行って、いさめ始めます。「イエス様、いいですか? キリストというのは、十字架で殺されるような存在ではないんですよ。キリストというのはむしろ、逆らう者たちを殺せるような存在じゃないといけないんです。あなたはキリストなんですから、そんな弱気なことを言ってはいけませんよ」と、ペテロはイエス様に説教を垂れる。「あなたが十字架で殺されてしまうなら、私たちまで一緒に殺されちゃうじゃないですか。私たちがあなたに求めているのは、ローマ帝国をやっつけてくれることです。あなたがそんなに弱っちいキリストなんだとしたら、私たちはあなたに従ったりはしませんよ?」

 しかし、そんなペテロを、今度はイエス様が叱った。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。あなたが思い描いているのは、人間の計画だ。人間の野望だ。暴力によって自分たちの敵を殺し、力づくで自分たちの野望を成し遂げようとする人間のわがままだ。しかし、神のご計画は違う。神のご計画は、暴力によっては成し遂げられない。神のご計画は、苦しみと死によって成し遂げられるのだ。ペテロ、あなたはまだ何も分かっていない。あなたの目はまだ開かれていない。」


「十字架を負って

 私たちが思い描きやすい「キリスト」というのは、“私たちの代わりに十字架にかかってくださり、私たちが十字架にかからなくて良いようにしてくださるキリスト”です。「私が君たちの代わりに死んであげたから、君たちは死ななくていいんだよ」と言ってくれる「キリスト」です。たしかに、そういう言い方も完全に間違いだとは言えないかもしれません。

 しかし、聖書が語る本物の「キリスト」というのは、“私たちが十字架にかからなくて良いようにしてくださるキリスト”ではなく、〈だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい〉と命じられる「キリスト」です。「わたしと一緒に苦しみなさい」とお命じになる「キリスト」です。この「キリスト」が分かるようにならなければ、私たちの目はいつまでも開かれず、ぼんやりしたままです。

 誤解していただきたくないのですが、私がここで言おうとしていることは、「盛岡みなみ教会には苦しみがまだまだ足りない」とか、「もっとイエス様のために苦しまなければいかんぞ!」ということではありません。私が申し上げたいことは、「この19年間、イエス様とともに苦しんだ苦しみを忘れてはいけない」ということです。私たち盛岡みなみ教会は、これまでも、これからも、“イエス様と苦しみを分かち合う教会”だということを、覚えておきたいからです。楽しいことばかりを思い出して、苦しいことは忘れてしまうのだとしたら、教会は間違った方向に進むからです。

 そして、それと同時に覚えていたいことは、“イエス様の苦しみを分かち合う教会”というのは、“互いの苦しみを分かち合う教会”でもあるということです。私たちが今抱えている苦しみも、私たちがこれから抱えることになる苦しみも、決して一人で苦しむことにはならないし、そうなってもいけない、ということです。「自分の十字架を負う」ということは、「誰かの苦しみを負う」ということでもあるからです。イエス様が私たちの苦しみを負ってくださったように、私たちもイエス様の苦しみを負い、また互いの苦しみを負う。これこそが、真の「キリスト」に従う教会の姿であるはずだからです。

 最後に、一つの聖書箇所をお読みして、今日の説教を閉じたいと思います。ガラテヤ人への手紙6章2節。


6:2互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。

 お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。もしかすると、私たちがイエス様を信じたのは、苦しみから解放してほしかったからかもしれません。苦しみたくなくて、苦しみを無くしてほしくて、イエス様を信じたのかもしれません。しかし、あなたが私たちの目を開いてくださったので、今は分かります。だれかと一緒に苦しむことのできる恵みが、今は分かるような気がします。神様、私たち盛岡みなみ教会が、これまで苦しんできた苦しみを、そしてこれから苦しんでゆくであろう苦しみを、あなたがともに苦しんでくださることを、心から感謝いたします。20年目を迎える私たちの歩みが、苦しみのない一年ではなくて、ひとりで苦しむ人のいない一年となりますように。互いの重荷を負い合うことによって、「互いに愛し合いなさい」というキリストの律法を成就する、そのような幸いな教会とならせてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。