マルコ13:14-23「山へ逃げなさい」(宣愛師)

2024年6月2日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』13章14-23節


13:14『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。
15 屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。
16 畑にいる人は、上着を取りに戻ってはいけません。
17 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。
18 このことが冬に起こらないように祈りなさい。
19 それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。
20 もし主が、その日数を少なくしてくださらなかったら、一人も救われないでしょう。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。

21 そのときに、だれかが、『ご覧なさい。ここにキリストがいる』とか、『あそこにいる』とか言っても、信じてはいけません。
22 偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。
23 あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。



「荒らす忌まわしいもの」:異教の偶像?

 「もう何年も教会に通っているけれど、洗礼を受ける気にはなれないんです。」ある人がそのように、正直な気持ちを話してくれました。その人が洗礼を受けない理由はいくつかあるらしいのですが、大きな理由の一つは、「もし迫害を受けるようなことがあったら、自分は信仰を捨ててしまうと思うから」とのことでした。「でも、死んだ後のこともやっぱり心配だから、できれば死ぬ直前に洗礼を受けたい」とも言いました。「死ぬ直前に洗礼を受けたいだなんて、ちょっと自分勝手じゃないの?」とか、「ご都合主義じゃないの?」と批判することもできるかもしれませんが、私はむしろ、信仰について真面目に考えているからこそ出てくる真摯な言葉だと思いました。

 もし教会への迫害が始まったら、信仰を守り通せる自信がない。こういう不安は、私を含め、すでに洗礼を受けているキリスト者たちも少なからず持っている不安だと思います。たしかに、イエス様を信じて生きる人生には、苦しみはつきものです。イエス様への信仰を守り通すために、苦しく辛い状況に耐えなければならない。たしかに、洗礼を受けるということは、そのような覚悟をすることでもあります。しかし、その逆のこともあるんです。イエス様への信仰を守り通し、イエス様のみことばに従ったことによって、一時的には苦しむことになったけれど、結果的には大きな苦しみから逃れることができた、ということもあるんです。イエス様は私たちに、「耐え忍びなさい」 と命じることもあります。しかしその逆に、「逃げなさい」 と命じてくださることもある。

 マルコの福音書13章の14節から16節をお読みします。


13:14『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。
15 屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。
16畑にいる人は、上着を取りに戻ってはいけません

 「荒らす忌まわしいもの」とは一体何でしょうか。「読者はよく理解せよ」とは一体どういうことなのでしょうか。「荒らす忌まわしいもの」という言葉は、旧約聖書のダニエル書に登場するキーワードです。ダニエル書11章31節も併せてお読みします。


11:31 彼〔神に逆らう異教徒の王〕の軍隊は立ち上がり、砦である〔エルサレム神殿の〕聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える。

 ダニエル書のこの預言は、イエス様の時代よりも前に、少なくとも一度は成就したと言えます。紀元前167年頃、アンティオコス・エピファネスというシリアの支配者がエルサレムを侵略して、エルサレム神殿の中にまで侵入し、そこでギリシャの神であるゼウスのための祭壇を据え、ゼウスへささげ物をささげてしまう、という事件が起こりました。それはまさに、「聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える」というダニエルの預言の成就でした。

 そう考えると、マルコ13章14節でイエス様が言われた「荒らす忌まわしいもの」というのも、アンティオコスの事件と同じように、神殿の中で偶像礼拝が行われることを指しているのだろうと普通は思うでしょう。アンティオコスのような外国の支配者が再びエルサレムを攻めてきて、神殿の中に異教の偶像を置いてしまう、それがイエス様が預言した「荒らす忌まわしいもの」のことなのだろうと、普通は考えるわけです。しかし実は、そんなに単純な話ではないんです。そんなに単純な話なのだとしたら、「読者はよく理解せよ」という一言は必要なかったはずです。

 イエス様が予告した「荒らす忌まわしいもの」とは一体何なのか。可能性があるのは三つです。一つ目の可能性は、ローマ皇帝ガイウスによる偶像設置事件です。イエス様が「荒らす忌まわしいもの」について予告したのが紀元30年頃のことでしたが、それから約10年が経った紀元40年に、カリグラという名前でも有名ですが、ガイウスというローマ皇帝が、「俺様の彫像をエルサレム神殿に設置しろ」という勝手な命令を下しました。ガイウスは自らを神として人々に崇めさせていましたが、エルサレム神殿でも同じように、自分を神として礼拝させようとしたんです。しかし、ユダヤ人たちの激しい反対もあり、最終的にガイウスの命令は実行されませんでした。ですからこの時はまだ、「荒らす忌まわしいもの」に関するイエス様の預言は成就しなかったと言えます。

 二つ目の可能性は、ローマ軍によるエルサレム神殿侵入です。イエス様の予告から約40年後の紀元70年に、ローマ軍がエルサレムに侵入し、エルサレム神殿の中にも入っていきました。ローマの兵士たちは、自分たちの守護神である鷲の絵が描かれた旗を持ち込み、神殿の中でその旗に生贄をささげました。たしかにこの事件も、「『荒らす忌まわしいもの』が立ってはならない所に立つ」という預言の成就だと言えるかもしれません。しかし、もしイエス様が予告していたのがこの事件のことだとすれば、ローマ軍がエルサレム神殿に侵入した時にはエルサレムの町はすでに壊滅していたので、その時点で「山へ逃げなさい」というのは遅すぎることになります。

 それでは、「荒らす忌まわしいもの」とは一体何を指していたのでしょうか。第三の可能性は、「熱心党」による神殿占拠事件です。エルサレムがローマ軍によって滅ぼされるよりも少し前、紀元68年頃に、熱心党と呼ばれるユダヤ人集団がエルサレムに現れて、エルサレム神殿を力づくで占拠する、という事件が起こりました。しかも熱心党の人々は、神殿を占拠してしまうだけでは飽き足らず、自分たちが勝手に決めた方法で、神殿の大祭司を勝手に任命する、ということまでしてしまいました。その光景を見ていた穏健派のユダヤ人たちは、神殿に対するこの冒涜に怒り、あまりの悔しさに涙を流したと記録されています。そしてそこから、熱心党と穏健派との悲惨な殺し合いが始まっていきました。

 ユダヤ人たちはそれまで、聖なる神殿が異教徒によって汚されてしまわないようにと、必死になって神殿を守り続けて来ました。しかし最終的に、その神殿を取り返しがつかないほどに汚してしまったのは、彼らが気をつけ続けてきた異教徒ではなく、ユダヤ人自身でした。イエス様が預言した「荒らす忌まわしいもの」は、異教の神々を信じる外国人たちや、異教の偶像のことではなく、むしろ、真の神を熱心に信じているはずのユダヤ人たち自身だったんです。

 私たちキリスト者は、キリスト教以外の宗教とどこまで関わっていいのだろうか、ということについて悩むことがあります。仏式の葬儀でお線香を上げるのはOKなのだろうか。ご遺体の前で頭を下げるのはどうだろうか。手を合わせるのはどうだろうか。もしくは、職場に行けば神棚が置いてある。実家に帰れば仏壇が置いてある。自分はキリスト者として、それらとどのような距離感を保てばよいのだろうか。そういうものに近づくことによって、何か自分のキリスト教信仰が汚れてしまうのではないかと心配をする人もいるかもしれません。

 しかし、そうやって他の宗教を避けていれば、信仰は汚されずに済む、ということなのでしょうか。仏式の葬儀とか、実家に飾られている神棚とか、そういうことが本当の問題なのでしょうか。むしろ私たちが本当に気をつけなければならないのは、私たち自身の中にすでにあるもの、私たち自身の中から出てくるものなのではないでしょうか。外側を気にして、「キリスト教的にはここまでならセーフだ」「いや、ここからはアウトだ」と心配するけれども、本当の問題は内側にあるのかもしれません。マルコの福音書7章20節から23節で、イエス様は次のように言いました。


7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。
21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、
22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、
23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」

 もちろん、他の宗教との関わり方について、気をつけなければならないことはあります。外側のことも大切です。統一教会のような宗教に対して、しっかりと線を引くこと、伊勢神宮や靖国神社のように戦争を正当化するような宗教に対して、批判すべき時には批判するということも大切です。他宗教との関わりは、キリスト者としてよくよく考えなければならない問題だと思います。

 しかし、それと同時に私たちが覚えておかなければならないことは、「荒らす忌まわしいもの」は私たちの内側にいるのかもしれない、いや、私たち自身が「荒らす忌まわしいもの」なのかもしれない、ということです。私たち自身の罪が、私たちの信仰を汚しているのかもしれない、ということです。そのような意味で、「読者はよく理解せよ」という言葉は、外側ばかりを気にする私たちに対する皮肉や警告として読むことができるのではないかと思うんです。


「山へ逃げなさい」:エルサレムを捨てて

 マルコ13章に戻って、17節から20節をお読みします。


17 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。
18 このことが冬に起こらないように祈りなさい。
19 それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。
20 もし主が、その日数を少なくしてくださらなかったら、一人も救われないでしょう。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。

 「荒らす忌まわしいもの」が現れる。ついに、エルサレムが滅ぼされる時が来る。「山へ逃げなさい」というイエス様の命令を実行に移す時が近づいている。「荒らす忌まわしいもの」が神殿を汚した時から、エルサレムでは想像を絶するような苦難が始まりました。「熱心党」と穏健派との殺し合いが始まり、エルサレムは地獄のような場所となりました。ローマ軍はまだ到着していなかったのに、すでにエルサレムは内側から滅び始めていたんです。

 いよいよローマ軍が到着してエルサレムを取り囲むと、今度はエルサレムで食糧不足が始まりました。食べ物が手に入らず、餓えて野垂れ死ぬ人々が出てきました。人々は、食べてはならないものまで食べるようになりました。ヨセフスという歴史家が残した記録によれば、自分が産んだ赤ちゃんを食べてしまう母親たちもいたようです。極限状態でした。ローマ軍はただ、都の外側を取り囲んで、エルサレムが自滅するのを待っていました。

 神の都であるはずのエルサレムで内部分裂が始まり、殺し合いが始まり、飢餓が始まり、エルサレムが地上の地獄となってしまった時、イエス様を信じる人々は何をしていたのでしょうか。エルサレム教会の人々はどこでどうしていたのでしょうか。初代教会の歴史を書き残したエウセビオス(260頃-339頃)という人は、次のように記録しています。


……エルサレムの教会の人びとは、〔ローマとの〕戦争前に、啓示を介してその地の敬虔な人びとに与えられたある託宣[おそらくマルコ13章14節の預言]によって、都[エルサレム]を離れペレアのペラという町に住むように命じられた。そこで、キリストを信ずる人びとはエルサレムからそこに移り住んだが、……神の審判がユダヤに臨み、不敬虔な者の世代を人びとの間から完全に断ったのである。

エウセビオス『教会史』Ⅲ巻Ⅴ章3節、秦剛平訳。文中の〔甲括弧〕は秦により、[角括弧]は佐藤による。

 エルサレム教会の人々は、イエス様のみことばを信じて、エルサレムを脱出していました。彼らはイエス様のみことばを思い出して、エルサレムを捨てて逃げるという決断をしていました。「『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら……ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。」イエス様の予告から、すでに40年近くの時が経っていましたが、エルサレム教会の人々はイエス様のみことばをずっとずっと覚えていて、そして、ついにその時が来たと確信して、実行に移したんです。

 当時のユダヤ人たちの考えでは、「ユダヤで戦争が起こった時には、エルサレムの中へ逃げろ」というのが常識でした。「この世界で一番安全な場所はエルサレムだ。神の都であるエルサレムが滅ぼされることはない。エルサレムが外国人に滅ぼされるようなことはない」と、ユダヤ人たちは本気で信じていました。ユダヤ人は皆、エルサレムこそ安全だと信じて、エルサレムの中へ逃げました。それが当時の常識でした。しかし、イエス様を信じるユダヤ人たちは、そのような人々の常識ではなく、イエス様のみことばを信じて、エルサレムの外へ逃げていきました。

 マルコ13章21節から23節をお読みします。


21 そのときに、だれかが、『ご覧なさい。ここにキリストがいる』とか、『あそこにいる』とか言っても、信じてはいけません。
22 偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。
23 あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。

 エルサレムが滅ぼされる直前、多くの「偽キリストたち」や「偽預言者たち」が現れました。彼らは、「おれについてこい。そうすれば、あのローマ軍を滅ぼすところを見せてやろう」とか、「おれと一緒にエルサレムに行こう。そうすれば、神がおれたちを救い出してくださる」などと言って、多くの人々を惑わしました。彼らの言う事を信じて、多くのユダヤ人たちがエルサレムに逃げ込みました。そして、エルサレムとともに滅んでいきました。

 私たちにもそれぞれの“エルサレム”があるのではないかと思います。ピンチの時に逃げ込む場所があるのではないかと思います。ここにいれば大丈夫。ここに逃げ込めば安全だ。ある人にとっては、それはインターネットやSNSかもしれません。ある人にとっては、依存性の強い何かかもしれません。私たちには逃げ場が必要です。逃げ場がなければやってられないほど苦しい現実があります。しかし、私たちが最後に逃げ込むべき場所はそこだろうか。いつまでもここにとどまっていていいのだろうか。立ち止まって考えることも必要でしょう。安全な逃げ場だと思っていたものが、最終的には自分自身を滅ぼすものとなっていく、ということもあり得るでしょう。

 ある人にとっては、“努力”という逃げ場もあるかもしれません。自分の能力の低さをバカにされた。辛かった。傷ついた。「だから、たくさん努力して、成長して、自分をバカにしたあいつらを見返してやろう」と意気込む。「あいつらよりも優れた人間になってやろう」と決心する。それもまた、私たちの逃げ場となり得るわけです。怒りや恨みのエネルギーによって、自分の能力を高めることにひたすら没頭する。そのようにして、傷つけられた自分の尊厳を取り戻そうとする。

 しかし、私たちがイエス様のみことばを信じるなら、そこで一歩立ち止まって、「イエス様はなんと言っていただろうか」と思い起こせるはずです。イエス様は「見返してやれ」なんて言われただろうか。バカにされたのは悔しい。でも、彼らと同じ土俵で戦い続けることは、果たしてイエス様の御心に適うことなのだろうか。むしろ自分は、能力の高さを競い合い、互いを見下し合うこの醜い争いから離れて、どこか別の場所へ逃げるべきなのではないだろうか。それは、単なる敗北ではないはずです。自分のプライドやこだわりを捨てて、争う必要のない争いから逃れる。苦しむ必要のない苦しみから解き放たれる。それは敗北ではなく、信仰の決断であるはずです。

 イエス様のみことばに従う人生は、ただ苦しむだけの人生ではありません。もちろん苦しみはあります。忍耐しなければならないこともあるでしょう。しかし、イエス様のみことばを第一として生きることを決めた人たちには、余計な苦しみから逃げるための勇気が与えられます。「このままここにいたら滅びてしまう」と気づくことのできる知恵が与えられます。「逃げてはいけない」「戦い続けなければならない」というプライドから解放されます。イエス様を信じて迫害されることは苦しい。でも、イエス様を信じずに、この解放感を知らずに生き続けるほうが、もっと苦しい人生なのではないかと、私は思います。「山へ逃げなさい。」このみことばに素直に従う人生は、余計なものに縛られない人生、勇気と自由に満ちた新しい人生です。そこには、何にも代えがたいほどの喜びが溢れているはずです。お祈りをいたします。


祈り

 「あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。」父なる神様。「人よりも優れていなければならない」とか、「やられたらやり返せ」とか、「努力して見返してやれ」などというメッセージが、この世界の至るところで語られています。偽預言者たちの言葉に、私たちも惑わされることがあります。逃げ込むべきではない場所に逃げ込みたくなる誘惑があります。どうか、イエス様のみことばに素直に従うことのできる柔らかい心を、私たちにお与えください。古い神殿を捨て去り、新しい町に進んでいく勇気を、私たちにお与えください。忍耐すべき時には忍耐し、逃げるべき時には逃げる。どのような時にも、みことばに聴いて行動することができるように、みことばを第一の指針として歩むことができるように、私たちを正しい道へとお導きください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。