ヨハネ4:31-38「目を上げて畑を見なさい」(まなか師)

2024年6月9日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』4章31-38節


4:31その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。
32ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」
33そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」
34イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。

35あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
36すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
37ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。
38わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」



 先週の日曜礼拝で、司式をしてくださったSさんが、牧会祈祷の初めに祈っておられた言葉が印象的でした。「田んぼを見渡すと、田植えもほぼ終わり、水が張られています。そのように私たちの心も潤してください」。ちょっと細かなニュアンスは違うかもしれませんが、このように祈ってくださいました。今日の説教題は、「田んぼを見なさい」……ではありませんが、「畑を見なさい」です。「目を上げて畑を見なさい」。このイエス様のみことばにご一緒に聞いてまいりましょう。

 ヨハネの福音書4章は、イエス様が、一人のサマリア人の女性に、井戸のそばで出会ってくださる場面を描いています。女性はイエス様と出会い、その驚きと感動を町の人々に伝えるために、水がめを置いたまま走っていきました。イエス様と出会った喜びに突き動かされるようにして、人々のところに行って、「来て、見てください」と叫びました。30節には、「そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た」とあります。

 今日の箇所は、彼女が人々を呼びに行っている間に、イエス様が弟子たちに話されたみことばです。


イエス様の 「食べ物」

 31節から34節を改めてお読みします。


31その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。
32ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」
33そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」
34イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。

 イエス様は言われます。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」。夜中にこっそり食べるカップラーメンほど美味いものはない、という人もいるかもしれません。イエス様にも、イエス様しか知らない、特別な食べ物があった。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」。

 イエス様を遣わされた方のみこころ、すなわち、父なる神の願いとは何でしょうか。それは、私たちがイエス様と出会うことです。私たちがイエス様と出会って、永遠のいのちを得ることです。

 イエス様は、おっしゃいました。父のみこころを行うことは、「わたしの食べ物」である。これは明らかに比喩ですが、食事をするとき、私たちは栄養を得ると同時に、満足や喜びを得ます。つまり、イエス様にとっては、人々の救いのために働くことが、何よりの喜びだとおっしゃっているわけです。

 イエス様に深い喜びを与えたのは、サマリアの女性がイエス様と出会い、信仰の一歩を踏み出したことでした。一人の人がイエス様と出会うところに、イエス様の根源的な喜びがあったんです。しかも、彼女の呼びかけによって、さらに多くの人々が、イエス様のもとにやって来つつある。さらに多くの人々がイエス様と出会い、人生が変わろうとしている。このイエス様との出会いは、いまを生きる私たち一人ひとりにも与えられています。私たち一人ひとりに出会うことを、私たち一人ひとりが生まれ変わって、新しい人生を歩んでいくことを、イエス様はどれほど喜んでくださっているでしょうか。この喜びを、イエス様はまるで食事をするかのように、噛み締め、味わっておられる。

 でもイエス様は、「君たちはわたしの食べ物を食べることはできないよ」と言いたかったわけではありません。「わたしは君たちとは違うんだ」「わたしには、わたしにしか味わえない喜びがあるからね」ともおっしゃいません。このイエス様の喜びを、一人の人の人生が新しく変わっていくために働くというこの喜びを、私たちにも分かち合ってくださる。


「蒔く者と刈る者がともに喜ぶため」

 続く35節から38節をお読みします。


35あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
36すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
37ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。
38わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」

 盛岡みなみ教会のこれまでを振り返ると、20年間で蒔かれてきた種がたくさんあります。大塚先生ご夫妻をはじめ、多くの方々が蒔いてこられた、福音の種があります。日本各地や海外からの宣教チームが蒔いてくださった種もあります。

 たくさんの種を蒔いてきたからこそ、実りが少ないと感じることがあるかもしれません。もっとたくさんの収穫を期待していたのに…と焦ってしまうことがあります。がっかりすることもあります。20周年記念誌の中でMさんが次のように書いておられました。「教会に来る人が増えていく一方で、来られなくなる方もおられました。……もし、これらの方々がみんな今も教会に集っていたとしたら、今頃会堂は毎週いっぱいの人で、手狭に感じるようになっていたかもしれません。」本当に、そのとおりだなあと思います。

 イエス様は、「『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまこと」だ、とおっしゃいました。この言葉は、もともとはネガティブな意味でした。苦労して、骨を折って、懸命に種まきをしても、ほかの人が刈り入れをしてしまうことがある。まるで実りを横取りするかのように。

 けれどもイエス様は、この言葉をポジティブな意味に変えてしまいます。あえてネガティブな表現を引っ張ってきて、「でも実は、まことの喜びがそこにある」ということを、示そうとしておられる。

 たしかに、実りを見ることなく、種を蒔くことに徹する者もいます。旧約の預言者たちもそうでした。バプテスマのヨハネもそうでした。彼らが労苦した実りは、ほかの人たちが刈り入れました。私たちの労苦は、10年後、20年後、いや何百年も後の人たちが、刈り入れをすることもある。しかしそのとき、蒔く者は、「私が蒔いたものなのに、あの人に横取りされた」と文句を言うのではなく、刈る者とともに喜ぶというのです。

 反対に、ほかの方々が労苦した実りを、私たちが刈り入れるということもあります。みなみ教会には、ほかの教会で信仰をもって、いまはこの教会に集っているという方が何人もいらっしゃいます。それぞれ、神様の不思議な導きで、いまはみなみ教会に集うようになったわけですが、しかし、そのお一人おひとりの背後では、多くの方々が種まきをしてくださったんだなあということが、お話を聞いていると分かります。教会の牧師が、あるいは兄弟姉妹が、皆さんに福音を伝え、皆さんのために祈り、皆さんを導いてくださった。

 盛岡みなみ教会が蒔いてきた種も、私たちの知らないところで、すでに実っているのかもしれません。私たちには見えないところで、実を結んでいるのかもしれません。誰かがいまも収穫してくれているのかもしれません。たとえ私たちが自分の手で刈り入れないとしても、実りはたしかにある。

 教会以外のところでも、そのような種まきと収穫はあります。たとえば、キリスト教系の幼稚園で教わった「主の祈り」を、大人になってから思い出したことが、教会に行くきっかけになったという人もいます。学生時代の友人や、職場の同僚から、あるいは、すでに天に召された家族や親族の姿から、キリスト者の生き方を知った、という人もいるでしょう。もしかすると、いまはもう日本にいない宣教師の先生を通して、ともすれば、会ったこともないクリスチャンが書いた本を通して、イエス様と出会ったという人もいます。そうした方々によって蒔かれてきた福音の種が、やがて、神様の最善の時に、実を結ぶ。

 宣愛先生と私はまだ盛岡に来て数年ですが、これまであらゆる方々が蒔いてくださった種があることに、励まされます。もしその種が、目の前で実を結んだならば、私たちが喜んで刈り入れをさせていただくこともあるでしょう。

 イエス様は言われました。「ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです」。盛岡二年目の私にとって、実感が伴うみことばです。

 20周年記念誌に、「自分もこの教会の歴史に加えられていることに喜びを感じます」と記しました。それは、この教会の歴史に自分の存在が刻まれることがうれしい、という意味ではありません。そうではなくて、私もこの盛岡みなみ教会で、誰かが刈り入れるために種を蒔き、誰かの種蒔きの実りを刈り入れる、ということがあるわけです。その神様の大きな大きなご計画の中に、小さな自分も加えられている。そのことが、私にとって喜びなんです。

 私たちは、神様の大きなご計画の中で成し遂げられる、一人の人の救いを、イエス様と一緒に喜びたい。そして兄弟姉妹とも一緒に喜びたい。すでに天に帰った人たちも、一度も顔を合わせたことのない人たちも、イエス様とともに働く仲間たちです。イエス様を中心として、時間も超えて、場所も超えて、皆で喜ぶことができる。「ああ、あなたがあの種を蒔いてくれたんですか!」「もしかして、あなたが収穫してくれたんですか!」と互いに喜ぶことができる。「いえいえ、私は蒔いただけなんです」「そんなそんな、私は収穫しただけなんです、ありがとうございます」と、互いの働きを感謝し合うことができる。ここに、「蒔く者と刈る者がともに喜ぶ」光景があります。

 伝道というのは、種を蒔く者がいて、実りを刈り入れる者がいて、みんなで行う働きです。そして蒔く者も、刈り入れる者も、収穫の喜びの輪の中に加えられていく。もちろんその輪の中には、イエス様もおられます。イエス様こそ、ひたすら種を蒔いてくださったお方だからです。ヨハネの福音書12章24節で、イエス様はこう言われました。


12:24まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。

 「一粒の麦」とはイエス様のことです。種は死ななければ実を結ぶことがありません。一粒の麦が、地に落ちて死んだので、私たちはその豊かな実にあずかっているのです。イエス様がそのようにして種を蒔いてくださったからこそ、いや、ご自身が種となって死んでくださったからこそ、世界中で、永遠のいのちに至る実りが生まれている。イエス様の労苦の実りがある。

 私たちは、究極的には、イエス様の労苦の実りを収穫するだけでいいんです。イエス様が準備してくださった実りを、喜ぶだけでいい。この世界にはすでに、イエス様の十字架の愛という、最高の種が蒔かれている。

 本当であれば、収穫の喜びは、イエス様だけに味わう権利があります。イエス様だけが受けるべき報酬です。でもイエス様は、この喜びの中に私たちを加えてくださる。「いいからいいから、こっちに来て、あなたも一緒に喜んでよ」、そう言って招いてくださる。


「目を上げて畑を見なさい」

 最後に、ヨハネの4章に戻って、35節をもう一度お読みします。


35あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

 『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』という言葉は、当時のことわざや格言のようなものだったとも考えられています。当時の人々のお決まりの言葉、合言葉のようなものだったのかもしれません。もしかすると、これは想像ですが、人々は事あるごとにこの言葉を口ずさんで、「まあまあ、まだ四か月もあるさ、そんなに焦るなよ」とお互いに言い合っていたのかもしれません。

 実際のところ、このとき、麦畑がどこまで色づいていたかは分かりません。おそらく、黄金色の、たわわに実った麦畑が広がっていたわけではないと思います。それにも関わらず、イエス様は畑が「色づいて、刈り入れるばかり」だとおっしゃいました。

 イエス様がこの世界に注いでいるまなざしが、ここには表れています。どんなにイエス様を信じる人が少ないように見えても、私たち人間の目には実りが少ないように見えても、イエス様の目には、色づいた畑が映っている。どんなにまだ青々とした畑が広がっていようとも、あるいは不毛の地に思われるような場所にも、イエス様は情熱のまなざしを注いでいる。必ず実りはあると確信して、この世界をご覧になっている。

 私たち一人一人にも、同じイエス様のまなざしが注がれています。私たちは未熟で欠けだらけです。すぐにイエス様から離れてしまいます。にも関わらず、イエス様は私たちをあきらめない。私たちの足りなさを切り捨てない。むしろ、私たちのこれからを、これから結んでいく実を見ておられる。愛と忍耐をもって、私たちを見てくださる。

 もちろん未熟さや欠けを全く問題にしないわけではありません。時には私たちを訓練し、成長させようとしてくださいます。けれども、イエス様は、いまの私たちの未熟さも欠けも、すべてご存知の上で、とことん承知の上で、「目を上げて畑を見なさい」と言ってくださる。どんなに不毛の地に見えても、どんなに働き手が未熟でも、実りはある。実りはすでに約束されている。だから、自分ばかりを見つめていないで、自分の欠けや弱さを見つめてばかりいないで、さあ、目を上げてごらん。そう招いてくださっているんです。

 私たちは、自分自身に注がれているイエス様の愛のまなざしをもって、この世界を見ていかなければいけません。どんなに現実が厳しくても、そこに実りがある可能性に、目を開かれていかなければいけません。どんなに救いから遠そうな人でも、その人が救われる可能性に、目を向けなければいけません。なぜなら、最も救いから遠いところにいた、罪人の私にまで、イエス様の愛のまなざしが注がれたからです。いまもなお、愛と忍耐のまなざしが私に注がれているからです。

 教会でも、職場でも、家庭でも、学校でも、どこででも、刈り入れるばかりに色づいた畑を、イエス様は見ておられます。イエス様は、約束してくださいました。あなたが遣わされている場所にも、わたしの労苦の実りがあると。

 実りを刈り入れるまでには、忍耐が必要なこともあります。自分が蒔いたものを、自分の手では刈り入れないことのほうが多いかもしれない。私たちはつい下を向いてしまう。

 だからこそ、イエス様は私たちを招きます。「目を上げて畑を見なさい」。イエス様と同じまなざしを持てば、私たちの視界はどんなに広がるでしょうか。私たちの目にも、どんなに色づいた畑が見えてくるでしょうか。たとえ自分が刈り入れなくても、遣わされている畑で、職場で、家庭で、学校で、「刈り入れるばかりだ」というまなざしを持っていきたい。たとえ自分の手で収穫することはなくても、私たちの労苦は決して無駄にならない。神様のご計画の中で、必ずいつか実を結ぶ。だからこそ、目をしっかりと上げて、色づいている畑を見出していきましょう。刈り入れのときが来ることを信じていきましょう。蒔く者と刈る者がともに喜ぶ日が来ることを、待ち望んでいきましょう。

 そうは言っても、自分にはそんなまなざしは持てない。色づいている畑なんて、見えてこない。見えやしない。そんなふうに思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 でしたら、どうぞ祈ってください。通勤の車の中で、職場の休憩室で、学校のトイレで、家のリビングで、自分の部屋で、祈ってください。「あなたのまなざしを私にも与えてください」とひとこと祈ってみてください。祈ると、色づいた畑が見えてきます。祈ると、イエス様のまなざしが見えてきます。祈る人こそ、イエス様と心を一つにする「働き手」になっていきます。「イエス様、あなたには何が見えていますか。私にも同じものを見させてください」と祈ることが、私たちにはできます。お祈りをいたします。


祈り

 「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」父なる神様。私たちは、伝道の実りが見られないと、焦り、落胆し、あきらめそうになってしまいます。しかし私たちの主は、ご自分の労苦の実りを約束してくださいました。ですから、下を向きそうになる私たちの目を、どうぞ上へと向けてください。目を上げて、イエス様が見ておられる畑を、色づいた畑を、私たちも見ることができますように。あなたのまなざしを私たちにもお与えください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。