ヨハネ11:1-11「わたしは彼を起こしに行く」
2022年4月3日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの福音書』11章1-11節より
11:1さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
2このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
5イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
6しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
7それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
8弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」
9イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
10しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
11イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」
「何をしに盛岡へ行くのか?」
今年の1月、初めてみなみ教会に来た時、大塚先生から引き継ぎ資料をいただきました。みなみ教会に関するいろいろなことや、牧師としての心得など、大切なことがいくつも書かれた資料でした。その中でも特に印象的だったのは、「何をしに盛岡に行くのか?」という問いかけです。「伝道をしに行く?」「説教をしに行く?」「牧会をしに行く?」――いろいろな答えを、あれこれと考えてみました。しかし、大塚先生の答えはシンプルでした。「礼拝を献げに行く」。
ですから、みなみ教会での初めての説教では、「礼拝とは何か」ということについて、特に、「誰を礼拝するのか」ということについて、ご一緒に確認したいと思いました。私たちはそもそも、どのようなお方を礼拝しているのでしょうか。もちろん、「神を褒め称えるために礼拝をする」ということは分かるとしても、そもそもその「神」とは、どのようなお方なのでしょうか。私たちが褒め称える「神の栄光」とは、一体どのような「栄光」なのでしょうか。
また、日曜日の朝。普通なら家でゆっくりしたり、遊びに出かけたくなるようなこの時間に、どうして私たちは、わざわざ教会に集まったり、パソコンやスマホの前で礼拝しているのでしょうか。私たちが賛美する「神の栄光」は、そこまでするほどに特別なものなのでしょうか?
「神の栄光」とは何か?
1さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
2このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
マルタとマリアの切実な言葉です。「あなたが愛しておられる者が病気です。」しかし、マルタとマリアは、「だから、すぐに助けに来てください」とは、少なくともはっきりとは言いませんでした。なぜでしょうか。
それはおそらく、イエス様にとって、ベタニアという場所がどれほど危険な場所であるのかを、彼女たちがよく知っていたからでしょう。なぜならベタニアは、イエス様を殺そうとする人々が集まるユダヤ地方の町だったからです。しかもベタニアは、イエス様を殺そうとする人々の本拠地であるエルサレムのすぐそばにありました。つまり、ユダヤ地方に行くだけでも危険なことなのに、エルサレムのそばにあるベタニアに行くということは、イエス様にとって、死を覚悟することだったんです。それでも、イエス様は、次のように言われます。
4これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
「神の栄光」とは何でしょうか? 神の子イエス様は、どのようにして栄光をお受けになるのでしょうか? ラザロを復活させることによって、栄光をお受けになるのでしょうか? 「すごい!死んだ人を生き返らせるなんて素晴らしい!さすが神の子だ!」そういう種類の栄光をお受けになるということでしょうか? たしかに、そういう面もあるでしょう。
しかし実は、この「栄光」という言葉は、ヨハネの福音書では、「十字架」を指す言葉でもあるんです。つまり、「神の子が栄光を受ける」ということは、「ラザロを復活させることによって栄光を受ける」というだけではなく、むしろ、「ラザロを復活させるためにエルサレムに近づき、自分のいのちを犠牲にすることによって栄光を受ける」ということなんです。
この世界には、いろんな「栄光」があると思います。オリンピックの金メダルや、アカデミー賞のトロフィーなど、称賛されるにふさわしい様々な「栄光」があります。もちろん、スポーツも映画も、神様がお造りになった素晴らしいものですし、私たちの人生を明るく豊かにしてくれるものです。しかし、私たちが何より大切にし、褒め称えるのは、金色のメダルでも、きらびやかなトロフィーでもなく、十字架の上で死なれたイエス・キリストの「栄光」です。私たちに命を与えるために、自らの命を犠牲にしてくださった、尊い神の子の「栄光」です。
「それゆえ……二日とどまられた」?
5イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
6しかし[それゆえ]、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
6節の最初に「しかし」という言葉がありますが、実は、ギリシャ語の原文から直訳すると、「しかし」ではなく、「それゆえ」なんです。「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。それゆえ、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。」なぜイエス様は、ラザロをすぐに助けに行かず、二日もとどまられたのでしょうか? しかも、「愛しておられた。それゆえ、すぐに助けに行かなかった」とは、どういうことでしょうか?
大切なポイントは二つです。第一のポイントは、おそらくイエス様は、ラザロが完全に死んだと誰もが分かる時まで待ち、それによって、マルタたちの信仰を強くしようとされた、ということです。マルタやマリアは、「一刻も早く助けに来てほしい」と思っていたはずです。しかしイエス様は、ラザロが完全に死に、その体が臭くなり始めるような時まで、つまり、人間の力ではどうしようもないと誰もが認めざるを得ない、その時まで、あえて待たれた。
「そんなのはひどい!すぐ助けに行くべきだ!」と思われるかもしれません。しかし、そのようにしてイエス様は、マルタたちの信仰を強めようとされたのです。「わたしを信じる者は死んでも生きる」ということを確信させるために、あえて、すぐには助けに行かなかったのです。
普通は私たちは、今日の聖書箇所を、「イエス様がラザロにいのちを与えた話」として読むと思います。しかし、このときイエス様がいのちを与えようとしていたのは、実は、ラザロだけではないのです。イエス様は、ラザロにいのちを与えるというこの出来事によって、ラザロだけではなく、周りの人々にもいのちを与え、信仰を与え、「神の栄光」を示そうとしておられたのです。
なぜイエス様は、すぐに助けに行かなかったのか。第二のポイントは、おそらくイエス様は、父なる神の御心を求めて祈っておられた、ということです。先ほどもお話したように、イエス様にとってベタニアに行くということは、十字架で殺されに行くということです。ヨハネの福音書では、イエス様が十字架にかかる時のことを、「イエスの時」とか「わたしの時」と言います。イエス様はこれまで、2章4節や7章6節で、「わたしの時はまだ来ていません」と繰り返し仰っていました。「わたしの時はまだ来ていません。わたしが十字架にかかる時はまだ来ていません」と。
イエス様にとって、十字架という使命こそが、何よりも大切な使命でした。ですから、ラザロの病気の知らせを聞いても、「すぐに助けに行きたい」と思ったとしても、イエス様は、まずはその場所にとどまり、父なる神の御心を祈り求めた。
そして、二日後、ついにイエス様は、ベタニアに行くということ、つまり、十字架で殺されに行くということを、決断されたのです。「あなたの時が来た。今こそ行け」という父なる神の声を、祈りの中で聞いたのでしょう。
イエス様は、人間の言葉ではなく、神様の御心によって、すべての行動を決めておられました。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」というマルタたちの言葉や、「ラザロをすぐにでも助けに行きたい」という自分の願いによってではなく、神の栄光のために生きるというご自分の使命によって、イエス様はすべての行動を決めておられたのです。
人間の願いよりも、神の栄光を優先する。このようなイエス様の態度は、マルタやマリアからすれば、あまりにも冷たく思えたかもしれません。「私たちのことなんて本当はどうでもいいんじゃないか」と、彼女たちは戸惑ったかもしれません。
しかし、思い出してください。「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」ということを。そして、「それゆえ」すぐには助けに行かなかったのだ、ということを。イエス様は彼女たちを心から愛しておられた。それゆえ、だからこそ、彼女たちの信仰を強め、復活を確信させ、いのちを与えるために、すぐには助けに行かなかった。そして「それゆえ」、イエス様は、彼女たちの願いに答えることよりもまず、神の御心を祈り求めた。それは、十字架というご自分の使命を果たし、ラザロだけではなく、すべての人たちに、ご自分のいのちを与えるためでした。
「わがまま」なイエス様?
7それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
8弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」
「イエス様、嘘でしょ?」「あんな危険な場所にもう一度行くって、本気で言ってるんですか?」「今度こそ死にますよ。行かないで…!」弟子たちの心配はもっともなことでした。
しかしイエス様は、マルタたちの願いをすぐには聞かなかったのと同じ様に、弟子たちの願いも聞きません。驚くべきことにイエス様は、少なくとも今日の聖書箇所の中では、どの人間の言うことも聞いていないのです。誰の言葉にも動かされていないのです。誤解を恐れずに言えば、イエス様は「わがまま」なのです。しかしその「わがまま」は、マルタたちを戸惑わせ、不安にさせた「わがまま」であると同時に、弟子たちの反対を押し切ってでも、必ずラザロを救いに行く、そういう「わがまま」でした。この「わがまま」のおかげで、ラザロは、そして私たちは、イエス様のいのちを受け取るのです。
9イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
10しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
「昼間」というのは、二千年前の世界では、「働くことができる唯一の時間帯」のことです。つまり、「神の栄光のために、わたしは今、働かなければならないのだ」とイエス様は仰ったのです。「ラザロにいのちを与えるために、いや、すべての人にいのちを与えるために、わたしは今、働かなければならないのだ。ベタニアに行かなければならないのだ」と。こうなったらもう、イエス様を止められる人は誰もいません。愛する者を救うと決めたら、そしてそれが神の御心だと分かったら、どんなに危険な場所だったとしても、必ず来てくださる。だから、11節。
11イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」
「わたしは、彼を起こしに行く。」「わたしは、行く。」イエス様のこの「わがまま」こそ、私たちの希望です。あらゆる危険を冒してでも、あらゆる反対を押し切ってでも、神の御心のゆえに、そして私たちへの愛のゆえに、わたしたちのところに来てくださるお方。そして、文字通り、私たちのためにいのちを捨ててくださるお方。
「どうしてイエス様だけを礼拝するの?」
ある宣教師の方から聞いた話なのですが、一人の中学生から、こんな質問をされたそうです。「この世界にはいろいろな宗教があるのに、いろいろな神様がいるのに、どうしてイエス様だけを礼拝するの?」みなさんなら、どう答えるでしょうか。その宣教師は、次のように答えたそうです。「私のために死んでくれた神様は、イエス様以外にいないからだよ。」
私たちはそもそも、どのようなお方を礼拝しているのでしょうか? 私たちが礼拝をしている「神の栄光」とは一体、どのような「栄光」なのでしょうか? それは、愛する者たちを復活させるために、いのちの危険を冒してくださる神の「栄光」です。愛する者たちにいのちを与えるために、ベタニアに来てくださるお方の「栄光」です。そして、十字架にかかるために、エルサレムへ上ってくださるお方の「栄光」です。
この「栄光」よりも素晴らしい「栄光」が、イエス様の十字架よりも価値のある「栄光」が、もしどこか他の場所にあるのだとすれば、私たちは今すぐこの教会を出て、もしくはパソコンやスマホを片付けて、そっちに急いで行くべきでしょう。しかし、もしこんなにも愛と驚きに満ちた「栄光」が、他のどんな場所にも見つからないのだとすれば、私たちはこの方の前に集まり、立ち上がり、歌を歌い、この素晴らしい「栄光」を称えるために集まるべきです。他の神々にではなく、キリストの中にこそ、私たちの礼拝を受けるにふさわしい、まことの光が輝いているからです。
祈り
私たちの父なる神様。あなたのご栄光はなんと素晴らしいのでしょうか。この世界のどこにもあなたのご栄光にまさるものはありません。あらゆる危険を冒して、あらゆる反対を押し切って、私たちのすぐそばに来てくださり、自らのいのちを与えてくださる。そんなお方を、そんな神を、私たちは他に知りません。ですから主よ、私たちは今日も明日も明後日も、あなたの御名を崇めます。ラザロのために危険を冒し、私たちのために十字架にかかってくださったあなたのご栄光を心から崇めます。私たちの友なる主、イエス・キリストの御名によって、お祈りします。アーメン。