ルカ2:8-12「飼葉桶の王さま」

2022年12月18日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ルカの福音書』2章8-12節


8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」



差別されていた羊飼いたち

 ちょっと早いかもしれませんが、メリークリスマス!クリスマスおめでとうございます。今日は「みんなのクリスマス」なので、子どもたちにも分かりやすいメッセージを準備してきました。なので、「私」とか「僕」とか、言葉遣いがコロコロ変わるかもしれませんが、ご了承ください。

 それでは早速、子どもたちに質問です。みんなは、大人になったら何になりたいですか?大人になったらどんな仕事をしたいですか?

 じゃあ、みんなの中に、「羊飼いになりたい」って人はいませんか?「いやあ、羊飼いはちょっと嫌だなあ」って人はいますか?

 羊を飼うという仕事は、とっても素晴らしい仕事です。羊たちの毛はあたたかいセーターとか、マフラーとかにも使われています。羊飼いというのは、とっても大切なお仕事なんです。でもね、今から二千年前の時代、羊飼いたちは差別をされていたんです。周りの人たちからバカにされて、いじめられていたんです。どうして羊飼いたちは、差別をされていたんだと思う?

 それは、羊飼いたちの仕事が忙しくて、「安息日」っていう休みの日に休めなかったからです。他の人たちは、「安息日には絶対に休まなきゃいけない!仕事は絶対にしちゃいけない!安息日に仕事をする奴らはダメな奴らだ!罪人だ!」っていうルールを勝手に作ってたんだけど、羊飼いは毎日毎日、休まず羊たちのお世話をしないといけないし、羊たちにごはんを食べさせるために、遠くまでお出かけしないといけないから、仕事が休めない。羊飼いたちは、周りの人たちと同じルールが守れない。だから羊飼いたちはバカにされ、差別され、「罪人」と呼ばれていたんです。

 「じゃあ、自分が羊飼いだってことを隠して、バレないようにしていれば、バカにされないんじゃないの?」って思うかもしれない。「綺麗な服に着替えて、羊飼いだって分からないようにすればいいんじゃない?」って。でも、もし羊飼いたちが綺麗な服に着替えたとしても、臭いまでは隠せない。羊飼いの体にこびりついた動物の臭いは、そう簡単に落とせないんです。だから、羊飼いたちはどこに行ってもバカにされた。「うわ、羊飼いだぞ。汚い奴らだな。臭い奴らだな。さっさとあっちに行け!」っていじめられてた。

 そんな羊飼いたちのところに、天使が現れたんです。そして、「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」って言ったんです。これが、世界で最初のクリスマスでした。世界で最初のクリスマスは、みんなからバカにされていた羊飼いたちのためにやって来たんです。


家畜小屋の飼葉桶

 今度は子どもたちだけじゃなく、大人の方々にも質問してみたいと思います。間違えちゃってもいいので、良かったら手を挙げて答えてみてください。1つ目の質問です。クリスマスは何をお祝いする日でしょうか?そうですね、イエス様のお誕生をお祝いする日です。では、2つ目の質問。イエス様が生まれたのは、どんな場所だったでしょうか?はい、家畜小屋の飼葉桶の中です。

 それでは3つ目の質問です。イエス様が家畜小屋の飼葉桶の中に生まれたのは、何のためだったでしょうか?これは難しい質問かもしれません。どうしてイエス様は、立派な王さまの宮殿とか、綺麗で清潔な病院とかではなくて、動物たちのよだれだらけの汚い家畜小屋でお生まれになったのでしょうか?イエス様は神の子なのに、王さまなのに、どうして、何のために、そんな汚い場所を選んだのでしょうか?

 それは、羊飼いたちに会うためです。汚い羊飼いたちが、そのままの姿で会いに行けるようにするためです。もしイエス様が、立派な王さまの宮殿で生まれてたら、羊飼いたちはイエス様に会いに行けたでしょうか。もしイエス様が、綺麗で清潔な病院で生まれてたら、羊飼いたちはイエス様に会いに行けたでしょうか。

 「でも、家畜小屋だったら、僕たちでも会いに行ける。」羊飼いたちは嬉しかった。綺麗な服に着替える必要もない。動物の臭いを落とす必要もない。汚いままでいい、臭いままでいい。そのままの姿で、ボロボロの姿のままで、会いに行ける。それが、飼葉桶の王さまなんです。


飼葉桶と教会

 この間、盛岡大学短期大学部っていうところに行って、大学生のお兄さんやお姉さんたちに、クリスマスのお話をして来たんです。全部で50人くらいの学生たち。その人たちにこんな質問をしました。「教会に行ったことがありますか?」そうすると、一人か二人くらいの人は手を挙げたんだけど、残りの人は手を挙げない。ほとんどみんな、教会に行ったことがなかったみたい。

 そこで僕は、こんな話をしました。「みなさんは、教会というのは、綺麗な人が行く場所だと思っているかもしれません。綺麗な服を着ている人たちや、心の綺麗な人たちが行く場所だと思っているかもしれません。でも、それは全くの勘違いです。教会は、立派な宮殿のような場所でもないし、綺麗な病院のような場所でもありません。教会は、飼葉桶のような場所です。立派じゃない人や、心の汚い人たちや、罪を抱えている人たちが、イエス様に会いに行く場所なんです。」

 お話が終わったあと、お兄さんお姉さんが、小さな紙に感想を書いてくれました。どんな感想が書いてあったと思いますか?ある人は、こんなことを書いてくれました。「教会は心がキレイな人だけが行くと思っていました。」別の人はこう書いてくれました。「今まで、教会とはキレイな場所で、清い心の人たちが行く場所だと思っていましたが、それは違うのだと知りました。」また別の人はこう書いてくれました。「教会はきれいでおしゃれな人が行く所でなく、汚い心や姿を持った人こそが行く所であるということを学びました。」

 僕はこの感想を読んで、「ああ良かった。教会がどんな場所なのか分かってもらえて良かった」と思いました。ただ、「申し訳ないなあ」とも思いました。「教会は心がキレイな人だけが行く場所だ」って思わせてしまっていたのは、僕たちのせいかもしれないなあと思ったからです。僕たちクリスチャンも、本当はキレイな心なんて全然持っていなくて、汚い罪を抱えて生きているのに、まるでキレイな心を持っているかのように、本当の自分を隠しているから、「教会は心がキレイな人だけが行く場所だ」と勘違いさせてしまっていたのかもしれない、と思ったんです。

 もしかしたらみなさんの中には、「教会に行くときって、どんな服を着ればいいのかな」と迷ったことのある方がいるかもしれません。「やっぱりちょっと小綺麗な服じゃないとダメなのかな」と悩んだことがあるかもしれません。たしかに、イエス様に礼拝をおささげするわけですから、「なるべく良い服を着よう」と考えるのは間違いではありません。でも、「良い服じゃないとダメ」と考えるのは間違いです。だってイエス様は、家畜小屋に生まれてくださったんですから。

 また、もしかしたらみなさんの中には、「教会に行くときは、本当の自分は隠しておこう」とか、「教会に行くときは、自分のダメなところはバレないようにしておこう」と考えたことのある方もいるかもしれません。いや、教会じゃなくても、学校に行くときや、職場に行くときや、とにかく人前に出るときには、本当の自分は隠しておく。ダメな自分は隠しておく。だって、そうしないと誰にも受け入れてもらえないから。そうしないといじめられちゃうような世界だから。だから、本当の自分を隠しながら、何とか生き延びてきた。

 でも、もし私たちが、イエス様に会いに行くなら、家畜小屋にいる王さまに会いに行くなら、そんな小細工は必要ないんです。汚い自分をキレイに取り繕って隠す必要はないんです。だって、イエス様がいる家畜小屋は、もうすでに十分に汚いんですから。私たちの汚さなんて気にならないくらい汚いところに、イエス様は来てくださったんですから。だから、自分の汚さを気にする必要なんてない。本当の自分を隠す必要なんてない。飼葉桶の王さまは、あなたがそのままの姿で会いに来るのを、待っておられるんです。お祈りをします。


祈り

 神様。イエス様が生まれたのが、立派な場所でもなくて、綺麗な場所でもなくて、本当に良かったなあと思いました。汚い私たちのために、飼葉桶の中に来てくださったイエス様、ありがとうございます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。