イザヤ8:9-10「神の計画だけが成る」(宣愛師)

2023年12月3日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『イザヤ書』8章9-10節


9  諸国の民よ、打ち砕かれよ。 
遠く離れたすべての国々よ、耳を傾けよ。 
腰に帯をして、わななけ。 
腰に帯をして、わななけ。
10 はかりごとをめぐらせ。しかしそれは破られる。 
事を謀れ。しかしそれは成らない。 
神が私たちとともにおられるからだ。


「先生はいたけど、何もしてくれなかった」

 今年もいよいよ12月を迎えました。まだ少し気が早いですが、この2023年は皆さんにとってどんな一年だったでしょうか。とても楽しくて、幸せな一年だったでしょうか。それとも、何事も上手く行かない、散々な一年だったでしょうか。「今年の目標」みたいなものを、1月の初めに立てた方もいるかもしれません。その目標は達成できそうでしょうか。それとも、目標なんて立てている余裕もないくらい、目の前のことで一杯一杯の一年だったでしょうか。

 今日からアドベントが始まり、クリスマスの季節が始まっていますが、今日の聖書の御言葉は、あまりクリスマスっぽくない、少し物騒な聖書箇所に思えるかもしれません。しかし、実はこの御言葉には、クリスマスにおいて最も重要なキーワードが隠されています。それは、「神が私たちとともにおられる」というキーワードです。ヘブル語に戻せば、「インマヌエル」という言葉です。

 私は昔、ある男の子から、中学生の時にいじめられていた経験について聞いたことがあります。教室の中でいじめられ、悪口を言われ、バカにされ、無視をされる。私は質問しました。「先生は教室にいなかったの?」その男の子は答えました。「先生はいたけど、何もしてくれなかった。」

 「神が私たちとともにおられる」というのは、ただ私たちの近くに神様がいて、ピカピカ光っておられる、ということではありません。ただそこにおられるだけの神様なら、何の助けにもなりません。いじめがまさに起こっているその教室の中に、「先生はいたけど、何もしてくれなかった」と言われるような、そんな神様ではありません。インマヌエルの神様は、いじめを見逃したり、見て見ぬふりをしたり、「そんな問題が起こっていたなんて知りませんでした」と白を切るようなお方ではありません。イザヤ書のみことばを改めてお読みします。8章の9節と10節。


9  諸国の民よ、打ち砕かれよ。 
遠く離れたすべての国々よ、耳を傾けよ。 
腰に帯をして、わななけ。 
腰に帯をして、わななけ。
10 はかりごとをめぐらせ。しかしそれは破られる。 
事を謀れ。しかしそれは成らない。 
神が私たちとともにおられるからだ。

 諸国の民、全世界の国々が、「はかりごと」を企てている。計画を立てている。どのような計画でしょうか。神の都エルサレムを滅ぼそうという計画です。エルサレムを侵略し、攻め落とし、滅ぼしてしまおうとする計画です。諸国の民、いわば「いじめっ子たち」の、敵意に満ちた計画です。

 私たちの人生にも、敵が現れます。私たちに対して悪意を向け、私たちを攻撃し、私たちを落ち込ませようとする敵が現れます。その敵は、学校の同級生かもしれません。その敵は、職場の同僚であるかもしれません。その敵は、家族や親族の一人かもしれません。私たちを傷つけようと企む者たちです。「さあ、今日はどうやってあいつを苦しめてやろうか」と楽しんでいるような、そんな人たちが私たちの人生に現れる。

 私たちの敵は人間だけではありません。私たちを攻撃しようとする人間たちの背後には必ず、「悪魔の策略」(エペソ6章11節)があります。悪魔は、私たちを苦しめて、私たちを落ち込ませ、私たちから生きる気力を奪おうとします。「さあ、どうやってあいつの人生をめちゃめちゃにしてやろうか」「さあ、どうやってこの世界をボロボロにしてやろうか」と、悪魔は昔から計画を練り、それを実行に移しています。そして実際に、私たちの人生も、この世界も、悪魔の策略にまんまとはまり、傷付き、傷付け合い、見事にボロボロになっていきます。

 ところが、私たちの敵が、私たちを苦しめようとする計画を、どれだけ悪意たっぷりに企んだとしても、「それは破られる。」私たちの敵が、私たちを攻撃して、バカにして、いじめてやろうとするあらゆる計画を立てたとしても、「それは成らない。」その計画は実現しない。その計画は成功しない。「はかりごとをめぐらせ。しかしそれは破られる。事を謀れ。しかしそれは成らない。」私たちを滅ぼそうとする計画を、悪魔がどれだけ熱心に企てたとしても、そしてその計画が上手く進んでいるように見えたとしても、最後には必ず、その計画は失敗に終わるんです。なぜなら、「神が私たちとともにおられるから」です。ただそこにいるだけの神様ではなく、私たちをすべての敵から守ってくださる力強い正義の神様が、私たちを守ってくださるからです。


「自分みたいな人間は、きっと……」

 私たちを滅ぼそうとする計画を立てるのは、私たちの敵だけではありません。時には、自分が自分を苦しめ、自分が自分を滅ぼすような計画を立ててしまうこともあります。「もうお前の人生は終わりだ。もうお前なんか死んでしまったほうが良い。生きる資格なんてない」と、自分が自分に向かって、滅びを宣告してしまうんです。「自分みたいな人間は、きっとこれからもずっと、どうしようもない人生を歩んでいくんだろう」と決めつけるんです。「自分はもう、いつまでもずっと、暗い人生を歩んで行くんだ」と決めつけるんです。そして、あたかもそれが完全に確定した未来であるかのように信じ込み、その未来予想に従って生きていこうとしてしまうんです。

 しかし、「神が私たちとともにおられる」のだとすれば、どうでしょうか。自分自身がどれだけ熱心になって、自分自身を滅ぼそうとする計画を企てたとしても、「自分はもうダメだ」という未来予想を立てたとしても、「それは成らない」のです。私たちは、私たち自身の計画さえ実現させることができない。なぜなら、ただ神様のご計画だけが実現するからです。私たちがどれだけ絶望し、自分を諦め、自分を見捨ててしまって、「自分みたいな人間はきっと、こういう風にしか生きていけないんだ。こうやって暗い人生を歩んでいくんだ」と見切りをつけたとしても、それさえ「成らない」。

 マタイの福音書1章18節と19節をお読みします。


1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。

 ヨセフという人がいました。愛する女性としてマリアがいました。自分をこれから待っている未来を思い浮かべながら、色々な計画を立てていたでしょう。「家族や親戚に祝福してもらえるような、幸せな結婚式を準備しよう。そして、結婚式が無事に終わったら、頑張って用意した家で、マリアと一緒に楽しく生きていくんだ。マリアを苦労させないように、立派な夫になれるように、精一杯努力しよう。子どもを授かったら、父親として目一杯、大切に大切に育てよう。」

 ところが、自分の知らないところで、マリアが妊娠してしまった。当時の世界では、結婚前に妊娠をするということは、死刑になってしまうような重罪でした。幸せへと向かうはずだったヨセフの計画は、絶望的な状況の後始末をするだけの悲惨な計画へと変わってしまいました。「結婚式は中止だ。家族や親戚にはどうやって説明しようか。祝福してもらうどころか、あんな女を選んだお前も悪いとさえ言われるかもしれない。マリアのために用意した家はどうしようか。俺はあの家に、一人で住むことになるのだろうか。いや、今はひとまず、マリアが殺されてしまわないように、ひそかに離縁して逃してあげよう。そしてもう二度と、マリアとは会わないようにしよう。そうだ、これが一番だ。こうするしか、他に方法はない……。」これがヨセフの計画でした。絶望の中で、必死に考え抜いた計画でした。

 しかし、この計画さえも実現しなかったのです。20節から23節までをお読みします。


20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23 「見よ、処女が身ごもっている。 
そして男の子を産む。 
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 ヨセフの人生において、間違いなく最悪としか思えなかったあの日は、神様の偉大なご計画の中にあって、最も重要な日でした。マリアと離縁する必要はない。それどころか、ヨセフは救い主の父親となるんです。ヨセフの計画は実現しませんでした。幸せになるはずだったヨセフの計画は実現せず、そして絶望に向かうはずだったヨセフの第二の計画も実現しませんでした。ヨセフが考えた未来予想は、何一つ実現しなかったのです。ただ、神様の計画だけが成就しました。そしてそれは、ヨセフが考えたこともなかったような、人生最大の喜びとなりました。


しかし、神の計画だけが成る

 私たちは計画を立てます。未来予想を立てます。「こうやって幸せになろう」という計画もあれば、「こうやって不幸になるんだ」という諦めもあります。しかし、人間がどんなに真剣に計画を立てたとしても、最後にはただ神の計画だけが成る。これが私たちクリスチャンの信仰です。

 もちろん、計画を立てることが悪いというわけではありません。聖書の中にも、たとえば箴言21章5節には、「勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべて慌てる者は損失を招くだけだ」と戒められています。計画を立てずに慌てて何かをしようとすると、上手く行かないことが多いですから、きちんと計画を立てること自体は大切なことです。ただし、私たちがいつも覚えていたいのは、神様の計画は私たちの計画よりもはるかに大きく、そしてはるかに素晴らしいものだ、ということです。私たちが企てるどんな計画も、神様の大きな計画の中に組み込まれているということです。北海道の苫小牧で牧師をしておられる水草修治先生が、次のように書いておられます。


神学校で学んだことはいずれも意味あることでしたが、私にとって特に有意義だったのは「歴史」という意識でした。丸山忠孝校長から情熱に満ちた教会史の授業を三年間にわたって教えていただいたのです。……教会史においては、その当時成功に見えたことが後世から見ると失敗であったり、またその逆もしばしばあります。歴史を学ぶことによって、目先の「成功」「失敗」に振り回されず、真理のみことばを揺るぐことなく語り続けることが自分のなすべきことなのだという確信が深められました。丸山先生はそれを「みことば楽観主義」と呼ばれました。

水草修治『私は山に向かって目を上げる:信州南佐久における宣教と教会開拓』地引網出版、2023年、55頁

 私たち人間には目の前のことしか見えませんから、「成功」すれば有頂天になり、「失敗」すれば落ち込みます。しかし、神様の大きなご計画について思い巡らす時、私たちの目の前にある「成功」とか「失敗」というのは、本当に小さなもので、一時的なものに過ぎないことが分かります。私たちが「上手く行った!」と思ったことも、実はそうでなかったりする。その逆に、「大失敗をしちゃったなあ」と落ち込む時にも、神様がその失敗を良い方向に用いてくださることもある。私たちは計画を立てます。しかし、最終的に成就するのは、神様の計画だけです。このことを肝に銘じるなら、有頂天になりやすい私たちはもっと謙遜になりますし、絶望しやすい私たちはもっと楽観的になります。

 自分の思い通りにならないと、私たちはイライラします。「どうしよう、こんなはずじゃなかった」と焦ります。でも実は、自分の思い通りにならないということも、ありがたいことなんです。私たち人間の「思い通り」なんて、別に大したものじゃないからです。もっと素晴らしい計画を、楽しみに待ち望むことができるから。たとえ、私たちがその計画の全てを知らないとしても、それは私たちにとって最善のご計画です。

 失敗をすれば、「上手く行かなかった」と言って、私たちは落ち込みます。でも、本当に「上手く行かなかった」かどうかも、最終的には神様にしか分からないことです。神様だけが、失敗の先に何が起こるかを知っておられます。そして神様は、私たちがどんなに大きな失敗をしたとしても、どんなに恥ずかしい失敗をしたとしても、その失敗さえも、必ず良い方向に用いることができるお方です。だから私たちは、安心して失敗することができるんです。安心して挫折することができるんです。インマヌエルの神様が、今日も明日もいつまでも、私たちとともにいて、私たちのために最善のご計画を成し遂げてくださるからです。

 最後にもう一度、イザヤ書8章の御言葉をお読みします。


9  諸国の民よ、打ち砕かれよ。 
遠く離れたすべての国々よ、耳を傾けよ。 
腰に帯をして、わななけ。 
腰に帯をして、わななけ。
10 はかりごとをめぐらせ。しかしそれは破られる。 
事を謀れ。しかしそれは成らない。 
神が私たちとともにおられるからだ。

 ご一緒に祈りましょう。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちの敵が企てる計画、そして悪魔が企てる全ての策略は、最後には必ず打ち砕かれることを、感謝いたします。そして、私たち自身が私たち自身を諦めてしまうその暗く悲しい計画さえ、あなたが打ち砕いてくださることを感謝いたします。私たち人間が立てる、あらゆる計画は、あなたの偉大なご計画から見れば、ちっぽけなものです。私たちの「成功」や「失敗」も、あなたが導かれる歴史から見れば、一時的なものに過ぎません。ただあなたのご計画が成りますように。あなたの御心が成りますように。そしてどうか神様、あなたの大きな大きなご計画の中に、小さな私たちを覚えていてください。どうか神様、いつまでも私たちとともにいて、小さな私たちの人生を導いてください。私たちが願うようにではなく、あなたが願うように導いてください。インマヌエルの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。