創世記3:8-15「クリスマスツリーの物語」(宣愛師)

2023年12月10日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『創世記』3章8-15節


8 そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
9 神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」
11 主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
12 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
13 神である主は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」

14 神である主は蛇に言われた。 
「おまえは、このようなことをしたので、 
どんな家畜よりも、 
どんな野の生き物よりものろわれる。 
おまえは腹這いで動き回り、 
一生、ちりを食べることになる。
15  わたしは敵意を、おまえと女の間に、 
おまえの子孫と女の子孫の間に置く。 
彼はおまえの頭を打ち、 
おまえは彼のかかとを打つ。」



クリスマスツリーと 「善悪の知識の木」

 先週の日曜日の午後、クリスマスのために礼拝堂の飾り付けをしました。一つ一つの飾りが、クリスマスの喜びを教えてくれています。そしてなんと言っても、礼拝堂の角に飾ってあるクリスマスツリーを見ると、やっぱり嬉しい気持ちになります。子どもも大人も一緒になって、今年もあのツリーを組み立て、色々なオーナメントを飾り付けました。

 キリスト教を信じていない人でも、家の中にクリスマスツリーを飾る人は少なくありません。盛岡みなみ教会の近くにはイオンがありますが、やはりそこにも素敵なクリスマスツリーが飾られていました。しかし、クリスマスツリーの元々の意味を知っている人は、それほど多くないかもしれません。私たちクリスチャンも、意味がよく分からないままで飾っているかもしれません。

 もちろん、クリスマスツリーには夏も冬も葉っぱが枯れない常緑樹が使われるので、枯れることのない“永遠の命”を象徴しているということなら、知っている人は多いかもしれません。また、クリスマスツリーのてっぺんに飾られている星が、イエス様が生まれたことを示すベツレヘムの星だということも、よく知られているかもしれません。しかし、このクリスマスツリーそのものがどのような物語を表しているのか。そしてクリスマスツリーに飾られているあの赤色の丸い飾りは何を表しているのか。このことまで知っている人は、それほど多くないように思います。

 ここでクイズです。「12月24日」は、何の日でしょうか? 「そりゃ、12月24日はクリスマスイヴに決まってる」と思うかもしれません。もちろんそれも間違っていないのですが、実は、キリスト教会の長い伝統の中では、12月24日というのは、「アダムとエバを記念する日」なんです。特にドイツの教会では、12月24日が近づくと、礼拝堂に色々な飾り付けをして、アダムとエバの物語を劇のように演じたのだそうです。文字の読めない大人たちや子どもたちにも分かりやすく教えるために、礼拝堂の中に色々な小道具を置いて、アダムとエバの物語を演劇風に上演したそうです。

 その時、礼拝堂の玄関に置かれた小道具が、このツリーだったんです。このツリーは何を意味していたと思いますか? 意外かもしれませんが、この木は、アダムとエバの物語に登場する「善悪の知識の木」を象徴していたんです。ドイツの教会では、善悪の知識の木の実はリンゴの実だと考えられていました。だからあのツリーには、最初は本物のリンゴが飾られ、後には赤くて丸いオーナメントが飾られた。つまり、このツリーは元々は、クリスマスのためのツリーではなく、「善悪の知識の木」を象徴するためのツリーとして教会で使われ、後になってから、クリスマスのツリーとして飾られるようになっていったということです。

 もしもあのツリーが、単にクリスマスの飾りというだけでなく、もしくは永遠の命の象徴だというだけでもなく、元々は「善悪の知識の木」を象徴していたのだとすれば、私たちはあのツリーから、どんなメッセージを受け取ることができるのでしょうか。今日は、クリスマスツリーが私たちに語っている三つのことについて、聖書のみことばからお話ししたいと思います。


ツリーが語ること①:「食べてはならない、とわたしが命じた木」

 クリスマスツリーが私たちに語っていることの一つ目。それは、神様を信頼しない私たちの、“不信仰の罪”です。創世記3章の8節から11節をお読みします。


8 そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
9 神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」
11 主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」

 アダムとエバは、「食べてはならない」と神様に命じられていた、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。「食べてはならない」と言われていたのに、「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と神様から言われていたのに、蛇の誘惑に負けて食べてしまったんです。

 「善悪の知識」とは、一体どういう知識か。これについては色々な説がありまして、私もどの説が正しいのか悩むところなんですが、簡単に言えば「善悪の知識」とは、「何が自分にとって良いもので、何が自分にとって悪いものなのかを、人間が自分で判断する知識」だと言えると思います。私たち人間にとって何が良いことで何が悪いことなのかは、神様が知っていればそれでいい。全て神様におゆだねしていれば、人間は悩まなくてもいい。「あなたたちは知らなくても大丈夫なんだよ。わたしが一番良いものを必ず与えてあげるから、安心してわたしに任せなさい。」

 しかし人間は、「いや、ダメだ。神様に任せてはおけない」と考えて、善悪の知識の木に手を伸ばしたのです。「神様に任せておいたら、悪いことになってしまうかもしれない。神様に任せるより、自分で決めたほうがいい。自分で計画したほうがいい。」そうやって人間は、神様に信頼する生き方を捨てて、自分自身を神とする生き方を選んだのです。

 「神様に任せておくなんて不安だ。自分も神様のようになりたい。」これこそが、人間が最初に犯した罪であり、そしてアダムとエバだけではない、ここにいる私たち全員に受け継がれている罪です。だから私たちは、いつも漠然とした不安を抱えて生きているのです。必ず神様が一番良いものを与えてくださるということを信じなくなったので、いつも不安なのです。明日のことが心配なのです。先行きが不安なのです。最善を与える神を神として信頼しない、不信仰の罪のせいです。

 取り返しの付かない罪を犯したアダムとエバでした。しかし神様は彼らに対して、「あなたはどこにいるのか」と尋ねてくださいました。「食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」と質問してくださいました。ごめんなさいと謝るチャンスを作ってくださったんです。「はい、私たちはここにいます。私たちは罪を犯してしまいました。申し訳ありません」と正直に罪を告白し、もう一度神様と仲直りするチャンスを作ってくださったんです。「神様を疑ったりしてごめんなさい。自分が神様になろうとしてごめんなさい」と謝罪し、もういちど神様を信頼して、エデンの園で神様と一緒に生きていけるように、悔い改めのチャンスを作ってくださったんです。エデンの園の「園」というのは、ギリシャ語では「パラダイス」という言葉です。憐れみ深い神様は、愛するアダムとエバと一緒に、これからもずっとパラダイスで一緒に生きていたかったのです。

 ところが人間は、決して謝ろうとはしませんでした。


ツリーが語ること②:「あなたが与えてくださったこの女が」

 クリスマスツリーが私たちに語っている二つ目のこと。それは、私たち人間の“責任転嫁の罪”です。12節と13節をお読みします。


12 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
13 神である主は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」

 「私は罪を犯してしまいました」と正直に謝るべきだった人間は、「ごめんなさい」と謝るどころかむしろ、自分の罪を誰かになすりつけようとしたのです。アダムは、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と言いました。エバに責任をなすりつけようとしたのです。「責任転嫁」という言葉に「嫁」という漢字が使われているのは、語源的には聖書とは無関係ですが、それでも、この時のアダムの言い分を見事に言い表しています。

 しかも、アダムのこの責任転嫁は、エバに対するものだけではありませんでした。アダムは、「あなたが与えてくださったこの女」と言ったのです。「あなたが与えてくださった」と言って、こともあろうに彼は、神様にも責任をなすりつけようとしたんです。「神様、あなたがこの女を与えたから、私は罪を犯してしまったんです。この女さえいなければ、いや、あなたがこの女を造らなければ、私は罪を犯さなかったはずです」と、まるで神様が悪いかのように、責任転嫁をする。

 もし私が神様だったなら、もう頭に来てしまって、「なんだその態度は!わたしのせいにするな!」と怒るだろうと思いますし、実際に神様にはその権利があると思います。しかし神様はここで怒り散らすようなことはなさらず、むしろアダムの言葉にしっかりと耳を傾け、そしてエバの言葉にも耳を傾けようとされるのです。本当に憐れみ深い神様だなあと思わされます。

 アダムの言い分を聞いた神様は、続けてエバに尋ねます。「あなたは何ということをしたのか」という言葉は、「どうしてあなたはこのことをしたのか」という問いかけとして訳すこともできます。神様は「何やってんだ!」と怒っているというよりも、「どうしてこんなことをしたの?」と理由を尋ねようとしているのかもしれません。これもまた、謝罪のチャンスを作ろうとする神様の憐れみだと思います。しかしエバは答えます。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」「ごめんなさい。私が悪いんです」ではなく、「蛇が私を惑わしたのです」と言ったんです。

 蛇は、悪魔の象徴だと言えるでしょう。たしかに人間は、悪魔の誘惑によって罪を犯します。先週の説教でもお話ししたように、「悪魔の策略」によって、人間は罪を犯し、互いに傷つけ合っています。しかし、だからといって、全てを悪魔のせいにして良いわけではありません。罪の責任は、罪を犯す私たち人間が自分で負うべきものです。もちろん、悪魔には悪魔の責任があります。人間を罪の中に陥れようとする悪魔には大きな刑罰が待っています。しかしそれは、私たちが自分の罪を悪魔のせいにしていいということにはなりません。

 アダムもエバも、自分の責任から逃げました。人のせいにし、蛇のせいにし、そして神様のせいにしました。私たちも、「神様が善悪の知識の木なんてものを造らなければ、アダムとエバは罪を犯すこともなかったのに!」などと言って、神様に責任を負わせようとするかもしれません。しかし、考えてみてください。福島県で原子力発電所の事故が起きて、放射線物質が広がったせいで、その周りには人が住めなくなってしまった。だからといって、「放射線物質を造った神様が悪い」とか、「そもそも原子という物質を作った神様が悪い」ということになるでしょうか。そうはならないはずです。なぜなら、放射線自体は悪いものではないからです。私たちが病院で使うレントゲンにだって、放射線が有効に活用されています。神様はこの世界のすべてを美しく、正しく、良いものとして造られました。その使い方を人間が間違ってしまうと、悪い方向に進むのです。

 罪の責任を人のせいにし、悪魔のせいにし、神様のせいにする。それでは、人のせいにはせず、悪魔のせいにもせず、神様のせいにもせず、ただ自分のせいにすれば、自分で責任を全て背負えば、それが一番だということになるでしょうか。自分が全て責任を負えば、それで解決するのでしょうか。時に私たちは、罪を犯した自分を責めます。「そうだ、私が全て悪いんだ。私があんなことをしたから、こんな大変な状況になっているんだ。自分がなんとかするしかない。自分が解決するしかない。そして、こんな自分は幸せになる資格なんてない。生きる資格なんてない。」そう言って、全ての責任を自分に向けようとします。全ての責任を背負おうとします。

 このような生き方は、自分の罪を誰かのせいにしてしまうよりは、よほど正しい生き方に見えるかもしれません。自分一人で、自分の罪の責任を負う。それは立派な生き方に見えるかもしれません。しかし、私たち人間がどんなに自分を責めても、全ての責任を自分で背負おうとしても、最後には背負いきれずに潰れてしまいます。罪というのは、そんなに甘いものではないからです。私たち人間ががんばって背負い切れるようなものではないからです。自分一人で自分の罪を背負おうとする生き方は、立派な生き方に見えて、実は罪の責任を軽く見ている生き方です。罪の責任を背負い切るなんてことは不可能です。神様が望んでおられるのは、そのような生き方ではありません。神様は、私たちの罪の責任を全て私たちに背負わせようと思ってはおられないのです。


ツリーが語ること③:「父よ、彼らをお赦しください」

 クリスマスツリーが私たちに語ってくれる三つ目のこと。それは、私たちには“もう一つの木”が必要だ、ということです。14節と15節をお読みします。


14 神である主は蛇に言われた。 
「おまえは、このようなことをしたので、 
どんな家畜よりも、
どんな野の生き物よりものろわれる。 
おまえは腹這いで動き回り、
一生、ちりを食べることになる。
15  わたしは敵意を、おまえと女の間に、 
おまえの子孫と女の子孫の間に置く。 
彼はおまえの頭を打ち、
おまえは彼のかかとを打つ。」

 「女の子孫」と呼ばれる者が現れる。そして、蛇の子孫を打ち砕いてくださる。「女の子孫」と呼ばれるお方が、悪魔の力を打ち砕き、私たち人間を罪の支配から救い出してくださる。私たちの悲惨な現状に救いを与えてくださる。罪の責任をなすりつけ合う、もしくは自分ひとりで抱え込もうとして潰れてしまう、そんな私たち人間に救いを与えてくださる。「女の子孫」とは一体誰でしょうか。そしてこの「女の子孫」は、どのようにして蛇の頭を打つのでしょうか。

 ルカの福音書、23章32節から34節をお読みします。


32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。
33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

 私たち人間は、罪の責任をなすりつけ合います。私は悪くない。あの人が悪いんだ。私は悪くない。悪魔が悪いんだ。私は悪くない。神様が悪いんだ。そうやって、負の連鎖が続きます。誰も自分の罪の責任を背負おうとはとしない。仮に自分で背負おうとしても、背負いきれずに潰されてしまう。これが私たち人間が置かれている悲惨な状況です。どうしようもないのです。

 しかし、この悲惨な負の連鎖を食い止めるために、「女の子孫」と呼ばれた方が、十字架にかかってくださった。ご自身はたった一つの罪さえ犯しておられなかったのに、私たち人類の全ての罪を背負ってくださった。そしてただ、「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくださった。イエス様は、何も悪いことをしなかったのに、誰にもその責任を押し付けようとはしなかったのです。この十字架において、罪をなすりつけ合い続けてきた人間の不幸は終わりました。この十字架において、自分で自分の罪をどれほど責めても責めても解決することのできなかった、その苦しい罪の連鎖が終わりました。イエス様は、十字架の上でなされた「赦し」という御業によって、私たち人間にはどうすることもできなかった罪の連鎖を終わらせてくださったのです。

 同じくルカの福音書の23章、39節から43節もお読みします。


39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

 二人の犯罪人がいました。一人目の犯罪人は、全ての責任を負ってくださったイエス様に対し、さらに責任を負わせようとしました。「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」。自分の罪を棚に上げ、死ぬ直前まで、すべてをイエス様のせいにしようとしたのです。この人は、責任転嫁の負の連鎖に閉じ込められていました。罪の連鎖から逃れられませんでした。

 しかし、もう一人の犯罪人は違いました。この人は、自分の罪を自分の罪として真摯に受け止めた上で、その罪をイエス様が負ってくださったことを信じたのです。「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない」という言葉によって、この二人目の犯罪人は、罪の連鎖から逃れられる唯一の道に進もうとしていたのです。そしてこの人は、イエス様に赦しを求めたのです。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」

 クリスマスツリーを目にするとき、そしてそこに飾られている赤色の果実を目にするとき、私たちは自分の罪を思い起こします。神様を疑い、一番良いものを与えてくださる神様の愛を疑い、自らが神になろうとして、「善悪の知識」を求めた、その不信仰の罪を思い起こします。今もなお私たちは、神様を信頼できないが故に、漠然とした不安を抱え、明日のことを心配して絶望し続ける。あの赤色の果実を目にするとき、私たちの悲惨な罪の現実を思い出さずにはいられません。

 しかし、その果実から目線を上げ、ツリーの上に輝く金色の星に目を向けるとき、私たちは、私たちの罪を背負うためにこの世界に来てくださった救い主がいることを思い起こすのです。“もう一つの木”の上でなされた、赦しの御業を思い起こすのです。私が一人では背負い切れなかった罪の重荷を、誰のせいにもせず、私のせいにもせず、ただ一人で引き受けてくださった。そして、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と、救いを宣言してくださった。この救いによって、私たちはもう一度、神様を信頼し、神様と一緒に安心して生きることができたあのパラダイス、あのエデンの園に帰ることができるのです。これこそが、クリスマスツリーが私たちに語っている救い主のメッセージ、聖書が語るクリスマスの福音です。ご一緒に祈りましょう。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちの中には、あなたを信頼せずに一人で生きようとする罪があり、自分の罪を人になすりつけようとする愚かさがあり、かと言って、自分で自分の罪を背負うこともできない弱さがあります。私たちが救われる道はただ一つ、イエス様による赦しだけです。イエス様に罪を赦していただくことだけです。イエス様、あなたの十字架を心から感謝します。私たちのところに来てくださったあなたの恵みを感謝いたします。どうか、私たちの罪をお赦しください。罪から解き放ってください。そして、あなたとともに生きる幸いを、クリスマスの本当の幸いを、今一度私たちにお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。