マルコ7:24-30「食卓の下の小犬」(宣愛師)
2023年4月16日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』7章24-30節
24 イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。
25 ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。
26 彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。
27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
28 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
29 そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
30 彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。
「母の手の届かないところで」
今日の聖書箇所は、マルコの福音書の中でも一番面白い箇所かもしれません。私たちはこれまでマルコの福音書を読み進めながら、色々なイエス様の姿を見てきました。悪霊の力に打ち勝つイエス様。どんな病気も癒すイエス様。サドカイ人やパリサイ人に議論をふっかけられても、必ずその議論に勝利するイエス様。何があっても絶対に負けない、最強で無敵のイエス様。そういうイエス様の姿をたくさん見てきました。
ところが今日の聖書箇所というのは、イエス様が初めて「負ける」場面なんです。あのイエス様が議論に負けた。しかも、名前も書かれていないような一人の女性に打ち負かされてしまった。まずは24節をお読みします。
24 イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。
どうしてイエス様は、〈ツロの地方へ行かれた〉のでしょうか? どうしてイエス様は、〈だれにも知られたくないと思っておられた〉のでしょうか? それはおそらく、ユダヤ人の権力者たちがイエス様の命を狙っていたからです。あまりにも有名になりすぎたイエス様を、パリサイ人たちやサドカイ人と呼ばれるユダヤ人の権力者たちが、抹殺しようとしていたからです。だからイエス様は、ユダヤ人があまりいない地方、ツロの地方へ行って、しばらく身を潜めようとされたんです。
しかしそれでも、〈隠れていることはできなかった。〉イエス様が隠れようとしても、身を潜めようとしても、人々はイエス様のもとに集まってくる。そしてその人々の中に、ある一人の女性が混ざっていました。25節と26節。
25 ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。
26 彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。
この女性は外国人でした。ユダヤ人ではない、ギリシア人、異邦人でした。ユダヤ人たちは、外国人と関わることを禁止していました。なぜならユダヤ人にとって外国人は「汚れた存在」だったからです。「汚れた神々を信じる汚れた人々」だったからです。しかもこの女性の幼い娘は、〈汚れた霊につかれていた。〉これほどまでにユダヤ人から忌み嫌われる人はなかなかいない。外国人というだけでも汚れているのに、しかも娘が汚れた霊に取り憑かれているなんて。
さらには、当時は女性というだけで公然と差別されるような時代です。ですから、「娘を助けてください」とお願い事をするような時は、普通なら母親ではなく父親が出て来るはずなんです。しかし、おそらくこの女性には夫がいなかったのでしょう。亡くなってしまったのか、離婚したのかは分かりませんが、とにかく片親で娘を育てていたのでしょう。
汚れた霊につかれた人は、どうなってしまうか。発作のようなものが起きて、突然暴れたりすることもある。自分で自分の身体を傷付けてしまうようなこともある。母親が話しかけようとしても、正気を失ってしまって話をするどころではない、そんな切なさもあったでしょう。この箇所について、ある説教者は次のように語りました。「母の手元にいながら、母の手の届かないところで苦しんでいる。」愛する我が子が目の前で苦しんでいるのに、何とかして助けてあげたいのに、話が通じない。心が通じない。家族にとって、親にとって、それがどれほど苦しいことか。
〈まず子どもたちを満腹に〉
こんな苦しみを抱えながら、「娘から悪霊を追い出してください」と必死に頼み込むその女性に対して、イエス様はなんとお答えになったのでしょうか。「かわいそうに。すぐに助けてあげよう」とお答えになったのでしょうか? 27節をお読みします。
27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
〈子どもたち〉というのは、ユダヤ人たちのことです。そして〈小犬〉というのは、外国人たちのことです。「わたしは、まずユダヤ人のために働かなければならない。外国人の順番はその次だから、今は助けられないよ。」どうしてイエス様は、そんな冷たいことを言ったんでしょうか? イエス様も結局は、パリサイ人たちと同じような人種差別主義者だったのでしょうか?
この聖書箇所を正しく理解するためには、「そもそもなぜ、イエス様はユダヤ人のために働いておられたのか?」ということを理解する必要があります。さらには、「そもそもなぜ、イエス様はユダヤ人としてお生まれになったのか?」ということや、「そもそもなぜ、神様はユダヤ人を特別な民としてお選びになったのか?」ということを理解する必要があります。
答えはシンプルです。「神様はユダヤ人を通して、全世界を祝福しようとしておられるから。」これが答えです。ユダヤ人を通して、全世界が祝福される。これは、旧約聖書の時代から続く、神様の偉大なご計画でした。ユダヤ人が選ばれたのは、ユダヤ人だけが幸せになるためではない。ユダヤ人が選ばれたのは、ユダヤ人が神様の教えを守って正しく生きることによって、周りの民族にも神様の祝福を広げていくためなんです。
ところが、肝心のユダヤ人たちは、神様の教えをちゃんと守っていたのでしょうか? いいえ、残念ながら彼らは、神様のご計画に逆らい、罪を犯し、堕落してしまっていました。全世界に祝福を届けるどころか、外国人たちを差別して見下したり、貧しい人々からお金を巻き上げたり、形だけの宗教で人々を騙したりしていたんです。肝心のユダヤ人がそんな状態では、神様のご計画はうまくいきません。まずユダヤ人たちが悔い改めなければ、まずユダヤ人たちが救い出されなければ、全世界の人々に祝福が広がっていかない。だからイエス様は、〈まず子どもたちを満腹にさせなければなりません〉と仰ったんです。
しかも、もしイエス様が今ここで、外国人の女性の願いを聞いてしまったらどうなるでしょうか? 外国人の女の子を救い出してしまったらどうなるでしょうか? 汚れた霊につかれていた女の子が突然元気になった。どうやらイエスという人が直したらしい。そんな噂が広まっていけば、ユダヤ人の権力者たちも必ずその噂を聞きつけるでしょう。権力者たちはますます怒り狂って、「あのイエスという奴は、汚れた外国人たちと仲良くしているらしい!そんな奴はユダヤ人として失格だ!今すぐに抹殺してしまえ!」と言って、イエス様を追いかけ回しに来るでしょう。
だからイエス様は、この時はまだ、外国人と関わるわけにはいかなかったんです。外国人のために働くわけにはいかなかったんです。あえて冷たく突き放すしかなかった。本当は助けたくても、「ごめんよ、今ここであなたを助けてしまったら、計画が危険に晒されてしまう。だからもう少し待ってくれ。そうすれば、娘さんを救うことができるから。」もしかすれば心の中でそんなことを思いながら、この女性を帰らせようとしたのかもしれません。
〈食卓の下の小犬でも〉
しかし、この女性はなんと答えたでしょうか? イエス様の言葉を聞き、あきらめて家に帰ったのでしょうか? 28節から30節までをお読みします。
28 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
29 そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
30 彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。
彼女は、「そうですか。わかりました」と言って諦めたりはしませんでした。「なんですって!?そんなのは差別じゃないですか!」と、イエス様に文句を言ったわけでもなかった。彼女は、自分が〈小犬〉に過ぎないことも受け入れますし、イエス様のご計画を否定することもしません。彼女はただ、冷たく聞こえるイエス様の言葉を、そのまま受け取ったんです。「はい、私にはあなたの救いを受ける資格がありません」ということを、素直に認めたんです。そして、そのことを認めた上で、〈食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます〉と食い下がった。
「主よ、パン屑だけでいいのです。」――彼女のこの言葉が、イエス様を動かしました。最初にも申し上げましたが、イエス様が議論に負けたのはこの時だけです。あらゆる議論に勝ってきたイエス様が、この女性には勝てなかった。〈そこまで言うのなら、家に帰りなさい。〉イエス様は、ご自分の計画を変更します。このタイミングで外国人の親子を助けることがどれだけ危険なことであるかは、イエス様が一番良く分かっていました。ご自分の命を危険に晒すことです。でも、それでもこの女性の言葉を聞いて、「助けないわけにはいかない」と思った。
今の時代は、権利を主張する時代です。「私たちにはこういうことをする権利がある!」とか、「私たちにはこれこれのサービスを受ける権利がある!」というような主張が至るところで繰り広げられている時代です。もちろん、そうやって権利を主張することは必要なことです。そういう活動によって差別が減るということもあります。正当な権利は、正当に主張されるべきです。
ただ、もしかすると私たちは、そういう「権利」というものに慣れてしまって、「人権」という考え方に慣れてしまって、神様に対しても同じようなことを主張してしまいがちかもしれません。「神様、いいですか? 私はあなたに救っていただく権利があります!あなたに恵みを与えてもらう権利があります!だから私を救いなさい!」と主張して、もし神様から返事がないと分かると、「ひどい!差別だ!人権問題だ!」と、心の中で神様を責め立てる。
私たちクリスチャンは、「信じる者は救われる」と教えられています。「信じる人には祝福が与えられる」と教えられています。だから、必死に信じて、お祈りをします。「神様、お願いします。信じますから、祝福をください」と祈る。そして、信じても聞かれないと、文句を言い始めるんです。「信じる人は祝福してもらえるって、教会で教わったのに! 聖書に書いてあるのに!」と。
そういう私たちは、一体何が間違っているんでしょうか?「信じる者は救われる」って書いてあるんだから、救われて当然だと思っちゃダメなんでしょうか? 「信じてるのに祈りが聞かれない」と言って神様を責める私たちは、何が間違っているのでしょうか。その間違いとは、「信仰」と「謙遜」がバラバラになっていることです。「謙遜」無しの「信仰」になってしまっていることです。
「こんなに信じてるのに、祝福をくれないなんて不平等だ!」これは、聖書が教える「信仰」ではありません。聖書が教える「信仰」とは、「謙遜」と結びついた「信仰」です。「自分みたいな罪人には、お祈りを聞いていただく資格もない」ということをちゃんと分かった上で、その上で、「それでも神様、パン屑をください」と祈る、そのような謙遜さに基づいた信仰です。
私たちは今一度、自分の「権利」というものについて、考え直したいと思うんです。この女性の姿勢に習いたいと思うんです。「私は小犬なんかじゃない!私にはパンをもらう権利がある!」と、神様に対して「権利」を主張してしまう、そんな思い違いを悔い改めたいと思うんです。
そしてそれと同時に、何の権利もないはずの私たちにも、惜しげなくパンを与えてくださった、ご自分の計画を変更し、ご自分の命を危険に晒してくださった、そのイエス様の深いあわれみを覚え直したいと思うんです。「自分は本当は、神様に対する権利なんてものは何もない。何も与えてもらえないとしても、何の文句も言えないはずの存在だ」ということをはっきり自覚した上で、「それでもイエス様は、私たちを見捨てるようなお方ではないはずだ」と信じる、謙遜さと結びついた信仰。この信仰を持つ人々を、イエス様がお見捨てになるはずはありません。お祈りします。
祈り
〈神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。〉(ヤコブ書 4章6節後半)
私たちの父なる神様。あなたがくださる様々な祝福に対して、「感謝して受け取ります」と言いながら、心の中では「信じているんだから当たり前だ」と思ってしまうような、そんな思い違いが私たちの中にあるのでしたら、悔い改めさせてください。「信じているのだから当然だ」という高慢な信仰ではなく、「自分は小犬に過ぎないけれど、イエス様は小犬を見捨てない」というへりくだった信仰を持つことができますように。主よ、小犬たちをあわれんでください。何の権利も資格もない私たちを、ただあわれんでください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。