ヨハネ3:22-30「私は衰えなければ」(まなか師)
2023年8月20日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』3章22-30節
22 その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
23 一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。
24 ヨハネは、まだ投獄されていなかった。
25 ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。
26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」
27 ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。
28『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。
29 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。
30 あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」
「衰え」に逆らうべき?
この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、礼拝をささげ、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の恵みがありますように。
「衰え」と聞くと、何を連想されるでしょうか。体力の衰え、筋力の衰え、視力の衰え、脳の衰え。年を重ねると「衰え」を感じることは増えますよね。かく言う私も、30歳ではあるものの、やはり衰えを感じます。ご年配の皆さんからは「何を言うか」と叱られてしまうかもしれませんが、でも、やはり10代や20代の頃とは違うなと感じるわけです。
「衰え」という言葉には、少し切なさが伴います。私の両親は70歳を超えているんですが、実家に帰って久しぶりに顔を合わせると、毎回「衰え」を感じます。前回より老けたなあ、衰えたなあ、なんだか小さくなったなあ、と、切なさを覚えるわけです。
「衰え」は、どちらかと言うと、私たちにとってネガティブなものです。できれば衰えたくないと願います。「衰え」ないために、日常的に運動をしよう、頭のトレーニングをしよう、身体によいものを食べよう。世の中にはそういう言葉があふれています。そうやって、私たちは「衰え」に逆らおうとします。でも、聖書がここで語っている「衰え」とは、私たちが逆らうべきものなのか。逆らうべきでないとしても、仕方なく受け入れるしかないものなのか。「衰え」ることを甘んじて受け入れなさい、と聖書は言っているのだろうか。今日は、「私は衰えなければ」と語るヨハネの言葉について、ご一緒に考えたいと思います。
「皆があの方のほうに行っています」
まずは22節から26節をお読みします。
22 その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
23 一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。
24 ヨハネは、まだ投獄されていなかった。
25 ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。
26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」
イエス様が、バプテスマ、つまり洗礼を人々に授けていたのと並行して、ヨハネも人々に洗礼を授けていました。むしろ、順番から言えば、ヨハネが先に洗礼を授ける活動を始めていました。イエス様はヨハネから洗礼を受けられたからです。
人々の目から見れば、イエス様はヨハネの後に出てきた、ヨハネの弟子のひとりでした。ところがイエス様は、ヨハネとは別のところで、洗礼を授ける働きを始められたんです。しかも、これまでヨハネのところに集まっていた人たちは、こぞってイエス様のところに集まるようになりました。
そんなときに、「ヨハネの弟子たちの何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした」とあります。「きよめ」とは、洗礼に深く関わるものです。私たちは罪を悔い改めて、心をきよめられ、新しい者とされたことの証しとして、洗礼を受けるからです。一方で、伝統的なユダヤ教では、きよめの儀式として水を浴びる、というしきたりがありました。ともすれば、毎日冷たい水を浴びて、自らをきよめなければならないと考える人たちもいました。もしかしたら、ヨハネの授けていた洗礼と、ユダヤ教のきよめのしきたりとの違いをめぐって、衝突が生まれたのでしょうか。いずれにせよ、「きよめ」について、ある人とヨハネの弟子たちの間で、議論が起こった。その議論の中で、「あるユダヤ人」が、イエス様のことを話題に出したのかもしれません。「君たちは、ヨハネが偉大な先生だと言うけれど、最近ではあのイエスという男も洗礼を授けるようになって、ずいぶん人気を集めているみたいじゃないか。君たちの先生より、あのイエスっていう男のほうが、優れているんじゃないか?」
そこで、ヨハネの弟子たちは、ヨハネのところに来て言いました。「先生、ご存知ですか。前にあなたと一緒にいたあの人が、なんと、自ら洗礼を授けるようになりましたよ。そしてみんながあの人のところに行っています。このまま放っておいていいんですか。やめさせなくていいんですか。黙っていていいんですか。もともとは先生が始めた活動なのに、あっちに横取りされていいんですか。」
「皆があの方のほうに行っています」という言葉は、明らかに誇張した表現です。そこには、弟子たちの「妬み」がありました。先にたくさんの人を集めていたのはこっちなのに、今や自分たちの先生の人気は落ちてきて、みんながあっちに行ってしまっている。切なさもあったかもしれません。焦りもあったかもしれません。どうにかしなければ、みんながどんどん先生から離れて、あの人について行ってしまう。
先々週の宣愛先生の説教では、「党派心」ということが語られました。マルコ9章で、弟子たちはイエス様に言いました。「あなたの名前を使って悪霊を追い出している人をやめさせようとしました!その人が私たちについて来なかったからです」。イエス様の弟子たちにも、ヨハネの弟子たちにも、また私たちの間にも、党派心というものがある。この党派心の裏にあるものをさらに深掘りするならば、「妬み」があるということを否定できないと思います。「妬み」というのは、全ての争いの根っこにあると言っても過言ではありません。私たち人間どうしの争いの根源には、必ずと言っていいほど、この妬みというものがある。
今回、この説教を準備する中で、面白い記事と出会いました。2018年に、日本の精神神経科の教授たちが、〈人が妬みを持つ感情〉と〈他人の不幸を喜ぶ感情〉に関する脳内のメカニズムを明らかにした、という記事です。その記事には、次のように書かれていました。
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構「妬みや他人の不幸を喜ぶ感情に関する脳内のメカニズムが明らかに」(2018年12月26日更新)
妬みは、他人が優れた物や特性を持っていることによる劣等感や敵対心を伴う心の痛みです。私達が物の評価をする場合、絶対的な価値よりも他の物との比較によって行うことが多く、私達の自己評価も自己に関係した特性や関心を持った人間との比較によってなされることが多いと思われます。自己にとって関連や関心の高い優れた物を他人が所有していると妬みが生じ、他人の優れたものを手に入れたいとか、他人が持っている優れた物を失えばいいのにと思うことがあります。しかしながら、他人が持っている物や特性が非常に優れていても自己にとって関連や関心のないものであれば、それほど妬みは生じません。
この記事ではさらに、妬みが生じる脳内のメカニズムについて説明がなされていきますが、今日はここまでにします。妬みとは、自分と人とを比べたときの、心の痛みである。そして、自分と関連のある優れたものを誰かが持っているときに、私たちは妬みを覚える。本当にそのとおりだなと思わされます。
人は、他者の悲しみにもらい泣きするが、もらい喜びはあまりしないと言われます。人の悲しみに同情することはできても、人の喜びを共有することは難しい。たとえば、同僚が自分を差し置いて、先に昇進していったら。友人が試験に合格して、自分は不合格だったら。人が評価を受け、ほめられるとき、幸せそうにしているとき、表には出さなくても、心の内側には妬みがある。反対に、自分よりも幸せそうだった友人に良くないことが起きたら、どこかうれしいと感じるかもしれない。
先週のある夜に夢を見ました。中高時代の友人が出てくる夢で、なぜその友人が夢に出てきたのか、特に心当たりはなかったのですが、その後、色々なことを思い巡らす中で、「妬み」というものに思い当たりました。説教を準備するために自分自身の「妬み」について考えていて、無意識に思い起こした出来事があったようです。
その友人は、地頭がよく、賢くて、しかも真面目で優しい人格者でした。私は少なくとも当時は、全く人格者ではありませんでしたし、彼女と競えるような頭の良さもなかったのですが、学校の勉強では、成績を算出する際の色々な事情もあって、私のほうが彼女を上回ることになってしまいました。その時点では、むしろ、実力が成績に見合っていないことに恥ずかしさを覚えました。私が彼女を上回る頭の良さなど持っていないことはみんな知っているのに、こんな成績が出てしまって恥ずかしいと思ったわけです。私にとって、彼女は同じ土俵に立っている存在ではなかったし、彼女に妬みを抱いているつもりもありませんでした。
ところが、高校を卒業して数年が経ってから、風の噂を聞きました。彼女は、大学で人間関係がうまくいっていない。先生たちに目をつけられ、クラスメートから妬まれ、大学に通えなくなって休学している、と。思ったことははっきり言う、まっすぐで素直な性格だったので、疎まれてしまうところがあったのかもしれません。そんな彼女の現状を聞いたとき、自分でも驚いたのですが、私自身、そのことを聞いて、どこか胸がすっきりする感じがしました。溜飲(りゅういん)が下がるとも言うのでしょうか。彼女の人生が今うまくいっていないと聞いて、どこか喜んでしまうような自分がいた。同じ土俵にいない存在だったのが、いつの間にか、手の届きそうな存在になったことで、自分でも気づかないうちに、妬みの対象になっていたのかもしれません。
自分と近しい存在に対して、妬みを抱きやすいのが人間です。教会の歴史を振り返っても、カトリックとプロテスタントの争いも、プロテスタント内部の争いもそうです。近い関係であればあるほど、敵対心を持ちます。遠い存在になってしまえば、妬みの対象にはならないんです。カトリックとプロテスタントが、それぞれの歩みを経て、いままた互いに協力できるんじゃないかという流れがあることも、その一例かもしれません。
人はなぜ、自分と近い存在に妬みを覚えるのか。それは、相手の優位性を崩さなければ、自分が下になってしまうからです。近くにいる相手の価値を低めなければ、自分の価値が見いだせなくなってしまうからです。人との比較の先には、必ず優越感か劣等感があります。劣等感があるから、優越感に浸りたい。優越感の裏側には必ず、劣等感がある。この劣等感から妬みが生じるんです。人間は、自分の劣等感を覆うために争うんです。自分の存在意義・アイデンティティを守るために争うわけです。ヨハネの弟子たちも、自分たちの存在が脅かされることを恐れて、近くで人気を集めているイエス様をこのまま放っておいていいのかと、ヨハネに訴えました。
「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」
しかし、そうやって自分で自分の価値を守らなくてよい。他者を低く見ることで自分を守ろうとしなくてよい、と聖書は語ります。27節と28節をお読みします。
27 ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。
28『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。
ヨハネは、妬みにとらわれている弟子たちに向かって言いました。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません」。ヨハネは、すべてのものは天から、つまり神からくると知っていました。人は神から受け取ったもの以外には、何も持っていないからです。言い換えるなら、すべてのことが神の主権の下にある、とヨハネは認めていました。自分自身が神の主権の下に置かれていることを知らない人、つまり、自分が何者であるかを知らない人は、傲慢になります。神を神とせず、自分が神になろうとするからです。
ヨハネとイエス様は親族で、ヨハネのほうが半年ほど早く生まれました。ヨハネは祭司の家系に生まれ、イエス様は大工の家に生まれました。そういう意味では、「自分のほうが年上だし、祭司の家庭で育った。イエスは大工の家庭で育ったくせに」という妬みをヨハネが持っていたとしても不思議ではありません。しかし彼は、決してそうは言いませんでした。「人々がキリストの方に行くのは、神がそうさせておられるからです。そして、そのキリストの前に私を遣わしたのも、神なのです」。ヨハネはそう言いました。すべてのことの背後には神の御手がある、神から一人ひとりに固有の価値と使命が与えられていると、ヨハネは知っていたわけです。
ヨハネが、自分はキリストの前に遣わされた者に過ぎないと語ったのは、これが初めてではありません。彼はすでに、この福音書の冒頭で「自分はキリストではない」と明言していましたし、「私の後に来られる方は、私にまさる方だ」とはっきり語っていました。ヨハネの証しを聞いて、それをさらに広く証しするべきだった弟子たちが、単なる勢力争いの視点しか持っていないというのは、なんとも残念なことでした。
私たちは本来、自分を誰かと比べる必要がありません。神様が一人ひとりに価値を見出してくださるからです。それぞれになすべきことを用意していてくださるからです。神様が与えてくださっている使命に生きるなら、それを他人と比べる必要はない。神様の使命に生きるなら、神様が喜んでくださる。最も喜んでほしいお方に、喜んでもらえる。そのお方の喜びを自分の喜びとすることができる。ヨハネも、自分の使命を果たせたことを喜びました。イエス様にしぶしぶ譲ったという我慢ではなく、自分の使命を果たすことができたという喜びです。「皆があの方のほうに行っています」という知らせは、彼が待ち望んでいたものでした。そのためにこそ、彼は遣わされたからです。
続く29節、30節をお読みします。
29 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。
30 あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」
ここで、ヨハネは自分を、花婿の友人にたとえています。当時もいまも、花婿に付き添う友人は、大切な役割を担います。日本ではあまり見かけませんが、海外では「ベストマン」といって、花婿に付き添って世話をする人が立てられます。多くの場合、花婿の親しい友人や親族から選ばれ、「ベストマン」に選ばれるのはとても光栄なことです。
この友人が、花婿の代わりに花嫁を迎えに行きます。花婿のもとに花嫁を連れてきます。花婿が、自分のもとに来た花嫁を見てこの上もなく喜ぶことは、想像に難くありません。その花婿の大きな喜び、喜びの声を聞いて、共に喜ぶのが「ベストマン」です。花婿のすぐそばに立ち、一番近くでその喜びの声を聞くからこそ、花婿の友人も喜びに満ちあふれる。
ここでの花婿はイエス様であり、花嫁は教会です。聖書の他の箇所でも、キリストと教会は花婿と花嫁にたとえられます。教会は、キリストの花嫁として、キリストと結び合わされている。イエス様を信じる者たちとイエス様との結びつきは、花婿と花嫁のように一つであり、互いを喜ぶ関係である。イエス様のもとに集まった人々が、イエス様の愛を喜んで受けている。その喜びの声が、ヨハネの耳にも聞こえてくる。
さらに、29節で「花婿の声を聞いて大いに喜びます」と訳されているところ、ギリシャ語を直訳すると、「喜びを喜ぶ」となっています。花婿の喜びを喜ぶ。それが友人の役割です。こうして喜びの輪が二重三重に広がっていく。
ここで「介添人」ではなく、「友人」という言葉が用いられていることも、忘れてはいけません。花婿は、最も信頼できる友人にそばに立ってもらう。友人は、妬みの心も忘れて、心を尽くして、友人である花婿のためにお世話をする。花婿が喜べば、友も喜ぶ。主役である花婿の喜びを喜ぶ。
しかも、花婿の喜びをただ一緒に喜ぶだけではとどまらない。「私もその喜びに満ちあふれている」とヨハネは言います。ここもギリシャ語から直訳するならば、「私の喜びは満たされた/完成した」となります。“友人自身”の喜びが満ちあふれています。“友人自身”が、完全な喜びを得ています。ヨハネは、イエス様の喜びを喜ぶことにとどまらず、自分の喜びとして大いに喜んでいる。「自分のことのように」喜ぶのではなく、もはや「自分の喜びとして」喜んでいる。彼自身の喜びが、彼を完全に満たしている。
30節でヨハネは言います。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」。直訳すると、「あの方は大きくなり、私は小さくならなければならない」です。私たちはこの箇所を読むと、「ああ、私も自分の栄光を求めるのではなく、イエス様の栄光を求めなければ」と考えます。たしかに、それは大切なことです。自分ではなくイエス様の栄光を求めて生きることは、クリスチャンの生き方の要です。イエス様の栄光だけを求めていれば、他の人のことなど気にならない。妬みを抱くこともない。それは真実でしょう。
けれども、それは簡単なことではない。「よし、自分の栄光を求めることをしないで、ただイエス様の栄光だけを求めていこう。自分と人とを比べることもしないで、ただイエス様だけがほめたたえられることを願おう」、そう決心しても、大抵うまくはいきません。そうすると私たちは、より禁欲的な方向へと向かいます。自分はもっと我慢しなければ。もっと「衰え」なければ。もっと自分に死ななければ。自分で自分を殺さなければ。その決心が自分には足りない。そんなふうに、この30節の「私は衰えなければ」というみことばを、神様からの戒めとして、裁きとして、受け取るんです。
たしかに私たちは、イエス様が与えてくださったいのちに生かされているわけですから、自分に死んでいるという面はあります。3章16節にあるように、イエス様のいのちをいただいて生きているわけですから、私のいのちではなく、イエス様のいのちに生きている。だから自分勝手に生きていいわけではない。
しかし、それは、私という存在が、消えてなくなるということではない。一人ひとりに与えられている個性や賜物や使命が無視されるということではない。もし、私たちが「衰えなければならない」という言葉を聞いて、自分を殺す努力を始めたとしたら、このみことばを正しく受け取れていません。
「あの方は盛んにならなければならない。私は衰えなければならない」。ここには二つの「ねばならない」があります。また、ヨハネ3章全体を振り返ると、7節に「あなたがたは新しく生まれなければならない」とありました。さらに14節には「人の子は上げられなければならない」、すなわち、イエス様は十字架の上に上げられなければならない、ともありました。これらの「ねばならない」は全て、人間の努力や意志で成し遂げられるものではありません。父なる神の意志によって、成し遂げられることです。神の決心と熱意によって、成し遂げられることです。人間の「ねばならない」ではなく、神の「ねばならない」です。
もちろん、神の意志だからと言って、私たちがすぐに受け入れられないことはたくさんあります。「主よ、どうしてですか」「どうして私がこのような目に遭うのですか」と叫びたくなるときがあります。神の意志だから、喜んで受け入れる。そうはできないのが私たちの現実です。
しかし、だからこそ、私たちはイエス様の姿を思い出す必要があります。イエス様が私たちに何をしてくださったか。イエス様が私のために何を成し遂げてくださったか。
イエス様こそ誰よりもまず「衰え」てくださった。私たちのために「衰え」てくださった。私たちを最も低いところから救い出すために、「衰え」てくださった。十字架にかかってくださった。
同じヨハネの福音書15章11節から14節をお読みします。
15:11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。
12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
ヨハネは、イエス様の友とされ、用いられました。私たち教会も、イエス様の友とされています。イエス様は、私たちを友とするために、いのちまで捨ててくださいました。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていない」とおっしゃったイエス様ご自身が、私たちを愛し、友と呼んでくださっている。そして友としての使命を与えてくださっている。
イエス様は、私たちが「盛ん」になるために「衰え」てくださった。じゃあ、イエス様のおかげで私たちは「盛ん」になって、「ああよかった、もう安心だ、イエス様ありがとう」、それで終わりにはならない。イエス様は「今度はあなたたちが、私と一緒に衰え、私と一緒に喜んでくれないか」と招いておられる。私たちは、このお方のそばに立ち、その御声を聞いて、共に苦しみ、共に喜ぶことができる。
だから教会は、イエス様が「衰え」てくださったように、「衰え」るのです。世の中で名声をとどろかせるわけではない。人間の目から見れば、教会もクリスチャンも、取るに足りない存在かもしれない。成功者ではないかもしれない。大した影響力を持たない、つまらない存在かもしれない。しかし、その「衰え」た姿こそが、イエス様を指し示す。
ヨハネもヘロデに首を切られ、無惨な死を遂げました。イエス様も同じように、この地上においては「衰え」てくださいました。十字架の上で、無惨な死を遂げるまでに、「衰え」てくださいました。
でも、イエス様は「衰え」たままでは終わらない。よみがえり、父なる神様の右の座について、いまもこの世界を治めておられる。その主権をもって、私たちにいのちを与え、この地で生きていく使命を与えてくださる。一人ひとり異なる使命と、その使命を果たすための賜物をきちんと備えてくださる。そして私たちの衰えゆく人生を導いてくださる。
私たちは、自分が「衰え」て歩んだ日々を、イエス様に喜んでいただけるんです。衰えゆくいのちを全うしたとき、「よくやった、よくあなたの使命を果たした」と喜んでいただける。イエス様が私たちのことを喜び、私たちもイエス様のことを喜ぶ。互いを喜び祝うことができる。
たしかに「衰え」ることは切ないことです。自分にはできないことが増えていく。自分自身を喜べることが減っていく。けれども、私たちの主は、私たちを友と呼んでくださり、私たちを喜んでくださった。だから私たちは、決して自分で自分のことを喜べないときにも、自分のことなど何一つ誇れないときにも、あるいは、これまで人生の喜びだと思っていたものがたとえ全部消え去ってしまったとしても、心から「喜べるなあ」と思えるものが何もなかったとしても、それでも、私たちの主の喜びを、イエス様の喜びを、自分の喜びとすることができる。それは、イエス様のそばに立って、イエス様の友として生きる生き方です。花婿の喜びで満たされ、花婿の喜びを自分の喜びとする、友人の生き方です。
イエス様は、私たちを友と呼んでくださり、私たちと共に、この世界で働いておられる。この働きに招かれている私たちなのですから、「あの方は盛んになり、私は衰えねばならない」と心の底から喜んで告白できる。ここに教会の姿があります。自分たちは小さく小さくなり、イエス様だけが大きくなることを受け入れるのが、真の教会です。だから私たちは、「衰え」ていく道をゆけばよい。安心して「衰え」てよい。そのように「衰え」て歩む小さな群れを、小さい者たちを、心から喜んでくださるお方がおられるからです。お祈りいたします。
祈り
父なる神様。ひとり子のイエス様を私たちに与えてくださり、感謝いたします。イエス様が私たちを友と呼んでくださったのは、なんと幸いなことでしょうか。花婿なるイエス様の喜びを私たちの喜びとし、イエス様の友として生きることができますように。イエス様が衰えてくださったからこそ、私たちも衰えて生きるよう招かれています。衰えて歩むこの小さな群れを、イエス様が友と呼び、心から喜んでくださることに感謝しつつ、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。