ヨハネ4:7-26「まことの礼拝」(まなか師)
2024年2月18日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』4章7-26節
7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
「あなたは本当のことを言いました」
この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。
私が前回説教をさせていただいたときには、4章1節から15節をお開きしました。と言っても、前回は11月だったので、もう皆さんの記憶にはあまり残っていないかもしれません。前回の内容を振り返りながら、共にみことばに聞いてまいりたいと思います。
イエス様は、一人のサマリア人の女性に、井戸のそばで出会ってくださいます。当時、公の場で男性から女性に話しかけることは珍しいことでしたし、それがユダヤ人とサマリア人であればなおさらでした。ユダヤ人とサマリア人は仲が悪かったからです。しかしイエス様は、この女性の魂が渇いていることを知っていて、この人に近づいてくださいました。
13節から15節をお読みします。
13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
イエス様がおっしゃっている「水」とは、御霊のことです。この御霊が与えられている者は、決して渇くことがない。けれども女性は、もう井戸に汲みにこなくてもよいように、その水をくださいと言います。こんな遠くの井戸までわざわざ来なくても、水が永遠に手に入るならば、そんなにありがたいことはない。渇くことのない水なんてものがあるなら、その水を下さい。イエス様と女性の会話は、同じ「水」のことを話しているようで、ずれている。
するとイエス様は言われます。16節。
16イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
意表を突くようなイエス様の言葉です。「水」について話していたはずなのに、どうして急に夫が出てくるのか。どうして急に話題を変えたのか。一体なんなの?彼女も面食らったでしょう。
しかし、実は話題が変わったわけではありませんでした。イエス様は彼女に、問いたかったんです。「あなたはこれまで、何によって自分の渇きを満たそうとしてきたのか?」
この女性には後ろめたいことがありました。結婚と離婚を5回も繰り返し、さらにはいま同棲している相手とは結婚していない。不道徳な女だとさげすまれても不思議ではありません。だからこそ彼女は、誰とも顔を合わせないで済むように、暑くて人が出歩かない昼間に、水を汲みにきたわけです。
そんな彼女に、イエス様はずばりとおっしゃいます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。
彼女は答えます。17節。
17……「私には夫がいません。」
しばらくの沈黙の後に、小さな声で口にしたのだろうと思います。おそるおそる、絞り出すように言った答えだろうと思います。イエス様と目を合わせて答えることはできなかったかもしれません。下を向きながら、これ以上は聞かないでほしい。これ以上は言いたくない。そんな思いだったのではないか。
けれども、彼女の言葉は正直でした。最小限の言葉ではあったけれども、真実な答えでした。夫がいると嘘をついたわけでもなく、夫を呼んでくるふりをして、このまま逃げてしまったわけでもない。「私には夫がいません」。これは彼女の精一杯の答えでした。
すると、イエス様は驚くべきことを口にします。17節の後半から18節。
17……「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
18あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
彼女はびっくりしたでしょう。なんということか。この人は私のことを知っている。しかも私が一番隠しておきたいことを、一番知られなくないことを知っている。
イエス様はご存知でした。彼女が孤独で、さみしくて、その満たされない思いを、男性によって満たそうとしてきたこと、それでも渇きが満たされることはなかったということを、イエス様はご存知でした。私たちは自分が渇いていると自覚することがあります。他のものや他の人でごまかしてきた渇きに、向き合わざるを得なくなるときがあります。イエス様が、あなたのその渇きに気付きなさいと迫ってくる。深いところで満たされる必要があるとおしえてくださる。
この女性も、イエス様の前で、どうしようもない自分の姿を認めざるを得ませんでした。みじめな自分を見出さざるを得ませんでした。自分は罪人だという自覚の始まりです。
イエス様はそんな彼女をとがめたりしません。見限ったりしません。「汚れた女よ、わたしから離れて行け」とはおっしゃいません。「あなたは本当のことを言いました」と受け止めてくださる。「よく言ってくれたね」「あなたの言ったことは真実だ」と受け止めてくださる。自分の人生をめちゃくちゃにしてきたのは、他の誰でもなく、自分自身なのだという真実な告白から、自分自身の罪を真実に認める告白から、私たちの信仰は始まるんです。
御霊と真理による礼拝
さらにイエス様と彼女の会話は続きます。19節から24節。
19彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
20私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
22救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
23しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
24神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
ユダヤ人とサマリア人は、長年の間、礼拝の場所をめぐって激しく対立していました。ユダヤ人はエルサレム神殿が礼拝の場所だと主張していましたが、サマリア人はゲリジム山こそが礼拝の場所だと信じていました。ゲリジム山は、アブラハムが最初に祭壇を築いた場所の近くです。山には神殿も建てられましたが、イエス様の時代より前に神殿は破壊され、すでに無くなっていました。それでもサマリア人はこの山を大事にし、そこで礼拝をささげ続けてきた。この女性は、イエス様に暗に問いかけたわけです。「私たちの先祖はゲリジム山で礼拝したけれども、あなたがたはエルサレムで礼拝すべきと言っている。どちらが正しいのでしょうか。私たちが間違っているのですか」。
ある人は、彼女が自分自身の問題に向き合うことを避け、話題を変えようとしたのだと言います。たしかに、唐突に礼拝のことが話題になっています。夫についての話からまだ逃げようとしていたのかもしれません。けれども私は、礼拝についての彼女の真剣な問いだったとも思います。ヤコブの井戸に水を汲みにくるたびに、ゲリジム山が見える。聖なる山が近くに見える。彼女自身は、身持ちが悪かったので、もしゲリジム山に神殿が残っていたとしても、そこに足を運ぶことはなかったかもしれません。でも、毎日山を見上げ続けてきた。神に思いを馳せてきた。
私の問題をずばりと言い当てたこの人であれば、ユダヤ人とサマリヤ人の問題にも解決策を見出してくれるのではないか。長年続く争いに決着をつけてくれるのではないか。イエス様にそう期待したのだと思います。彼女なりにイエス様に近づいていこうとしたのだと思います。
そんな彼女にイエス様は答えます。大事なのは、「どこで礼拝するか」でもなければ、「あなたがたの先祖、あなたがたの父たちがどうしていたか」でもない。大事なのは、「まことの父である神が何を求めておられるか」だ。そして父が求めておられるのは、「御霊と真理による礼拝」なんだよ、と。
「御霊と真理によって」とはどういうことでしょうか。別の翻訳では、「霊とまことによって」となっています。御霊と真理による礼拝。霊とまことによる礼拝。皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。
神秘的な特別な力を使って、神様に語りかける、神様とコミュニケーションをとるというようなことでしょうか。普通の人では手の届かないところにあるような、崇高な真理を悟るといったことでしょうか。
私のイメージでは、私たちの内なる思いを神様に集中させて、まごころを込めて礼拝をする、そんなイメージでした。モノを使って儀式をするのが大事なのではなくて、真剣に礼拝をすることが大事なんだ、というような意味合いです。あるいは、人の目を意識して正しいふるまいを目指すのではなくて、ただ神様だけを思って礼拝する、そんな意味合いです。いずれにせよ、私たちの外側を整えるのではなくて、内側を神様に向けて整える。そうして心からの礼拝をささげる。
たしかにそれも大事なことです。心を尽くして、心を込めて神様を礼拝しなさいということは、聖書が繰り返し教えていることです。けれども、心を尽くして礼拝しようとする私たちがもっと気にすべきなのは、私たちが尽くそうとしている心とは、いったいどのような心なのか、ということです。礼拝者として私たちが尽くすべき心とは、どんな心なのか。
詩篇51篇17節にはこうあります。
神へのいけにえは 砕かれた霊。
打たれ 砕かれた心。
神よ あなたはそれを蔑まれません。
神にささげるべき私たちの霊、私たちの心とは、熱く燃える霊や、ひたむきな心ではない。真剣な心や本気度が求められているわけでもない。求められているのは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心です。神様に打たれて粉々に砕かれた霊です。
サマリアの女性が「私には夫がいません」と言ったとき、イエス様はなんとお答えになったでしょうか。「あなたは本当のことを言いました」とおっしゃいました。ギリシャ語では、「本当の」という単語と、「真理」という単語は同じ語源です。本当のことを言う、真実なことを言う、それがイエス様に受け入れられる態度です。私たちの本当の姿、真実な姿とは、罪にまみれた姿です。みじめでどうしようもない、救いようもない姿です。しかし、その自分のみじめさを認めたとき、自分の罪を認めたとき、神様はそれを蔑まない。私たちはそのままの姿で神様に受け入れられるんです。本当の自分はこんななんです、隠しておきたい自分の姿はこんなに汚いんです。そうやって神様の前で自分を明らかにし、偽らないならば、「あなたは本当のことを言えたね」「よく言ってくれたね」と受け止めてくださる。
神様の前に出ようとすると、自分のあまりの罪深さに愕然とすることがあります。自信やプライドなどというものは砕かれて、後に残るのはうめくような苦しい心です。でも、その心こそ、神様が受け入れてくださる心です。
そしてさらに大切なことがあります。それは、私たちはどのようにして砕かれた霊をささげることができるか、ということです。
イエス様は23節で言われました。
23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
ヨハネの福音書で「時」は重要な言葉です。その「時」は、十字架と復活を指しているからです。イエス様の十字架と復活の時が今や来ようとしている。その「時」、エルサレムでもゲリジム山でもないところで、まことの礼拝がささげられるようになる。エルサレムでもゲリジム山でもささげられたことのない礼拝が、イエス・キリストによって可能になる。
さらにイエス様は24節で言われました。
24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。
この「しなければならない」は、これまでにヨハネの福音書で繰り返し出てきた、神の「ねばならない」です。人間の努力や意志ではなく、父なる神の意志によって、成し遂げられるものです。まことの礼拝は、神様が私たちに下さるものによって実現するのです。
御霊とは、私たちの内に与えられた御霊です。14節で、「その人の内で泉となる」とイエス様が言われた御霊です。この御霊は、場所にとらわれません。御霊は、私たちがみことばを理解できるよう助けてくださいます。御霊は、私たちが自分の罪に気づくよう促してくださいます。御霊は、私たちが自分の罪に苦しむとき、共にうめいてくださいます。サマリアの女性はこの御霊の働きによって、自分の渇きを知り、罪を自覚し始めました。この御霊と、私たちの砕かれた霊が共にあるとき、まことの礼拝への道が開かれていく。
また、真理とは、イエス・キリストです。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(14:6)と言われました。イエス様が、父なる神の御心に忠実に従い、十字架にまでかかってくださったからこそ、私たちの罪は赦されました。この真理は私たちを自由にします。罪の支配から解放します。他の何ものにも支配されないように、つくり変えてくださいます。サマリアの女性も、男性たちに拠り所を求め、男性たちから支配されるという関係性から、解放されていきます。私たちが「本当のこと」を言って罪を認め、真理に属する者となるとき、まことの礼拝への道が開かれていく。
だからこそ、御霊と真理が私たちには必要です。御霊と真理なしには、礼拝はささげられません。エルサレム神殿でも、ゲリジム山でも、神様が求めるまことの礼拝はささげられてこなかった。まことの礼拝をささげることは私たちにはできない。不可能なんです。本来私たちは神様の前に立ち得ない罪人だからです。
しかし、キリストが来られた今、どこであっても、主の前にひれ伏し、罪を悔い改め、砕かれた霊をささげることができる。そうやって主を礼拝することができる。ユダヤ人でもサマリア人でも、男性でも女性でも、どんなに後ろ暗い人生を送ってきた人でも、御霊と真理によって父を礼拝できる。その「時」の訪れを告げるのが、このサマリアの女性とイエス様との出会いだったわけです。聖霊と御子のゆえに、誰もが父を礼拝することのできる時代が始まろうとしていました。
まことの礼拝者
父なる神は、ご自分を礼拝する者を求めておられます。まことの礼拝者をたずね求めておられます。
私たち盛岡みなみ教会はどうでしょうか。砕かれた霊を神様にささげているでしょうか。御霊と真理による礼拝をささげているでしょうか。
日曜礼拝が始まるとき、前奏の前に、司式者のMさんがいつもおっしゃる言葉があります。「ただいまより、主イエス・キリストの御名により、主日礼拝を始めます。初めに前奏が鳴りますので、心を静め、心を天に向け、主をお迎えする備えをいたしましょう。」この言葉を初めて耳にしたときから、礼拝の初めにふさわしい、とても良い言葉だなと思っていました。その後にピアノの前奏が流れるわけですが、その短い前奏の間の時間を、皆さんはどのように過ごされているでしょうか。どうやって、主をお迎えする備えをしているでしょうか。
正直、私自身は、奉仕のことに気をとられて、あれこれと心の中は騒がしいまま、ということがよくあります。心を静め、心を天に向け、主をお迎えする備えをしていなかったなあ、と反省させられます。口を閉じていても、私たちの心のうちはざわざわとしたままかもしれません。どうやって礼拝に向けて心を整えればよいか、いまいち分からないなあという方も、おられるかもしれません。
ある先生の話を紹介します。海外で、有名な牧師の説教をなんとしても聴きたいと思い、楽しみにしながら、初めてその教会の礼拝に行ったそうです。席につくと、正面の大きな十字架の足元に、黒い布に包まれた何かが置かれているのが目に入りました。礼拝が始まる時間になると、その黒い塊がもぞもぞと動いて立ち上がりました。何と、それは牧師だったのです。その牧師は礼拝前に、十字架の前にうずくまって、悔い改めの祈りをささげていたわけです。(加藤常昭『自伝的説教論』キリスト新聞社、2009年、279-280頁)
想像してみると思わず笑ってしまうような光景ですが、しかし、ここに礼拝の本質があるように思います。
礼拝とは、究極的には、主の前にひれ伏して、「私はあなたのもの」と告白することです。私はあなた以外のものに支配されて生きてきました。このみじめな私にはあなたが必要なんです。自分では自分の罪をどうしようもできません。私を救ってください。私の持てるものすべて、私自身さえも、あなたのものです。あなたこそ私の主です。こう叫びながら、ただひれ伏すことこそ、礼拝です。
教会で、礼拝で、ボロボロの自分を隠す必要はありません。平気なふりをする必要はありません。どうしようもない自分のままで、教会に来て、礼拝をささげていいんです。立派なクリスチャンでいなくちゃ、教会にちゃんと貢献しなくちゃ、と力まなくていいんです。神様は、きれいにガチガチに塗り固められた霊よりも、粉々にボロボロに砕かれた霊を喜ばれるからです。
私が以前属していた教会では、礼拝の中で「罪の告白・赦しの宣言」というプログラムがありました。奏楽が流れている間、心の中で、過ぎた一週間を振り返り、自分が犯してきた罪を告白する。神様に隠していた思いを打ち明ける。そんな時間です。その後でみんなで声を合わせて、悔い改めの祈りを祈る。そして司式者によって罪の赦しが宣言される。
この時間は、とても大切なものでした。思い巡らす中で、先週、私が傷つけたあの人のことを思い出す。あるいは、口にこそ出さなかったけれども、口にするのもはばかられるような憎しみを抱いたことを思い出す。おくびにも出さずに過ごしていたけれども、神様にまで隠し通そうとしていた思いがあったことに気付かされる。そうして、私はなんてみじめな人間なんだと絶望する。
けれども、そこで終わりではないんです。隣には、共に声を合わせて悔い改めの祈りをささげる兄弟姉妹がいる。互いの心のうちにある罪を全て知っているわけではないけれども、それでも同じ心で悔い改めることのできる仲間がいる。そうしてみんなで悔い改めの祈りをささげ終わると、赦しの言葉が告げられるのです。
たしかに、毎週のように、同じような罪を犯しながら生きている私たちです。先週と何も変わらないじゃないかと思ってしまう。同じことの繰り返しで、さすがにもう赦してもらえないんじゃないかと思ってしまう。でも私たちは、何度でも砕かれた霊を携えて、主を礼拝したいと思います。神様が「よく本当のことを言ったね」と受け止めてくださるからです。「今日もあなたを赦すよ。そのためにイエスが十字架にかかったのだから、今日もあなたを赦すよ」と言ってくださるからです。今日も赦されている、その確信をもって、私たちは主を礼拝したいと思います。今日も赦されているからこそ、赦してくださる主をほめたたえたいと思います。
礼拝は、教会という建物に限定されてはいません。皆さんが平日を過ごす学校も、職場も、家庭も、すべてが礼拝の場所です。それぞれの場所で、「主よ」と語りかけるならば、主は答えてくださいます。「わたしがあなたの主だ。わたしに委ねなさい」。イエス様がサマリアの女性におっしゃったように、「このわたしがキリストだ。あなたの救い主だ」と力強く答えてくださる。
それでも、学校で、職場で、家庭で、孤軍奮闘するときがあります。必死に戦って、戦い続けて、疲れ果ててしまうことがあります。自分の力では、「主よ」と語りかけることすらできないときがある。涙でイエス様の姿が見えなくなってしまうときがある。でも、だから教会があります。どうぞこの礼拝に来て、キリストのからだを再確認して、主が与えてくださった仲間たちと共に祈り、共に苦しみ、共に礼拝できる幸いを味わい続けていただきたいと思います。そこでしか分からない、神の国の前味があるからです。大人も子どもも、豊かな人も貧しい人も、元気な人もそうでない人も、一つの御霊と真理によって礼拝をささげる、その深い喜びがあるからです。お祈りいたします。
祈り
父なる神様。自分のみじめさから目を背けて生きている私たちがいます。罪の中でもがく自分を隠しておきたいという気持ちがあります。でも、ボロボロな自分のままで、あなたの前にひれ伏したいと願います。砕かれた霊をあなたにおささげしたいと願います。この教会をまことの礼拝者たちの集まりとしてください。真理なるイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。