聖書の説教

聖書の説教
入江喜久雄師「教会と共に働いたキリスト」(マルコ16:14-20)

※本日の日曜礼拝では、佐賀バイブルチャーチの入江喜久雄(いりえきくお)先生が、録画を通してご奉仕くださいました。

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ヨハネ6:41-51「引き寄せてくださらなければ」(まなか師)

・・・・・・私たちの間でも、聖書に詳しい人がやっぱりすごいとか、色んな哲学や宗教の難しいことを知っている人がやっぱり偉いとか、そういう感覚があると思います。勉強熱心なことは良いことですし、学び続けることができるのは賜物ですが、「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはでき」ない。イエス様はそう語っておられます。偉い人も、そうでない人も、父が引き寄せてくださらなければ、イエス様のもとに行くことはできない・・・・・・

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第二コリント8:1-15「聖徒の交わり」(使徒信条㉑|宣愛師)

・・・・・・あるクリスチャンの女性が、こんな風に話しておられたことを思い出します。「いつか私がいなくなって、息子が一人になってしまった時、息子と一緒に生きてくれる教会を探しているんです」―――この切実な願いに応えられる教会でありたいと思います。ともに食卓を囲める仲間がいます。いつでも悩みを相談できる仲間たちがいます。学校や仕事に行けない日があれば、平日だって教会に来れます。牧師や伝道師はもちろんのこと、助けが必要な時にはいつでも駆けつけてくれる仲間たちがここにいます。この「聖徒の交わり」がある限り、私たちは生きていけるのです・・・・・

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第一コリント1:10-17「聖なる公同の教会」(使徒信条⑳|宣愛師)

・・・・・・しかしそれにしても、なぜわざわざ「われは教会を信ず」と告白するのでしょうか。「父なる神を信ず」「主イエス・キリストを信ず」「聖霊を信ず」ということなら分かります。しかし、なぜ「教会を信ず」と告白するのでしょうか。それは、教会を信じられない、という現実があるからではないでしょうか。皆さんはいかがでしょうか。教会を信頼できない、教会につまずいた、失望した、という経験はないでしょうか・・・・・

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ガラテヤ5:19-25「聖霊」(使徒信条⑲|宣愛師)

・・・・・・しかし、私たちはふと不安になるかもしれません。自分は悔い改めて、バプテスマを受けて、クリスチャンになったはずだ。でも、正直なところ自分は、聖霊を受けたという感覚を感じたことがない。聖霊を受けて、胸が高鳴るような感覚、生まれ変わったような感覚を感じたことはない。いや、クリスチャンになったばかりの頃は、多少はそういう感覚もあったかもしれないけれど、最近は全くそんな感じはしない。あれっ、自分は本当に聖霊を受けているのだろうか・・・・・

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髙木誠一兄「イエス・キリストと出会う」(第一ペテロ1:8)

※本日の日曜礼拝では、髙木誠一さん(徳丸町キリスト教会員・キリスト教出版社勤務)が説教をしてくださいました。

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ヨハネ6:35-40「一人も失うことなく」(まなか師)

・・・・・・皆さんは、神様がこの世界のすべてのことを決めていると思うでしょうか。もし神様がすべてを決めるなら、人間の自由はあるのでしょうか。これは、教会の中でも外でも、多くの人が疑問に思うことです。「神がすべてを決めるなら、人間に自由はないのではないか?」たしかに、今日私たちが何をするか、何を食べるか、何を着るか、すべてを神様が支配しているとしたら、つまり、私たちがすべて神様の思い通りに動いているとしたら、私たちはまるで操り人形かロボットのようです。さすがにそんなことはない、と皆さんお思いになるでしょう……では、誰が救われて、誰が救われないか。このことについてはどうやって決まるのでしょうか・・・・・・

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ローマ14:1-12「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」(使徒信条⑱|宣愛師)

・・・・・・“白黒思考”という言葉があります。物事を白か黒に分けたがる考え方、という意味だそうです。たとえば、「周りの人を良い人か悪い人かに分けて考えたがる」とか、「解決した問題についても、誰の責任だったかをはっきりさせないと気が済まない」とか、「挨拶されなかっただけで、その人から嫌われていると決めつける」とか、「少しでも失敗しそうな気配があると、挑戦すること自体を諦める」など、“白か黒か”、“0か100か”で考えてしまう……「はっきり白黒つけるのが心地よい」。完璧主義の人や自閉症を持つ人に限らず、多かれ少なかれすべての人が抱えている問題ではないかとも思いました・・・・・

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使徒7:54-60「全能の父なる神の右に座したまえり」(使徒信条⑰|宣愛師)

・・・・・・神であるヤハウェの右の座に、王であるメシアがお座りになる。それは、ふかふかの椅子でゆっくりするためではなく、「敵」に勝利するためだと言うのです。そして、メシアが戦うとなれば、メシアの民も戦うのです……しかし、メシアの「敵」とは誰なのでしょうか。メシアの民、メシアのしもべたちが戦うべき「敵」とは、一体どこにいるのでしょうか。使徒の働き7章には、この「敵」との戦いを戦った一人の人物が登場します。ステパノと呼ばれるイエス様の弟子でした・・・・・

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使徒1:9「天に昇り」(使徒信条⑯|宣愛師)

・・・・・・せっかく目に見えるようになってくださった神様が、また天に帰ってしまわれた。人々が手で触れることのできるイエス様が、また手の届かない場所に行ってしまわれた。マタイの福音書の最後の部分を見てみると、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(28:20)とイエス様は約束してくださいました。それなのに、はるか遠くにある天に帰ってしまわれた。「いつもあなたがたとともにいます」というイエス様のことばは、不安そうな弟子たちを励ますためのリップサービスに過ぎなかったのでしょうか・・・・・

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