マルコ4:21-34「秘められた神の国」

2022年11月13日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』4章21-34節


21 イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。
22 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。
23 聞く耳があるなら、聞きなさい。」

24 また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。
25 持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」

26 またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、
27 夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。
28 地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。
29 実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」

30 またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。
31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、
32 蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

33 イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。
34 たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた。 



「全てのことは主の計画の内に」

 今日は11月13日。2022年も残すところあと7週間となりました。この一年はみなさんにとってどんな一年になった、もしくは、なりそう、でしょうか。私にとってはもちろん、伝道師としての働きが始まったドキドキの一年でしたけれど、それと同時に、みなみ教会のみなさんに出会えてよかったなあ、この場所に導かれてよかったなあ、と感謝いっぱいの一年でもあります。

 では、盛岡みなみ教会にとっては、2022年はどんな一年になったでしょうか。今年の2月に行われた教会総会の資料に、大塚先生が次のような言葉を書いていました。


さて、2022年は盛岡みなみ教会では牧師が交代するという大きな変革があります。もしかしたならば、これからの教会や自分の信仰について不安を感じている方もあるかもしれません

 大塚先生が書いている通り、「これからの教会や自分の信仰について不安を感じている方」は、少なからずいらっしゃった一年間だったと思いますし、今もいらっしゃると思います。牧会者が交代するということは、どんな教会にとっても不安や心配をもたらすものですし、しかも、まだ1年目の若い伝道師が来るとなれば、「これからどうなってしまうんだろう」と不安を感じずにはいられないものです。私自身も、自分の力不足に落ち込んでしまうことがあったりするわけです。

 それに加えて、今の盛岡みなみ教会は、経済的にも苦しい状況ですし、人数が増えているとも言えません。本当なら、この地域に神の国を広げていくために、もっとバリバリ働いていきたいという願いがありますが、実際には小さな教会を守っていくだけで精一杯という実情もある。

 教会だけではありません。私たちそれぞれの人生にも、「このままでいいんだろうか…」という不安があるかもしれません。「本当はもっとしっかりやりたいけれど、なかなか上手く行かない。こんな自分ではダメだ。こんなに弱い自分では…」と落ち込むときもあるかもしれません。

 ただし、さきほどの大塚先生の文章には続きがあります。


しかし……全てのことは主の計画の内にあり、主から出ていることなのです。ですから、まず私たち信徒一人一人が「堅く立って動かされない」ように主のわざに励むことです。

 教会がどんなに大きな不安の中にあったとしても、私たちがどんなに心配してしまうとしても、「全てのことは主の計画の内にあり、主から出ている」。たとえ教会の働きが小さく弱っているように見えたとしても、「主の計画」は確かに進められている。

 では、私たちはどのようにして、「主の計画」を知ることができるのでしょうか? 「主の計画」とはどのような計画なのでしょうか? その答えを教えてくれるのが、今日の聖書箇所に出て来る四つのたとえ話です。


「弟子たちには……解き明かされた」

 さて、たとえ話に進む前に、まずは、そもそも“たとえ”というものはどういうものなのかを、先に確認しておきたいと思います。今日の聖書箇所の最後の部分、33節と34節をお読みします。


33 イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。
34 たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた。

 イエス様は群衆たちに「多くのたとえ」をお語りになりました。先月の説教でもお話ししましたが、イエス様が使った「たとえ」という言葉には“謎”とか“なぞなぞ”という意味もあります。つまり、「たとえ」というのは、〈聞いてもすぐには分からないが、考えれば分かる〉ものなんです。

 イエス様は、そんな“なぞなぞ”を、「彼らの聞く力に応じて」話されました。イエス様が語った“なぞなぞ”は、群衆たちにとって難しすぎて絶対に分からないような“なぞなぞ”ではなく、ちゃんと考えれば分かるように配慮されたものでした。しかも、ちゃんと考えた上で、それでも分からなければ、「よく分かんなかったなあ」と言って、そのまま家に帰ってしまうのではなくて、イエス様のところに行って、イエス様の弟子になって、「イエス様、あのたとえの意味を教えてください」と尋ねれば、ちゃんと教えてもらえたんです。イエス様は、「ご自分の弟子たちには……すべてのことを解き明かされた」からです。

 でも、残念ながら今日の聖書箇所には、その解き明かしの内容については書かれていません。ですから私たちは、「どうしてイエス様の解説が書かれていないんだ!マルコが書き忘れたのか?解説がないと困るよ!」と思ってしまいます。問題集はあるのに、答えが無いんです。

 ただ、マルコが解き明かしを書き残さなかったのは、わざとだったのかもしれません。というのは、もともと福音書という書物は、一人で部屋に引きこもって読むためのものではなく、教会のみんなで一緒に読むものだからです。ですから、もしかするとマルコは、「たとえ話の意味が分からなかったら、教会の仲間たちと一緒に考えればいい、教会の教師たちに聞けばいい」と考えて、その答えを書く必要を感じなかったのかもしれません。

 ですから私たちは、こうして聖書の説教を聞くんです。もちろん、時には説教者の解き明かしが不十分であったり、間違っていることもあるかもしれませんけれど、それでも、説教者の解き明かしに信頼して、期待して、イエス様の“なぞなぞ”の答えを探っていくんです。


「主の計画」 を示す四つの“たとえ”

①明かりのたとえ:神の国は明らかになる

 それでは、一つ目の“なぞなぞ”から挑戦していきましょう。21節から23節をお読みします。


21 イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。
22 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。
23 聞く耳があるなら、聞きなさい。」

 ここでイエス様が語っている「明かり」とは、何を指しているのでしょうか? 色んな可能性が考えられますが、最も可能性が高いのは、「明かり」とは「神の国の奥義」だ、ということです。先月の説教でもお話ししましたが、当時のイエス様の弟子たちは、「神の国は本当に来るのか?」という疑問を持っていました。「イエス様、神の国は一体いつになったら来るのですか? あなたは『神の国が近づいた』と仰るけれど、むしろ、多くの人々はあなたのことを理解しないし、あなたに敵対する人々さえいます。イエス様、本当に神の国は来るのですか?」

 そんな弟子たちに対してイエス様は、「神の国は今は隠されているだけだ」と語られたんです。「やがて必ず、世界中の人々が神の国を理解する日が来るんだ。だから安心していなさい。たしかに、多くの人々はわたしのことばに耳を傾けない。神の国に耳を傾けない。しかし、あなたがたはしっかりと耳を傾けなさい。聞く耳があるなら、神の国の奥義を求めて、熱心に聞きなさい。」

②秤のたとえ:神の国のために投資する

 続いて、二つ目の“なぞなぞ”に挑戦しましょう。24節と25節。


24 また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。
25 持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」

 「秤」というのは、たとえば麦とか米とかを売ったりする時に、重さを測るための道具です。正しい秤を使えば、正確で正直な商売ができるわけですが、秤を使う時にちょっとズルをして、少ない量の麦を売ったりすることもできるわけです。この人にはたくさんあげるけど、この人には少ししかあげない、ということができてしまうわけです。ですから、イエス様がここで言おうとしていることは、「あなたたちは、神の国のために、どれだけたくさんのものを量り与えるのか?」ということです。もし私たちが、神の国のために少ししか与えないなら、神様も私たちに少ししか与えません。しかし、もし私たちが神の国のためにたくさん与えるなら、神様も私たちにたくさん与え、しかも、さらにその上に増し加えてくださるんです。

 だから、「持っている人はさらに与えられ」るというのは、〈神の国を熱心に求める思いを持っている人には、神の国の奥義や祝福がさらに与えられる〉ということでしょう。しかし、「持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまう」。つまり、もし私たちが、「秤」を使って少ししか量り与えず、神の国を熱心に求めようとしないなら、聞く耳を持とうとしないなら、「持っているものまで取り上げられてしまう」。神の国を理解するチャンスを逃してしまう。

③成長のたとえ:神の国は気づかれない

 続いて、三つ目の“なぞなぞ”に進みましょう。26節から29節まで。


26 またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、
27 夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。
28 地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。
29 実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」

 先ほどもお話ししたように、当時のイエス様の弟子たちは、「神の国なんて本当に来るのか?」と心配になっていました。「たしかにイエス様は素晴らしい方だし、いろいろな奇跡を行う力強い方だし、その教えもみことばも力強いけれど、神の国が来ているようには思えない…。」

 そんな弟子たちに対して、イエス様は「あなたがたは知らないだけだ。気づいていないだけだ」とお答えになった。それがこの三つ目の“なぞなぞ”です。神の国の広がりは、人間の目には見えない。人間の頭では分からない。でも、神様は確かに、神の国を育てておられる。「収穫の時」は必ずやって来る。だからあなたがたは種を蒔き続けなさい。そして、あとは神様にゆだねなさい。

④からし種のたとえ:神の国は世界を覆う

 最後のたとえに進みましょう。30節から32節。


30 またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。
31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、
32 蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

 「からし種」というのはおそらく“黒芥子”のことです。“黒芥子”の種の大きさは1ミリ以下で、ゴマなんかより小さいわけですが、成長すると二メートル以上の木になる。そんな「からし種」のように、「神の国」は広がっていくんだ、とイエス様は仰った。「本当に神の国は来るのか?」と疑いたくなってしまうほど、最初はとても小さく思える。まるで何も起こっていないように思える。しかし、最後には「大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどにな」る。

 “鳥たちが巣を作るほど大きな木”というのは、旧約聖書でよく使われるイメージです。たとえばエゼキエル書31章6節では、「小枝には空のあらゆる鳥が巣を作り、大枝の下では野のあらゆる獣が子を産み、その木陰には多くの国々がみな住んだ」と書かれています。エゼキエルがここで語っているのは、神の国ではなくアッシリア帝国についてのイメージなんですが、ポイントは同じです。“鳥たちが巣を作るほど大きな木”というのは、“世界中の国々を覆うほど大きな国”ということなんです。


秘められた神の国

 当時はまだ、イエス様の教えは、ガリラヤという田舎の地方にしか広がっていませんでした。ローマ帝国の片隅にしか広がっていませんでした。ですから弟子たちも、神の国が世界中の国々をおおうほど大きな王国になるなんて、到底信じられなかったはずです。しかし、イエス様だけは知っていました。「秘められた神の国は、必ず明らかにされるのだ」と信じておられました。

 ロドニー・スタークというアメリカの宗教社会学者が、『キリスト教とローマ帝国』という本の中で、「なぜキリスト教はローマ帝国の中で広がっていったのか」ということを論じています。「ガリラヤという片田舎で始まり、最初は数百人程度の信者しかいなかったはずのキリスト教が、なぜ300年後にはローマ帝国で最大の宗教に変わっていったのか」ということを、社会学の視点から分析しているんです。その中でロドニー・スタークが注目したのは、主に次の三つの事実です。


・ローマ帝国では女性差別が常識的だったのに対し、キリスト教会では女性の尊厳が高く評価されたため、多くの女性たちが改宗した。また、ローマ帝国では女児の中絶・子殺しが頻繁に行われていたのに対し、キリスト教会では中絶も子殺しも禁止されていたため、子どもの人数が増えていった

・ローマ帝国に疫病が広がった際、大多数の人々は感染を避けるために都市部から離れて行ったが、キリスト教徒たちは病人の看病のために都市部にとどまり続けた。また、相互扶助の関係が強かったキリスト教会では、災害が起こった際の死傷者が少なかったため、社会的弱者にとって魅力的だった

・ローマ帝国が反乱分子を迫害した際、多くの宗教的・政治的グループが、暴力・ゲリラ戦によって反撃したのに対し、キリスト教徒は自らを虐待するローマ兵たちのために祈りながら死んでいった

ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国:小さなメシア運動が帝国に広がった理由』穐田信子訳、新教出版社、2014年、結論部分から抜粋・要約。

 これこそが、からし種のように小さかったはずのキリスト教が、「大きな枝を張って」成長していった理由でした。イエス様のみことばに堅く立つということは、こういうことです。社会の中から差別を無くしていくこと。病気や災害に苦しむ人々を、自らが犠牲になることを厭わずに助けること。そして、自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ること。このようにして、教会がイエス様の教えに堅く立ち、主のわざに励んでいくとき、神の国は世界中に広がっていくのです。

 最後にもう一度、2022年の盛岡みなみ教会のビジョンについて確認したいと思います。


さて、2022年は盛岡みなみ教会では牧師が交代するという大きな変革があります。もしかしたならば、これからの教会や自分の信仰について不安を感じている方もあるかもしれません。しかし……全てのことは主の計画の内にあり、主から出ていることなのです。ですから、まず私たち信徒一人一人が「堅く立って動かされない」ように主のわざに励むことです。

 たとえ私たちが気づいていないとしても、「主の計画」は進められています。私たちの知らないうちに、「からし種」は確かに成長しています。だから私たちは、これからも種を蒔き続けたいと思います。なかなか実を結ばないように見えるとしても、神様は私たちの働き以上の収穫、私たちの期待以上の収穫を与えてくださるからです。このことを信じて、神様のご計画におゆだねして、今年の残り7週間も、“種を蒔く人”として歩んで行きたいと思います。お祈りをしましょう。


祈り

 私たちの父なる神様。「神の国は本当に来るのだろうか?」「神の国は本当に広がっているのだろうか?」と疑ってしまいたくなるほど、弱くて小さな私たちです。しかし、私たち自身の小ささに目を向けるのではなく、あなたのご計画に目を向けさせてください。あなたのご計画を信じて、イエス様のみことばをしっかりと聞き、虐げられた人々と共に生き、“神の国のからし種”を蒔き続けることができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。