マルコ12:13-17「神に返しなさい」(宣愛師)

2024年2月11日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』12章13-17節


13 さて、彼らはイエスのことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わした。
14 その人たちはやって来てイエスに言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」
15 イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」
16 彼らが持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘ですか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。
17 するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した。



国家と宗教の癒着:いといんせんべいの物語

 先日、まなか先生の実家がある三重県に帰省した際、盛岡の皆さんへのお土産ということで、三重県伊勢市の伝統菓子である「絲印煎餅」を買って参りました。「いといんって何のことでしょうね?イートイン?」なんて冗談を言い合いながら、礼拝後のティータイムに皆でパクパク食べました。後日調べてみたところ、「絲印」というのは、中国から生糸を輸入した際に、受領証書を作るための印鑑のことでした。生糸の印鑑で「絲印」というわけです。たしかに絲印煎餅には、少し大きめの印鑑のようなものが一つ一つに押されていて、なんとも可愛らしくなっています。

 しかし、「絲印」が何かはともかくとして、「絲印煎餅」について調べていたら、もっと重大なことが判明しました。次のような説明が出てきました。「1905年(明治38年)に明治天皇が日露戦争戦勝報告で伊勢神宮に参拝した際、献上品として考案された。」つまり、小さくて丸くて甘いあの絲印煎餅は、大日本帝国が戦争に勝利した感謝を、伊勢神宮の神様にお献げするために考案されたものだったというわけです。

 週報のコラムにも書いた通り、本日2月11日は、日本では「建国記念の日」とされていますが、教会では「信教の自由を守る日」としています。国家神道という宗教によって他の宗教が弾圧され、あらゆる自由が奪われてしまい、誰も戦争を止められなくなってしまったという過去が、この国にはあったからです。明治天皇が伊勢神宮にお参りして、「お陰様で日露戦争に勝利できました」と感謝を表し、絲印煎餅をお献げしたという話は、まさに宗教と国家が結びついて戦争をしていたことの一つの証拠です。このようなことが二度と起こらないように、私たちは「信教の自由を守る日」を大切にしているわけです。

 この“宗教と国家”という問題について語られているのが、まさに今日の聖書箇所です。マルコの福音書を順番に読み進めていたら、たまたまと言いますか、ちょうどいい聖書箇所が巡ってきました。これは単なる偶然ではないと思いつつ、まずは13節と14節をお読みします。


13 さて、彼らはイエスのことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わした。
14 その人たちはやって来てイエスに言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」

 「彼ら」と呼ばれる人々が登場します。「彼ら」というのは、11章27節に登場した、「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」のことです。エルサレムの権力者たちのことです。イエス様を殺したいと考えていたこの人たちでしたが、自分たちがそのまま言い争ってはイエス様に勝てない、イエス様のことばじりをとらえて逮捕することができないと判断して、自分たちの代わりに別の人たちを遣わしました。祭司長や長老たち本人が出てきても、あのイエスという男は警戒するだろうから、別の者たち、パリサイ人やヘロデ党の者たちを送り込んで、イエスを褒めちぎるようなことを言わせて油断させる。そうすれば、イエスも油断して、何か逮捕の決め手となるような、不用意な発言をしてくれるかもしれない。そうすれば、イエスを捕らえて殺すことができる。だから、「私たちはパリサイ人です」とか「どうも、ヘロデ党の者ですが」などとは言わず、身分を隠して、イエス様のファンでもあるかのようなフリをして、近づいて来たわけです。

 「パリサイ人」も、「ヘロデ党」も、どちらもユダヤ人ではあるのですが、実はこの二つのグループはあまり仲が良くなかったと考えられています。「パリサイ人」というのは、ユダヤ人ではない外国人を“汚れた存在”として嫌っていた人々でした。「誇り高き神の民である我々ユダヤ民族は、汚れた外国人とは関わらない!ましてや、我々ユダヤ民族が、汚れた外国人に支配されるなど許せん!」というタイプの人たちでした。ですから、ローマ帝国に税金を納めるなんてことは、パリサイ人たちにとっては屈辱中の屈辱。「そんなのは神への冒涜だ!」というわけです。こういうパリサイ人的な考え方というのは、特に貧しいユダヤ人たちに人気の高い考え方でした。

 それに対し、「ヘロデ党」というのは、ローマ帝国と仲良くやっていこうとする人たちでした。ヘロデという王様は、半分ユダヤ人、半分外国人という感じで、ローマ帝国のおかげでユダヤの王様になれたような人なので、そのヘロデの手下であるヘロデ党の人々もまた、ローマ帝国のご機嫌を取りながら、なんとか生き延びていたわけです。ローマ帝国に税金を収めるということは、彼らにとっては必要不可欠なことでした。「ローマとは上手くやっていかないとね。」こういうヘロデ的な考え方というのは、どちらかと言えば裕福な貴族たちに人気のある考え方でした。

 「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」もしイエス様が、「税金を納めるべきだ」と答えたら、どうなるでしょうか。「カエサルに税金を納めるだって? 皆の者、聞いたか!このイエスという奴は、汚れたローマ帝国に支配されることを認めているらしいぞ!」と言って、イエス様を群衆から孤立させようとするでしょう。群衆たちがイエス様の味方をしなくなれば、イエス様を簡単に捕らえることができます。しかし、もしイエス様が、「税金は納めるべきではない」と言ったら、今度はヘロデ党の人々が、「カエサルに税金を納めないだと!聞いたか、このイエスという奴はローマ帝国への反逆者だ!」と言って、やはりイエス様を捕らえることができるわけです。


物質世界はカエサルの領域、精神世界は神の領域?

 パリサイ人とヘロデ党が結託した、この意地悪で巧妙な質問に対し、イエス様はなんとお答えになったのでしょうか。15節から17節までをお読みします。


15 イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」
16 彼らが持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘ですか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。
17 するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した。

 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」このイエス様の言葉は、聖書の中でも最も有名な言葉の一つです。ところがこの言葉は、最も有名な言葉であると同時に、最も間違って解釈されている言葉でもあるようです。インターネットで調べてみましたら、この言葉の説明として、「物質への興味と精神への興味とは別物だ」というような考え方が紹介されていました。物質世界はカエサルの領域で、精神世界は神様の領域だ、というわけです。

 こうやって二つに分けて考えると、たしかに分かりやすくはなります。物質世界は人間の世界。精神世界は神様の世界。お金のことや政治のことは物質世界のことであって、人間が管理する。心のことや宗教のことは精神世界のことであって、神様が管理する。そう考えれば、“宗教と国家”の問題も解決するように思えるかもしれません。宗教は国家に関与しないし、国家も宗教に関与しない。カエサルはカエサルのことだけ、神様は神様のことだけ。めでたしめでたし、と思うかもしれません。

 しかし、イエス様が言いたかったのは、決してそのようなことではありませんでした。イエス様にとっては、国家と宗教はそれぞれの道を歩めばそれで良い、なんてことはあり得ませんでした。なぜなら、聖書には次のように書かれていたからです。詩篇の24篇1節と2節をお読みします。


24:1 地とそこに満ちているもの
世界とその中に住んでいるもの
それは主のもの。
2 主が 海に地の基を据え
川の上に それを堅く立てられたからだ。

 物質は人間のもので、精神は神様のもの。それは、聖書が語る教えではありません。この世界にあるものは、物質だろうと精神だろうと、肉体だろうと心の中だろうと、すべて神様のものなのです。ですから、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というのは、物質的なものや政治的なものはカエサルに返して、霊的なものや宗教的なものは神様に返しなさい、という意味ではありません。カエサルという政治権力もまた、神様によって立てられた、神様のしもべなのです。

 ですから私たちは、「カエサルのものをカエサルに返す」というところで終わりません。カエサルに返したものが、最終的に神様のもとにお返しされているかどうか、そこまで見定めていくんです。税金をただ納めるだけではなく、その税金が何に使われているのか、神様の御心に適って使われているのか、神様にお返ししていくような方向で用いられているのか。そのことまで見届ける責任があるんです。それが、「神のものは神に返しなさい」ということだからです。


「神に返しなさい」:でも、どうやって?

 有名なジョークがあります。ある時、牧師たちが集まる会議に、イギリス人牧師とアメリカ人牧師とイタリア人牧師が出席した。新聞記者が3人の牧師のところへ行き、まずイギリス人牧師に質問した。「牧師先生、イギリスでは、信者が献金したお金は、どうなるのですか?」「イギリスでは、床に線を一本引いて、お金を空へ向かって投げるのです。線の向こうに落ちたお金は神様のためのもの、線のこちら側に落ちたお金は、私たちのためのものになります。」「そうですか。では、アメリカではどうですか?」「アメリカでは、床に円を描いて、円の中に落ちたお金は神様のためのもの、円の外に落ちたお金は私たちのためのものになります。」「では、イタリアでは、信者が献金したお金は、どうなるのですか?」「私たちイタリア人は、もっと公平ですよ。お金を空に向かって投げて、神様がつかんだ分は神様のもの、残りは私たちのものです。」

 空に向かってお金を投げても、神様には届きません。では、一体どうすれば、私たちが献げる献金を、もしくは私たちが納める税金を、神様にお返しすることができるのでしょうか。その答えが、マタイの福音書25章に書かれています。マタイ25章の34節から40節までをお読みします。


25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

 神のものを、神に返す。それは、「最も小さい者たち」に返す、ということです。「最も小さい者たち」のために何かがなされた時、神様はそれを、“神に返されたもの”として受け取ってくださるのです。カエサルに納められた税金が、最終的に何のために使われていくのか。そこが問題です。もしカエサルが、「最も小さい者たち」のためにそれを用いないのなら、私たちは声を上げなければなりません。「神に返しなさい」と叫ばなければなりません。この世界にあるすべてのものは、神様のものだからです。そしてそれゆえに、この世界にあるすべてのものは、貧しい人々、悩み苦しむ人々、最も小さい人々のものだからです。

 今日のこの日、「信教の自由を守る日」に、私たちは今一度、“宗教と国家”の関係について、イエス様のみことばを通して考え直したいと思います。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」宗教と国家を分離させれば解決する、というような簡単な問題ではありません。国家が何のための国家であるのか、それを監視するのが、宗教の役割です。宗教の役割は、国家と癒着して、自分たちの好きなように国を動かすことではありません。国家が正しく機能しているかどうかをチェックし、必要であれば批判するのです。神のものが神のものとなるためです。

 再来週に予定されている教会総会では、過ぎた一年の決算報告がなされ、新しい一年の予算案が話し合われます。私たちが献げた献金が何のために使われたのか、そして何のために使われていくのか、そのことを確認する大切な機会です。もちろん、「神様にお献げしたものだから、あとはご自由にお使いください」という心がけも大切です。しかし、神様にお献げしたつもりの献金が、実際には神様が望んでいないようなことに使われていたとしたら、あなたが献げた献金は、神様のもとに届いていないのです。国家と同じように、教会もまた、自分たちの歩みが「神のものは神に返しなさい」というイエス様のみことばに沿ったものであるかどうかを自己点検する、そのような機会を持ちたいと思います。

 私たちは、お金を空に向かって投げるようなことはしません。そのように無責任な信仰者にはなりませんし、そのように無責任な国民にもなりません。神のものを神にお返しする。神のものを、神が愛する人々のところにお返しする。そのようにして、私たちそれぞれの人生もまた、全ての領域において、神のものとなっていくのです。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちが国に納めているお金が、教会に献げているお金が、何のために使われているのか。そこまで気にすることもなく、ただ支払うべきものを支払っていればいいというような気持ちで政治にも宗教にも関わることのないように、私たちの態度を改めさせてください。私たちのものは、すべてあなたのものです。この国も、この教会も、すべてはあなたのものであり、貧しく小さな人々のものです。全世界の主よ、すべてをあなたにお返しすることのできる自由を、これからも私たちにお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。