ルカ1:5-13, 18-25「その時が来れば実現する」
2022年12月4日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ルカの福音書』1章5-13節, 18-23節
5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
11 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
12 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
13 御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。……18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
19 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
21 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。
23 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。24 25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。
“信仰”がいちばん大切?
キリスト教では、“信仰”というものを大切にしています。どの宗教でも同じかもしれませんが、キリスト教では特に、“信仰”は大切なものです。「あの人の信仰はすごい」とか、「私の信仰はまだまだだな」とか、とにかく“信仰”というものがクリスチャンにとっては大切で、「どうすればもっと信仰深くなれるんだろう」とか、「信仰を強くするためにはもっと聖書をたくさん読めばいいのかな」とか、私たちはそういうことを考えがちかもしれません。「自分の信仰がもっとしっかりしていれば、神様から祝福してもらえるのかもしれない」とか、「自分の信仰が弱いから、自分はなかなか立派なクリスチャンになれないんだ」と、落ち込んでしまうこともあるかもしれません。
たしかに、“信仰”はとても大切なものです。信仰を持つことは、クリスチャンにとって基本中の基本です。しかし、今日はあえてみなさんに問いかけてみたいと思います。誤解を恐れずに尋ねてみたいと思います。“信仰”というのは、そんなに大切なことなのでしょうか? いや、少し聞き方を変えてみましょう。「あなたの信仰がどれほど強いか」とか、「あなたの信仰がどれほどしっかりしているか」ということは、そんなに重要なことなのでしょうか?
「この私は年寄りですし」
5節から7節をお読みします。
5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。
ザカリヤとエリサベツという老夫婦がいました。ザカリヤとエリサベツは、「二人とも神の前に正しい人」でした。しかし、この二人には「子がいなかった」。今では色々な考え方がありますけれども、少なくとも当時は、子どもがいないということは、非常に悲しいことでした。非常に恥ずかしいことでした。なぜなら、子どもは神様からの一番の祝福だと考えられていたからです。
周りの人々は、色々な噂話をしていたかもしれません。「あの二人は正しい人ぶっているけど、実はこっそり悪いことをしているから、子どもが与えられないんじゃないか」とか、「あの二人は形だけ立派なふりをしているけれど、実は神様への信仰が不十分なんじゃないか」とか、周りの人々は勝手なことを言っていたかもしれません。ザカリヤとエリサベツはそんな噂話を耳にして、傷付いたり、落ち込んだりしていたかもしれません。
そんなとき、ザカリヤに一世一代の大仕事が回ってきました。8節から10節まで。
8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
「主の神殿に入って香をたくことになった」。祭司たちにとって、一生に一度あるかないかの大仕事でした。当時、祭司は全部で24組ありまして、その中の8組目が「アビヤの組」なんですが、24組もあるとなると、神殿での務めが回って来るのが24回に一回。さらに同じ組には何百人もの祭司たちがいましたから、自分にくじが当たることはめったに無いことでした。そんな大仕事が回ってきた。緊張の瞬間です。ザカリヤにとって、人生で最も厳粛な時間だったかもしれません。
そんな緊張の瞬間に、驚くべきことが起きた。11節から13節。
11 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
12 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
13 御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
聖なる場所に突然「主の使い」が現れ、ザカリヤは恐れおののきます。「どうして主の使いが現れたのだろうか。自分が何か間違いを犯したのだろうか。香のたき方が正しくなかったのだろうか。主の使いは何をしに来たのだろうか。私は今から殺されるのだろうか……。」
そんなザカリヤに対して、「恐れることはありません」と語りかけられる。「あなたの願いが聞き入れられた。エリサベツは男の子を産む。その名をヨハネとつけよ。」このヨハネは、後に「バプテスマのヨハネ」と呼ばれる人物です。素晴らしい知らせです。ついに願いが叶う!
ところが、ザカリヤは何と答えたでしょうか。18節。
18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
ザカリヤは天使のことばを信じませんでした。「この私も妻も年寄りです。子どもなんて産まれるはずがないじゃないですか。冗談言わないでくださいよ」と、神様の約束を疑ってしまった。ザカリヤは、「私は」「この私は」「妻も」と言いました。ザカリヤは、自分自身や妻の無力さに目を向けました。人間の無力さに目を向けました。「私には無理です。妻にはもう無理です。」
「それはあなたの感想ですよね?」
しかし、そんなザカリヤに対して、天使は何と答えたか。19節。
19 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
「この私は神の前に立つガブリエルです。」先週の週報のクイズの答え合わせになりますが、「ガブリエル」というのは、「神の人」という意味です。神の人。神の前に立っている人。神様から遣わされ、神様のことばを語る人。それが「ガブリエル」という天使でした。
ザカリヤは、“人間の無力さ”に目を向けました。しかしガブリエルは、「この私は神の前に立つガブリエルです」と宣言して、“神の力”に目を向けさせます。「あなたの能力は関係がない。あなたやあなたの妻がどれだけ年を取っているかは関係がない。この私は、神の約束をあなたに伝えたのだ。それなのにあなたは、神の力を信じず、あなた自身の無力さばかりを気にしている。」
数年前から若者の間で流行っている言葉で、「それはあなたの感想ですよね?」という煽り文句があります。ひろゆきという有名人が、テレビの討論番組の中で、相手の意見に反論するために使った言い回しです。「それはあなたの感想ですよね?」……こんなこと言ったら相手を怒らせてしまうかもしれませんから、あまりオススメはできない表現です。
でも、ガブリエルが言いたいのは、そういうことだったんだと思います。「私には無理ですよ。妻にはもう無理ですよ」と言い続けるザカリヤに対して、「それはあなたの感想ですよね?」とガブリエルは言ったんです。「それはあなたの感想だ。しかし、神の計画は違う。」そして、20節。
20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
「話せなくな」る、という言葉は、「静かになる」とも訳せる言葉です。神様のことばを疑ったザカリヤは、静かになる必要がありました。神様のことばを聞いても、「でも私はこうですから」「でもこういう問題がありますから」とおしゃべりをして、神の約束を信じようとしない。だからザカリヤは、「静かに」ならなければならなかった。
私たちはどうでしょうか。礼拝をし、聖書を開き、神のことばを聞いているはずなのに、自分の言葉ばかりが心の中から出て来て、神様の約束を信じられなくなっていないでしょうか。「でも私はこうですから」「でもこういう問題がありますから」と言って、自分の無力さばかりに目を向けて、神様の力を無視していないでしょうか。
また、「口がきけなくな」る、という言葉は実は、「耳が聞こえなくなる」とも訳せる言葉です。同じルカの福音書の1章62節を見てみると、ザカリヤは口がきけなくなっただけではなく、耳も聞こえなくなっていたことが分かります。
ザカリヤは、人間の言葉を聞きすぎて、神のことばを聞けなくなっていたのかもしれません。周りの人間たちの色々な噂話、「あの夫婦は、実はこっそり罪を犯しているんじゃないか」とか、「どうせあの二人は神に愛されていないんだ」とか、そういう人間たちの言葉を聞きすぎていた。また、ザカリヤ自身の中からも、「やっぱりもう無理だよな」と諦めてしまうような言葉ばかりが出て来てしまっていたのかもしれない。「そうだよな、こんな年寄りには、もう子どもなんて与えられないよな。神様はもう、私たちのことを見捨てたに違いないよなあ。」
「あいつはもうダメだ」という周りの人の言葉。「そうさ、もうダメさ」という自分自身の言葉。そういう言葉を聞きすぎていたザカリヤに、“耳が聞こえなくなる”という試練が与えられた。「人間の言葉ばかりに耳を傾けないで、神のことばをしっかり思い巡らせ」と。
「エリサベツは身ごもった」
21節から23節までをお読みします。
21 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。23 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。
ザカリヤが神殿から出てきました。ユダヤ人たちは不思議に思いながら、そわそわしながら、ザカリヤが出てくるのを待っていました。「おお、やっと出てきたぞ!どうしてこんなに遅くなったんだ? まあいい。とにかく無事に出てきたんだから、最後に祝福の祈りをしてもらおう」と、民はザカリヤが祈り始めるのを待ちました。
ところが、「ザカリヤは彼らに合図をするだけ」でした。本当ならザカリヤは、私たちの礼拝の最後の“祝祷”と同じように、「主があなたを祝福し、あなたを守られますように」というお祈りをするはずでした。しかし、ザカリヤは祈り始めない。「合図」という言葉は、「身振り」とも訳せる言葉です。もしかするとザカリヤは、祝祷をしようとして手を上げたのに、声が出せなかった。民の代表者として神殿で礼拝を献げたのに、不信仰の故に、祝祷さえできなくなってしまった。
私は、伝道師としての自分はどうだろうかと思わされます。伝道師や牧師というのは、教会の代表者として礼拝を献げる立場です。教会の代表者として、聖書をしっかりと読み、神様のことばをみなさんにお伝えする立場です。しかし、そんな自分自身は神のことばを信じているのだろうか。自分こそ、自分の無力さばかりに目を向けたり、人間の言葉を聞きすぎてしまったりして、神の約束をしっかりと聞けていないのではないか。「神様がいるから大丈夫だ」と語りながら、実際は自分自身が信じ切っていないのではないか。そんな自分に、教会の祝福を祈る資格はあるのだろうか。講壇で説教を語る資格はあるのだろうか。
でも、それと同時に思ったのは、たとえ私がどんなに不信仰だったとしても、神様のご計画は変わらないから大丈夫だ、ということです。私がどんなに不信仰だったとしても、私がどんなに神様を疑ったとしても、神様のご計画は変わらないのだなあ、と思わされたんです。24、25節。
24 25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。
ザカリヤが信じなかったにもかかわらず、ザカリヤが神様のことばを疑ったにもかかわらず、「エリサベツは身ごもった。」これが私たちへの慰めです。ガブリエルは、「あなたが神のことばを信じなかったから、やっぱり子どもは産まれない」とは言わなかった。「あなたが信じなかったから、この話はナシになる」とは言わなかった。ザカリヤが信じようと信じまいと、神様の約束は変わらなかった。主のご計画は変わらなかった。
たとえ私たちが不信仰だったとしても、神様のご計画は進められていきます。神様のことばは、「その時が来れば実現する」のです。「あなたが信じれば実現する」ではなく、「その時が来れば実現する」なのです。だから私たちは、“自分の信仰が強いかどうか”を気にしすぎないようにしましょう。“自分がクリスチャンとしてどれだけ立派か”を気にしすぎないようにしましょう。自分自身の欠点や、無力さばかりに目を向けないようにしましょう。
私たちプロテスタント教会では基本的に、アドベントの期間は楽しい雰囲気で、「早くクリスマスが来ないかなあ。楽しみだなあ」とワクワクする時期ですし、私はそれでいいと思っています。ただ、たとえばカトリックとか聖公会とかでは、アドベントというのは“断食と悔い改め”の季節だったらしいんです。少なくとも昔は、お酒を飲まなかったり、食事を減らしたりして、自分の罪を悔い改める季節だった。私は別に、「アドベントだから断食をしましょう!」などとは思いませんけれど、“クリスマスに向けて悔い改めをする”という伝統は、大切にしたいなあと思いました。
では、何を悔い改めるか。それぞれ自分の罪を見つめ直すのも良いでしょう。自分の弱さや、自分の不信仰を反省するのも良いでしょう。しかし、今年のアドベントはその逆のことをしてみてほしいと思います。“自分の罪を見つめ直す”とか、“自分の不信仰を反省する”ということよりも、“自分から目を離して、神様の約束に目を向ける”ということをしてみてほしいと思います。“今の自分がどうだ”ということは一旦脇に置いて、“神様は何を約束してくださったのか”ということを思い巡らす季節にしてみていただきたいと思います。なぜなら、私たちがどんなに不信仰であろうと、神様のことばは、神様の約束は、「その時が来れば実現する」からです。私たちが信じるべきことは、“自分の信仰の強さ”ではなく、“神の計画の確かさ”だからです。お祈りをします。
祈り
父なる神様。私たちは、今よりもっと強い信仰を持ちたいと思います。自分の信仰があまりに貧弱で落ち込んでしまうことがあります。しかし、たとえ私たちが不信仰であろうと、あなたの約束は必ず実現するということを思うと、とっても安心します。神様、周りの人の言葉ではなく、自分自身の言葉でもなく、あなたのみことばに目を向けさせてください。あなたの約束の確かさに目を向けさせてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。