マルコ8:38-9:1「神の国が力をもって」(宣愛師)

2023年6月18日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』8章38節-9章1節


8:38 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」
9:1 またイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」



いつになったら来るの?

 先日、クリスチャンの友人たちとZoomを使って読書会をしていたのですが、一人の友人がその読書会のLINEグループに、「遅れてごめんなさい、もうすぐ行きます」という連絡をくれました。でも、「もうすぐ行きます」と書かれていたのに、5分経っても来ないんです。10分経っても来ないんです。結局、約束の時間を15分くらい過ぎてから、ようやく彼はZoomに入って来ました。「おまえの『もうすぐ』は15分もかかるのか!」と誰かが言って、みんなで笑いました。

 「もうすぐ来る」と言っていたのに、なかなかやって来ない。いつになったら来るんだろうか?本当に来るんだろうか? こういう疑問というのは、イエス様に対する私たちの疑問でもあるかもしれません。改めて本日の聖書箇所をお読みします。マルコの福音書8章38節と9章1節。


8:38 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」
9:1 またイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

 8章38節に書かれているのは、“人の子が来る”つまり“イエス様が来る”ということです。そして、9章1節に書かれているのは、“神の国が来る”ということです。しかも、9章1節の最後には、「ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます」なんてことまで言われている。これはつまり、“当時の弟子たちの生き残りがいる間に、神の国が力をもって到来する”ということです。

 でも、本当に神の国は来たのでしょうか。神の国なんて来る前に、弟子たちはみんな死んでしまったのではないでしょうか。それどころか、二千年経った今でも、いつまで経っても神の国はやって来ないし、イエス様も来てくださらない。相変わらずこの世界は、戦争や貧困に満ちているじゃないか。相変わらずこの世界は人間の罪で満ちているじゃないか。本当に神の国は来るのでしょうか? イエス様が言っていたことは、全て間違いだったのでしょうか?


“人の子が来る”&“神の国が来る”

 この疑問に答えるためにまず確認しておきたいのは、“人の子が来る”とはどういうことか、です。“人の子が来る”とは、どういうことか。そのヒントは、旧約聖書のダニエル書に書かれています。ダニエル書7章13節をお読みします。


7:13 私〔ダニエル〕がまた、夜の幻を見ていると、 
見よ、人の子のような方が  天の雲とともに来られた。 
その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。

 「人の子のような方が 天の雲とともに来られた。」これが、“人の子”すなわち“イエス様が来る”ということです。では、ここで皆さんに質問です。このダニエル書の預言によれば、“人の子が来る”のはどこでしょうか? “人の子”はどこに来るのでしょうか?―――そうです、“人の子”が来るのは、「『年を経た方』のもと」です。“年を経た方”、つまり父なる神様のもとに来る。

 私たちクリスチャンは普通、“人の子が来る”と聞くと、“イエス様がこの地上に来る”という意味だと考えます。しかし、“人の子が来る”というのは、“イエス様がこの地上に来る”のではなくて、“イエス様が父なる神様のもとに来る”ということなんです。つまり、“人の子が来る”というのは、イエス様がこの地上に再び降りて来てくださる“再臨”のことというよりも、この地上で十字架にかかって復活したイエス様が、天に昇って父なる神様のもとに行かれた“昇天”のことなんです。

 さらに、ダニエル書の続きには次のようにも書かれています。ダニエル書7章14節。


7:14 この方〔人の子〕に、主権と栄誉と国が与えられ、 

諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。 
その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

 父なる神様のもとに来た“人の子”に、「主権と栄誉と国が与えられ」た。これはつまり、イエス様が天に昇り、父なる神様のもとに来られたことによって、“神の国”が始まった、ということです。イエス様の十字架と復活、そして昇天によって、神の国はスタートしたんです。

 もしかすると私たちは、「イエス様がもう一度この地上に来てくださる“再臨”の時まで、“神の国”は始まらない」と考えがちかもしれません。「“再臨”はまだ来ないから、“神の国”もまだ来ない」と考えるかもしれません。しかし聖書が語るのは、天に昇られたイエス様はすでに、この世界を治める王様だということです。“人の子が来た”ことによって、“神の国”は始まっているんです。

 このことを踏まえて、もう一度、本日の聖書箇所に耳を傾けてみたいと思います。マルコの福音書8章38節と9章1節。


8:38 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」
9:1 またイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

 “人の子が来る”ということと、“神の国が来る”ということは、別々のことのように聞こえるかもしれませんけれども、ダニエル書によれば、この二つは連続して起こるものです。それゆえイエス様も、この二つの出来事を連続するものとしてお語りになっています。

 少し余談になりますが、聖書にはもともと、「何章何節」などの区切りはありませんでした。いま私たちが使っている聖書では、「8章38節」とか「9章1節」というように分けられていますが、もともとヘブル語やギリシャ語で書かれた聖書には、章や節の区切りはありませんでした。後の時代のクリスチャンが、「ここはこういう風に区切ったほうが分かりやすい」と考えたものです。

 基本的には、こういう区切りは正しいものなので、区切りごとに読むことが大切です。しかし、8章38節と9章1節に関しては、私は区切るべきではないと思います。それは、“人の子が来る”ということと、“神の国が来る”ということは、連続して起こることだからです。イエス様が父なる神様のもとに来たことによって、神の国は始まっている。これが、聖書が語っていることだからです。


“すでに”と“いまだ”

 しかし、ここで注意したいことがあります。それは、「神の国は“すでに”始まっているとしても、“いまだ”完成してはいない」ということです。“すでに”始まっていても、“いまだ”完成してはいない。神の国が始まったのはイエス様が天に昇られたときですが、神の国が完成するのはイエス様がもう一度地上に降りてこられる再臨のときです。私たちは、“すでに”と“いまだ”の狭間に生きているんです。この“すでに”と“いまだ”の両方を覚えておくことが大切です。

 ところが、もしかすると私たちクリスチャンは、“いまだ完成していない”ということばかりを意識しすぎているのかもしれません。それでいつの間にか、「イエス様はぜんぜん来てくれないじゃないか」とか、「神の国なんてどこにも来ないじゃないか」と不安になってしまう。「この二千年間、イエス様は全然来てくれないじゃないか。」「この二千年間、神の国なんてどこにも来ていないじゃないか。」「むしろ、相変わらずこの世界からは戦争も無くならないし、貧困も病気も差別も無くならない。この世界はいつまで経っても同じじゃないか。ちっとも変わらないじゃないか。イエス様が言ってたことは、やっぱり間違いだったんじゃないか?」そんな風にイエス様の御言葉を疑ってしまうかもしれません。

 もしも本当に、イエス様が言っていたことが間違っていたなら、キリスト教を信じる価値はありません。キリスト教を信じるなんて恥ずかしいことです。神の国が来ると約束されていたのに、そんなことは起こらなかったじゃないか。この二千年間、この世界は相変わらず罪にまみれたままじゃないか。もし本当に、イエス様が言っていたことが間違いなのだとしたら、それを信じ続けている私たちは、とっても恥ずかしい人たちだと思います。

 しかし、もしイエス様が言っていたことが正しかったのだとしたら。本当に“神の国”が始まっているのだとしたら、それを信じない人たちのほうがよっぽど恥ずかしいのだと、イエス様は仰った。「だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」

 みなさんは、イエス様の御言葉を疑ってはいないでしょうか。イエス様を信じていることを、心のどこかで「恥ずかしい」と思ってはいないでしょうか。どうすれば私たちは、イエス様の御言葉を、“神の国は必ず来る”という御言葉を、恥ずかしがらずに信じることができるのでしょうか。そのために大切なのは、“いまだ”だけではなく、“すでに”ということを、しっかりと意識することです。“神の国はすでに始まっている”ということを、しっかりと受け止めることです。


“神の国”の広がり

 ハンス・ロスリングという学者が、『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』というベストセラーの中で次のような質問を投げかけています。皆さんもぜひ、答えを考えてみてください。


質問3 世界の人口のうち、極度の貧困にある人の割合は、過去20年〔1993年から2013年〕でどう変わったでしょう?

 A 約2倍になった
 B あまり変わっていない
 C 半分になった

 正解は〈C 半分になった〉です。この世界の貧困率は、少しずつかもしれませんが、明らかに減っているんです。しかし、ハンス・ロスリングによれば、この質問に正解した人は世界中でたった7%だけでした。つまり、本当は貧しい人の割合は減っているにも関わらず、93%もの人々が、貧困率は変わっていないか、むしろ増えていると勘違いをしているんです。もちろん、「“極度の貧困”とはどのくらいの貧困を指すのか」などの批判をすることもできますが、いずれにせよこの世界の貧困の割合が、数十年前の世界に比べて減っていることは事実です。

 では、次の質問はいかがでしょうか。


質問10 世界中の30歳男性は、平均10年間の学校教育を受けています。同じ年の女性は何年間学校教育を受けているでしょう?

 A 9年
 B 6年
 C 3年

 正解は〈A 9年〉です。つまり、男性と女性の平均教育年数の違いは、たった1年だけだということです。昔に比べれば、女性教育の水準は少しずつ良くなっているんです。しかし、この質問についても、世界中のほとんどの人が不正解だったそうです。「女性教育がこんなに進んでいるはずがない、女性教育はもっと遅れているはずだ」と、多くの人が思い込んでいるということです。

 もちろん、これらのデータには不正確な部分もあるでしょう。統計の取り方を変えれば、もっと違った数字が出てくる可能性もあるでしょう。しかし、少なくとも私たちが学ぶべきことは、“この世界には、私たちが思っている以上に良くなっている部分がある”ということです。たしかに、この世界から貧困が無くなったわけではありません。女性差別の問題も残り続けています。悲惨な戦争も無くなりませんし、災害で苦しんでいる人もたくさんいます。

 しかし、だからと言って、この世界が何も変わっていないわけではない。“神の国”がこの世界に来ていないわけではない。貧困の割合が減っていることについても、女性教育が広がっていることについても、キリスト教の影響は決して小さくありません。貧困問題や女性教育のために働いている多くの団体は、キリスト教の精神に基づいています。

 たしかに、キリスト教会は良いことばかりをしてきたわけでもありません。この二千年の歴史の中で、教会は多くの罪を犯しました。先日も学さんとお話ししていて、「キリスト教を信じる前は、宗教なんて信じるからろくなことが起こらないんだと思っていた」という話になりました。十字軍による虐殺もそうです。プロテスタントとカトリックの三十年戦争もそうです。「キリスト教会のせいで、この世界は悪くなっている。」そう言われても仕方がないかもしれません。私たち人間の罪、私たちクリスチャンの罪が、この世界を蝕み続けています。人間の罪がこの世界から無くなる日はまだ来ていません。

 しかし、そんな世界であっても、“神の国”が広がっていることは確かなんです。神の国はこの二千年間、聖書の御言葉を通して、多くの忠実なクリスチャンたちを通して、この世界に広がり続けています。イエス様の御言葉はたしかに、この世界を変え続けています。「キリスト教なんて嘘つきだ」と批判してくる人たちはいるかもしれません。「聖書なんて信じる価値がない」と言ってくる人たちがいるかもしれません。しかし、この二千年間、キリスト教の影響によってこの世界が少しずつ良くなっているという事実は、誰にも否定することができないはずです。

 イエス様は今も確かに、この世界を支配しておられます。父なる神様のもとに昇られたイエス・キリストは、この二千年の間ずっと、この世界に神の国をもたらし続けておられます。クリスチャンとして生きることは、恥ずかしいことではありません。イエス様の弟子として歩むことは、私たちにとって一番の誇りです。この誇りをしっかりと握って、キリストの弟子としてしっかりと胸を張って、今週もそれぞれの場所へ遣わされてまいりましょう。すでに始まっている神の国を広げるために、少しでもお手伝いをさせていただきましょう。お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。あなたのもとに昇られた“人の子”、イエス・キリストは、今もこの世界を治めておられます。私たち人間の罪によって、悲しみや苦しみは無くなりませんけれど、しかしそのような世界であっても、確かにあなたの御国が広げられていることを、心から感謝します。どうか、私たちが神の国を信じる者として、ますます喜びと誇りを抱いて歩むことができますように。今週もあなたの弟子として、それぞれの職場で、学校で、家庭で、あなたの御国を広げるために、少しでもお手伝いをすることができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。