マルコ9:38-41「水を飲ませてくれる人」(宣愛師)

2023年8月6日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』9章38-41節


38 ヨハネがイエスに言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」
39 しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。
40 わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。
41 まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。



「わたしたちの味方です」

 まずは、38節をお読みします。


38 ヨハネがイエスに言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」

 ここでイエス様に話しかけているのはヨハネという弟子ですが、彼にはあだ名がありました。ヨハネにはヤコブという兄弟がいまして、この兄弟二人にイエス様がつけたあだ名です。どんなあだ名だったか、覚えているでしょうか。マルコの福音書3章17節に書かれていた彼らのあだ名は、「ボアネルゲ、すなわち、雷の子」です。

 どうして彼らは、「雷の子」などという、おっかないあだ名をつけられてしまったのか。それはおそらく、このヤコブとヨハネという兄弟が、正義感が強くて、怒りっぽくて、すぐにカッとなってしまう性格の持ち主だったからだと思われます。「イエス様、聞いてくださいよ。あなたのお名前を勝手に使って、勝手に悪霊を追い出している奴がいたんですよ。しかも、私たちについて来なかったんです。だから、やめさせようとしたんです。勝手にイエス様のお名前を使うなって言ったんです。」この時もきっと、彼なりの正義感を発揮して、怒りを露わにしたのでしょう。

 こういうヨハネの発言を聞くと、「ああ、こわいこわい。困った人だ」と言いたくなります。しかし、もしかすると私たちの中にも、ヨハネに似ているようなところがあるかもしれません。彼のように、あからさまに怒ることは少ないでしょう。しかし、特に真面目なクリスチャンであればあるほど、自分とは違う考え方を持っている人とか、自分たちとは違うグループの人たちに対して、アレルギーのような感覚を持ってしまうことがある。敵対意識を持ってしまう。「自分たちの仲間」と「自分たちの仲間じゃない人」との間に、すぐに“線”を引こうとしてしまう。そういう危うい心が、私たちの中にも無いとは言えないと思います。

 そんな私たちに対して、イエス様は何と仰ったか。39節と40節。


39 しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。
40 わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。

 弟子たちは、「おれたちについて来ない奴らは、みんなおれたちの敵だ。少なくとも味方ではない」と考えていました。しかしイエス様は、「別にいいじゃないか」と仰った。「敵じゃないなら味方ってことでいいじゃないか」と仰ったんです。「簡単に敵を作ってしまってはダメだ」と。

 先月は、盛岡大学短期大学部の学生さんたちが、たくさんこの教会に来てくださいましたけれども、その中の一人の学生がこんな質問をしてくれました。「同じキリスト教会なのに、どうして色々なグループがあるんですか?」

 そこで私は、イエス様が教会を作られてから今に至るまで、教会がどのような歴史を歩んできたのかを、できるだけ手短にお話ししてみました。最初はユダヤという国に一つだけ存在していた教会が、世界中の国々へと広がっていったこと。そして、それらの教会が西側と東側に分裂してしまったこと。さらに、西側だけで見てみても、カトリックからプロテスタントが分離したり、プロテスタントの中でも色々と分かれていったりして、今となっては色々なグループが存在している。そんな話を、私なりに分かりやすくお伝えしてみました。

 ただ、その日はあまり時間もなかったので、込み入った事情についてはお話しできませんでした。どうして西側と東側の教会に分裂してしまったのか。どうしてカトリックからプロテスタントが分離してしまったのか。どうしてプロテスタントの中でも色々なグループが存在しているのか。

 もちろん、神学的な事情、地理的な事情、政治的な事情など、私自身も把握しきれていない様々な事情があるわけです。しかし、この二千年間、教会が分裂し続けてきたその最も大きな要因の一つには、「党派心」とも呼ぶべき、醜い感情があったことは間違いないでしょう。「その人が私たちについて来なかった。だからあの人たちは私たちの敵だ」という排他的な党派心が、真面目で熱心なクリスチャンたちの中にこそ存在していた。

 色々な教会のグループがあること自体は、悪いことではないかもしれません。色々な種類のグループがあったほうが、結果から見れば、色々な種類の働きがしやすくなってよかった、とも言えます。あるグループは伝道をがんばり、あるグループは社会奉仕をがんばり、あるグループは政治活動をがんばる。それぞれの教会が持ち味を活かして働く、そのこと自体は良いことです。

 しかし、やはり私たちが気をつけていなければならないのは、「私たち」という明確なグループを作ってしまい、その中にいる人は仲間で、外にいる人は敵、という風に決めつけてしまうことです。教会を壊すのは、大抵の場合「党派心」です。簡単に敵を作り、線を引いてしまいやすい、そういう心に、私たちは気をつけていたい。そして、「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です」と言われたイエス様の寛容な御言葉を、いつも心に留めておきたい。

 こういう教会の複雑な事情について、もしくは私たち自身が持っている醜い感情について、あの学生さんにお話しせずに済んだことは、今思えば良かったかもしれません。でも、いつかはあの学生さんも、教会の歴史の負の側面を知ることになるかもしれませんし、むしろそのことを知った上で、そのように愚かな教会をそれでも導き続けてくださり、良い働きをさせてくださっているイエス様の素晴らしさに気づいてほしい、とも思います。また私たちも、自分自身の中に渦巻いている党派心、「雷の子」のような危うい正義感にいつも注意し続け、仲間としてともに働いている様々な教会のグループ一つ一つの存在に感謝と尊敬の心を忘れないでいたいと思います。


「水を飲ませてくれる人」

 続けて、41節をお読みします。


41 まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。

 「すぐに敵を作るな。実は味方は多いんだ」ということを、イエス様は徹底的に教え込もうとされます。「もしあなたがたクリスチャンに、一杯の水でも飲ませてくれる人がいれば、その人自身がクリスチャンではなかったとしても、わたしたちの味方なのだ。キリストの味方なのだ。」

 私たちはもしかすると、この世界には「イエス様を信じる人」と「イエス様を信じない人」の二種類しかいないと思いがちかもしれません。そして、「信じる人たちは私たちの仲間だけど、信じない人たちは仲間ではない」と言って"線"を引いてしまったり、さらには、「信じる人は天国行きだけれども、信じない人たちは地獄行き」などと、簡単に決めつけてしまうかもしれません。

 しかし、本当はこの世界には、「信じる」でも「信じない」でもない、もっと曖昧な人々がいるわけです。イエス様を救い主として信じているわけではないけれど、イエス様の教えに共感して、協力してくれる人たちがいる。教会に通っているわけではないけれど、教会の働きに理解を示して助けてくれる人たちがいる。たとえ他の宗教を信じている人たちだとしても、キリスト教に尊敬の意を示して一緒に働いてくれる、そんな人たちもいる。

 そういう人たちについて、「でもあの人たちはイエス様を信じているわけじゃないから、結局は地獄に行ってしまう」とか、「どんなに教会に協力してくれても、イエス様を信じて洗礼を受けない限りは天国には行けない」などとは、簡単には決められないんです。なぜならイエス様ご自身が、「一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません」と仰ったからです。

 「信じる人」は天国行きで、「信じない人」は地獄行き。だから一人でも多くの人を「信じる人」にさせ、天国に行けるようにしてあげなければならない。こういうキリスト教理解というのは、確かにとても分かりやすいものです。でも、分かりやすいからと言って、正しいとは限りません。もちろん聖書の中には、「信じる者は救われるが、信じない者は滅びる」というような、分かりやすいみことばもあります。イエス様もパウロも、そういう言い方をすることがあります。しかし、聖書全体を注意深く読んでいくと、必ずしも「信じる者は救われるが、信じない者は滅びる」ということだけでは説明し切れない、もっと複雑な現実があることについても語られています。「天国か地獄か」という単純な語り方だけでは、聖書の教えは説明し切れないんです。

 そもそも、私たちがイエス様を信じてクリスチャンになったのは、イエス様を信じる私たちだけが幸せになり、私たちだけが天国に行き、私たちだけが祝福を受けるようになるため、ではないはずです。むしろ、私たちがイエス様を信じてクリスチャンとなり、神様の子どもとさせていただいたのは、私たちとともに生きる周りの人々をも祝福していくためだったはずです。あのアブラハムに対する神様の約束も、そのような約束であったはずです。創世記12章1節から3節(旧約17頁)をお読みします。


12:1  主はアブラム〔アブラハム〕に言われた。 
「あなたは、あなたの土地、
あなたの親族、あなたの父の家を離れて、 
わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 
あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。 
あなたは祝福となりなさい。
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、
あなたを呪う者をのろう。 
地のすべての部族は、
あなたによって祝福される。」

 神様がアブラム、後のアブラハムをお選びになったのは、アブラハムだけが祝福を受けたり、アブラハムだけが幸せになるためではありませんでした。「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」これがアブラハムに対する約束でした。選ばれた者たちだけが祝福されるのではなく、選ばれた者たちを祝福する者たちも祝福される。聖書によれば、イエス様を信じる私たちは、このアブラハムの子孫です。私たちはこの約束を受け継いでいるんです。

 盛岡みなみ教会の周りにも、たくさんの協力者たちがいます。私たちのような小さな教会のために、「水を飲ませてくれる人」がたくさんおられます。キリスト教信仰に理解を示してくれて、日曜日には快く教会に送り出してくれる、もしくは一緒に教会に来てくれる、そういう家族もいるでしょう。もしくは、家族の限りあるお金の中から、教会のための献金を出すことを許してくれる家族もいるでしょう。子ども食堂をしていた頃にも、そして今もなお、教会の小さな働きを支援してくれる大勢の人たちがいることを、私たちは決して忘れません。「一杯の水」どころではない、もっと多くの祝福をもって、私たちのような小さな教会を助けてくれる人たちがいる。

 もちろん私たちは、そのような方々にもぜひイエス様を信じてほしいなあと思いますし、教会のメンバーに加わってくださったらどんなに幸いかと思います。イエス様とともに歩む人生、教会という神の家族とともに生きる人生は、もちろん楽しいことばかりではないけれど、何よりも価値ある生き方だということを、ぜひ知っていただきたいと思います。

 しかし、もしそのような方々が、最終的にクリスチャンになるわけではなかったとしても、私たちは決して、「ああ、結局あの人たちはイエス様を信じなかった。全ては無駄だった」などと言って落ち込む必要はない。むしろ、その人たちが私たちを助けてくれた、この小さな教会を支えてくれた、その一つ一つの配慮について、「決して報いを失うことがありません」とイエス様が仰った。「神様が必ず報いてくださる」と仰った。それゆえ私たちは、「ああ、結局あの人たちはイエス様を信じなかった」と落ち込むのではなくて、「ああ、あの人は私たちを助けてくださったから、イエス様はあの人にも豊かな報いを与えてくださるはずだ」と感謝することができる。

 このあと皆さんとご一緒に歌う讃美歌は、『神ともにいまして』という曲です。「また会う日まで  また会う日まで  神のまもり  汝が身を離れざれ」と歌うこの曲は、クリスチャンの送別会などでもよく歌われる讃美歌です。クリスチャンがクリスチャンに向かって、「また会う日まで、神様の守りがあなたから離れませんように」と歌うわけです。

 しかし私は、この曲は、クリスチャンのためだけではなく、クリスチャンではない方々のためにも歌うことのできる曲だと思います。教会の中で、クリスチャン同士で、お互いを祝福し合う。それももちろん大切です。でも、それだけではなく、クリスチャンではない方々のためにも、いやむしろ、クリスチャンではない方々のためにこそ、神の祝福があるようにと祈る。そういう歌い方ができる讃美歌でもあるはずだと思います。そうやって祝福を歌うために、神様はアブラハムを選び、アブラハムの子孫たちを選び、そして私たち盛岡みなみ教会を選んでくださったからです。

 改めて、マルコの福音書9章41節をお読みします。


41 まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。

 私たちの教会は小さく、人数も少ない。しかし、そんな私たちには、多くの味方が与えられています。必要なものを分けてくださる方々がおられ、ともに働いてくださる方々がおられます。私たちは小さな教会ですけれど、小さな教会だからこそ、一杯の水だとしても、数百円の献金だとしても、心から感謝して受け取ることができる。あまり大きな教会になりすぎないほうが良いかもしれません。大きな教会になったとしても、一杯の水を感謝する心を忘れてしまってはいけない。

 盛岡みなみ教会のために、様々に助けてくださっている方々がいます。私たちの味方は、私たちが思っている以上にたくさんいる。この方々の存在を喜び、その助けに感謝し、彼ら彼女らの祝福を祈る。そのようにして、この町を、この国を、この世界を、神の祝福で満たし続ける。そのために今週も歩みを進める、私たち盛岡みなみ教会でありたいと願います。お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。私たちはつい、自分たちとは違う考え方に対して、早々と敵対してしまうような、雷のような心を持ってしまいがちかもしれません。「あの人たちは聖書を正しく理解していない」「あの人たちは私たちの考えに従わない」などと言い、教会を分裂に導いてしまうような、そのような危うい心があるかもしれません。もしくは、「イエス様を信じる人」と「信じない人」という単純な線引きをしてしまい、「信じない人たちは神様からの報いをいただけるはずがない」と決めつけてしまう、そんな思いがあるかもしれません。どうか神様、私たちが選ばれたのは、周りの人々を祝福するためだということを、今一度思い起こさせてください。そして、「信じる人たち」のためだけでなく、むしろ「信じない人たち」のためにこそ、感謝と祝福の祈りをささげることができるように、私たちの心を正しい場所にお導きください。この小さな教会のために、あなたが多くの助け手を与えてくださっていることを、心から感謝いたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。