マルコ9:42-50「小さい者を守る地獄」(宣愛師)

2023年8月13日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』9章42-50節


42 また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。
43 もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。
45 もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。
47 もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。
48 ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
49 人はみな、火によって塩気をつけられます。
50 塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」



「“地獄”で脅すなんて統一教会と同じ」

 先週の礼拝説教は、少しチャレンジングな内容だったかもしれません。「“イエス様を信じる人は天国行きで、信じない人は地獄行きだ”みたいなキリスト教理解はたしかに分かりやすいけど、それだけでは聖書の教えは説明しきれない。」そんなお話をいたしました。信じる人はみんな天国で、信じない人はみんな地獄。いや、キリスト教はそんなに単純なものではないのだ、と。

 水曜チャペルの中で、先週の説教についての感想をいただきました。「そうだよね。“信じないと地獄に落ちるぞ”って言って脅すなんて、やってることが統一教会と同じだよね」とコメントしてくださいました。私も心から納得して、「本当にそのとおりですよね」とお答えしました。

 歴史を振り返ってみると、残念ながらキリスト教会は、「統一教会と同じ」と言われてしまいかねないようなことを行なって来ました。「キリスト教を信じない奴は全員地獄行きだ」「教会の教えに従わない奴は全員地獄行きだ」「教会への献金をちゃんとしない奴は地獄行きだ」などと、「地獄行き」という脅し文句を使って、権力や経済力を増し加えてきた、そんな恥ずべき歴史があります。だから私は、「信じないと地獄に落ちるぞ」などと言って脅すようなことはしたくない。

 もちろん私は、“地獄”の存在そのものを否定しているわけではありませんし、「すべての人が天国に行ける」という楽観的なことも考えていません。“地獄”は存在しますし、聖書にもそのように書いてあります。今日の聖書箇所でも、イエス様ははっきりと“地獄のさばき”についてお語りになっています。しかし大切なのは、“聖書は何のために地獄を語っているのか?”ということです。“イエス様は何のために地獄をお語りになったのか?”ということです。このことを理解するなら、キリスト教が教えていることは、「統一教会と同じ」ではなくなるはずです。


「小さい者たち」と弟子たち

 まず、42節をお読みします。


42 また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。

 イエス様は、「小さい者たち」と呼ばれる人々のことを愛されました。「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずせるような奴は、殺されてしまったほうがマシだ」と、かなり過激なことを仰るほどに、この人々を大切にしておられました。しかし、イエス様がこれほどまでに大切にされた、「わたしを信じるこの小さい者たち」とは、一体だれのことなのでしょうか? どのような人たちが「小さい者たち」なのでしょうか?

 「わたしを信じる」と書いてありますから、「小さい者たち」というのは、イエス様の弟子たちのことなのかもしれません。弟子たちは貧しくて身分の低い人たちでしたから、「小さい者たち」と呼ばれてもおかしくはありません。しかし、9章33節と34節を見てみると、弟子たちは「だれが一番偉いか論じ合っていた」と書かれています。「おれが一番偉い!」「いや、おれのほうが偉い!」と、互いに互いを格付けし合っている。そんな弟子たちのことを、イエス様が「わたしを信じるこの小さい者たち」と呼ぶようには思えません。

 むしろイエス様は、争ってばかりの弟子たちのところに、一人の子どもを連れて来られたと、36節に書かれています。そしてイエス様は、「だれが一番偉いかと論じ合っているあなたたちよりも、この小さな子どものほうが偉いのだ」と仰った。「わたしを信じるこの小さい者たち」というのは、小さな子どもたちのことかもしれません。その逆に弟子たちは、「小さい者」になるどころか、「小さい者」を見下して、小さな子どもたちを無視して、「自分こそが偉い」と主張していた。

 このような弟子たちの高慢さというのは、38節でも明らかになりました。ヨハネという弟子がイエス様に言います。「イエス様、聞いてください。あなたの名前を勝手に使って悪霊を追い出している奴がいたので、やめさせようとしたんです。だって、そいつがおれたちについて来なかったからです。」ヨハネはおそらく、心の中でこんなことを考えていたのでしょう。「おれたちはイエス様の直弟子なんだから、おれたちこそが一番偉いんだ。おれたちについて来ない奴らはダメな奴らだ。けしからん奴らだ。」

 そういう弟子たちの高慢な態度を、イエス様は正そうとされます。「おまえたちについて来なくても、わたしの名前を信じているならいいじゃないか。」弟子たちはここでも、「小さい者たち」になることができませんでした。それどころか彼らは、自分たちの仲間にならない人々を差別した。「小さい者たち」になるどころか、「小さい者たち」を見下したり、邪魔したりするような者たちになってしまっていた。「自分たちこそが偉いのだ。自分たちは大いなる存在なのだ」と高慢になり、自分たちに従わない人をバカにする。そんな弟子たちに対して語られたのが、本日のみことばです。弟子たちは、「小さい者たち」ではなく、むしろ「小さい者たちの一人をつまずかせる者」なのです。


小さい者を守る地獄

 イエス様の厳しいみことばは続きます。43節から47節。


43 もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。
45 もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。
47 もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。

 先日私は、子どもたちのためのキャンプで川遊びをしていた時に、左目の上をアブに刺されてしまい、二日間ほど左目が開けられなくなりました。片目でしばらく生活をしました。けれども、それでもいつも通り罪を犯しました。片目しか使えなくても、いつも通りしっかり罪を犯しました。イエス様が仰ったのは、ただ単に「眼球を捨てれば罪を犯さなくなる」ということではないはずです。「眼球を捨てれば良い」という単純な話ではない。「小さい者たちを見下すような高慢な目は捨ててしまえ」ということです。「小さい者たちをつまずかせるような手や足は切り捨ててしまえ」ということです。旧約聖書の箴言6章16節から19節をお読みします。


6:16  主の憎むものが六つある。 
いや、主ご自身が忌み嫌うものが七つある。
17  高ぶる目、偽りの舌、
咎なき者の血を流す手、
18 邪悪な計画をめぐらす心、 
悪へと急ぎ走る足、
19  まやかしを吹聴する偽りの証人、 
兄弟の間に争いを引き起こす者。

 弟子たちには「高ぶる目」がありました。そして、この「高ぶる目」のせいで、「争いを引き起こす者」となっていました。「弟子たちのこの罪をなんとかしなければならない」と、イエス様は危機感さえ覚えたことでしょう。厳しい言葉を語り続けなければなりませんでした。優しいみことばだけでは、温かい語りかけだけでは、根深い罪を消し去ることはできない。

 48節から50節をお読みします。


48 ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
49 人はみな、火によって塩気をつけられます。
50 塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」

 弟子たちは「塩気」を失っていました。「塩」は平和の象徴です。旧約聖書には、「塩の契約」と呼ばれる契約が登場します。「塩の契約」によって互いに盟約を結び、“互いに平和に過ごす”のです。しかし弟子たちには、“互いに平和に過ごす”ということができなかったんです。妬みや争いや差別ばかり。「高ぶる目」を持ち、「争いを引き起こ」し、「咎なき者」を差別し、「小さい者たち」を苦しめる。

 「“地獄”で脅すなんてカルト宗教と同じだ」と言われます。しかし、イエス様が”地獄”を語ったのは、人々を怖がらせてマインドコントロールをするためではありませんでした。人々を脅してお金を巻き上げるためでもありませんでした。イエス様が”地獄”をお語りになった目的はただ一つです。「互いに平和に過ごしなさい。」これが、イエス様のただ一つの目的でした。

 「ゲヘナ」のさばきは、「小さい者たち」を脅すためにではなく、むしろ彼らを守るために語られます。「小さい者たち」が平和に過ごせる場所を守るために、“地獄”のさばきが語られるのです。イエス様は、立場の弱い人や、心が不安定な人に対して、“地獄”を語って脅すようなことはなさいません。イエス様はむしろ、「小さい者たち」の平和を脅かすような人々に対して、”地獄”をお語りになりました。高慢になって争いばかりを作っているような人々を戒めるために、イエス様は“地獄”をお語りになったんです。

 教会には、「小さい者たち」が集います。病気のことや、経済的なことや、人間関係のことなど、さまざまな悩みを抱えた人々が、イエス様に助けを求めて、平安を求めて、この教会に集まっています。学校にも職場にも、心休まる居場所がない。家の中でさえ、安心して休むことができない。でも、教会には自分の居場所がある。ここでならゆっくり休むことができる。安心して息ができる。本当の自分でいられる。そういう方々も、教会には集まって来ます。

 そのような方々に対して、「イエス様を信じないと地獄に落ちますよ」などとは、私は語りたくないし、聖書もそのようなことは語っていない。もちろん、「小さい者たち」だからと言って、“罪を全く犯さない純粋無垢な人々”ではありませんから、時にははっきりと罪を指摘しなければなりませんし、罪の悔い改めを迫ることもあるでしょう。しかし、”地獄”という言葉によって、「小さい者たち」を脅すようなことはしません。教会は、「小さい者たち」が安心して休める場所でなければなりません。「平和に過ごしなさい」とイエス様が言われた通り、「小さい者たち」が平和に過ごせる場所でなければならない。

 ですから、もしもだれかが、この教会の平和を壊そうとするなら、「小さな者たち」の安息の場を壊そうとするなら、私はそのような人々に対して“地獄”を語ります。語りたくはないけれど、語らなければならないんです。傷つき疲れた人々が、イエス様のもとに集まって安心して休むことのできるこの教会の平和を、だれかが壊そうと計らうなら、私はそのような人に対して、“地獄”のさばきを語ります。「小さい者たち」を守るためなら、「小さい者たち」の居場所を守るためなら、私ははっきりと“地獄”を語り、消えない炎のさばきを語り、脅すことさえするでしょう。

 もしも私自身が、この教会の平和を壊すようなことがあるならば、「小さい者たち」の居場所を奪い、彼らをますます苦しめてしまうようなことがあるならば、私は、私自身に対しても、“地獄”のさばきを語らなければなりません。私自身が「塩気」を失い、教会を守る者としての責任を放棄し、「小さい者たち」をつまずかせ、彼らに対するイエス様の祝福を奪うようなことがあれば、この私もまた、“地獄”に落ちなければならない。

 教会には限りません。この世界の至るところにも、平和を壊し続ける人々がいます。そのような人々に対しても、私たちは“地獄”を語らなければなりません。争いを生み続ける人々に対して、「悔い改めなければ、神があなたたちを地獄に落とす」と、はっきりと語ります。自分たちのプライドや利益を維持するために、止められるはずの戦争を止めようとしない人々に、私たちは“地獄”の恐怖を語ります。「ゲヘナ」の恐ろしさを語ります。

 また、“地獄”という言葉を使って、弱い人々を操ろうとする宗教的指導者たちに対しても、私たちは“地獄”を語らなければならないでしょう。「偽りの舌」を持つ「まやかしを吹聴する偽りの証人」たちが、“地獄”を悪用し続けています。“地獄”を使って「小さな者たち」を脅かす者たちこそ、“地獄”に落とされなければなりません。

 最後にもう一度申し上げます。“地獄”とは、「小さい者たち」を脅すための道具ではありません。“地獄”とは、「小さい者たち」に安心を与え続けるための、神様の恵みのわざです。“地獄”があるからこそ、強く高慢な人々は滅ぼされ、弱く小さな人々は守られるのです。“地獄”が「小さい者たち」を守るのです。この“地獄”によって、その炎によって、神様は教会を安息の場としてきよめ、世界に平和をもたらす“地の塩”としての使命を果たさせてくださるのです。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。“地獄”という言葉は、どれほど間違った使い方をされ、悪用されていることでしょうか。“地獄”という言葉によって、どれほど多くの人々が苦しめられ、搾取されていることでしょうか。どうか神様、あなたがお造りになった“地獄”を、あるべきところに取り戻してください。偽りの“地獄”に怯えて苦しんでいる「小さい者たち」を救い出し、彼らを苦しめる者たちを“地獄”の警告によって悔い改めさせてください。どうか私たち盛岡みなみ教会が、“地獄”を正しく恐れ、“地獄”の炎によって守られ、きよく平和な教会であり続けることができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。