マルコ11:20-25「恨んでいることがあるなら」(宣愛師)

2023年12月31日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』11章20-25節


20 さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。
21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」
22 イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。
23 まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。
24 ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
25 また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」



「除夜の鐘」 を求めて

 大晦日といえば、日本各地のお寺に鳴り響く「除夜の鐘」が思い浮かびます。時間帯はお寺によって違うようですが、「除夜」という言葉自体が「大晦日の夜」という意味らしいので、やはり大晦日の夜に行うお寺が多いのかもしれません。鐘を突く回数もお寺によって異なりますが、「108回」というのが一般的なようです。「なぜ108回なのか」という点についても、いろいろな説があるようですが、「人間が持つ108個の煩悩を清めるため」というのが最も一般的だそうです。

 キリスト教会では「除夜の鐘」は突きませんし、鐘の音を聞くことによって煩悩が清められるとは考えません。でも、「一年の最後に心を清めたい」「綺麗な心で新しい年を迎えたい」という思いは、私たちも同じだと思います。新年を迎えようとしている私たちの心は、きよめられているでしょうか。それとも、煩悩が、欲望が、罪の汚れが、心の奥底にこびりついているでしょうか。大晦日を迎えた今、「除夜の鐘」が目指している心の清めを、私たちも求めたいと思います。

 本日は久々にマルコの福音書をお開きしています。11章20節と21節をお読みします。


20 さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。
21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」

 ペテロは「思い出し」ました。皆さんも思い出したでしょうか。イエス様がのろわれた「いちじくの木」のこと、そして、この「いちじくの木」が、堕落したエルサレムを象徴しているということを、思い出したでしょうか。何一つとして実を結んでいなかったエルサレムの神殿は、ついにのろわれて、根っこから枯れてしまうのです。少し戻って、15節から17節までをお読みします。


15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

 エルサレム神殿は、「祈りの家」となるはずの場所でした。この神殿に神様が住んでおられる。私たち人間は、神殿に行けば神様にお会いできる。神殿まで行けなくても、お祈りをする時にはエルサレムの方向を向いてお祈りをする。神殿は、神様が私たちのために用意してくださった「祈りの家」でした。ところが、その神殿が「強盗の巣」になってしまった。権力者たちの罪によって、見事に堕落してしまった。もはや、そこに神はおられない。もはや、この神殿は滅びるしかない。

 「それでは、あの神殿が滅びてしまうなら、私たちはどこに行けば、神様にお会いできるのだろうか? あの神殿が滅びてしまうなら、私たちはどこに向かって祈ればいいのだろうか?」これが弟子たちにとっての大問題でした。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。あなたが『強盗の巣』と呼ばれたあのエルサレム神殿は、今にも滅びようとしています。でも、だとすれば、私たちはどうすればいいのでしょうか? 私たちはもう、神様にお会いできなくなるのでしょうか? 私たちはもう二度と、神様に祈ることができないのでしょうか?」

 そんな弟子たちの不安に、イエス様は答えます。神を信じて生きる者にとって最も恐るべき事態に直面している弟子たちのために、イエス様は「安心していいんだよ」と、平安に至る答えを与えてくださったんです。22節から24節までをお読みします。


22 イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。
23 まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。
24 ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

 「神を信じなさい。」ギリシャ語から直訳すれば、「神の信仰を持ちなさい」という言葉です。神の信仰を持ちなさい。神殿信仰でもなく、エルサレム信仰でもなく、「神信仰」を持ちなさい。たとえエルサレム神殿が無くなっても、神はあなたたちの祈りを聞いてくださる。あなたたちが神を信じるなら、神はあなたがたの祈りをちゃんと聞いてくださる。だから心配するな。神様はあなたたちを見捨てたりはしない。信じて祈りなさい。「そうすれば、そのとおりになります。」

 ところが、私たちは信じているでしょうか。「そうすれば、そのとおりになります」という、イエス様の約束を信じているでしょうか。ある説教者は、「このみことばを本気で信じているクリスチャンは一人もいないのではないか」と心配しています。私たちは、本気で信じていないのではないでしょうか。むしろ私たちは、「信じてお祈りしたのに、そのとおりにならないこともある」と言って、イエス様のみことばを疑っているのではないでしょうか。イエス様は「何でも……そのとおりになります」と言ったけれど、やっぱり「何でも」叶えられるわけじゃないでしょう、と。


なぜ祈りが聞かれないのか?

 ここで、みなさんにぜひ注意していただきたいことがあります。それは、イエス様は確かに、「何でも」と仰ったけれども、それは「あなたがたが祈り求めるものは何でも」だということです。「あなたがたが」というのがポイントなんです。どんな「あなたがた」なのか、ということです。ヨハネの福音書では、次のように語られています。ヨハネの福音書の15章7節。


15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

 イエス様は確かに、「何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」と言いました。しかし、その前にとても重要な条件が語られています。それは、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」という条件です。祈りが聞かれる「あなたがた」というのは、イエス様のみことばにとどまっている「あなたがた」なんです。

 考えてみてください。いつも人に意地悪をして、人を傷つけてばかりいるような人たちの、自分勝手でわがままな祈りを、神様が「何でも」かなえてあげるとしたら、この世界はどうなってしまうでしょうか。「神様、今からあのお店に強盗に入ります。どうか、なるべく値段の高い物を素早く盗めますように」と、だれかが本気で祈ったとしても、神様はかなえることができません。もしくは、「神様、あの人が今日、私に酷いことをしました。あの人が交通事故に遭いますように」と誰かが祈ったとしても、神様はその祈りをかなえません。なぜなら、そのような祈りはすべて、神様のみこころとはかけ離れているからです。

 しかし、神様のみことばをよく聞いて、神様のみことばによく従って、神様と思いが一つになっているような人がいるとすれば、その人の祈りは必ず叶えられます。なぜなら、その人が祈ることはすべて、神様が喜ばれることだからです。さらに三つのみことばをご紹介したいと思います。


何事でも神のみこころにしたがって願うなら、

神は聞いてくださるということ、
これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

(ヨハネの手紙第一 5章14節)

求めても得られないのは、
自分の快楽のために使おうと、
悪い動機で求めるからです。

(ヤコブの手紙 4章2-3節)

正しい人の願いは、ただ良いこと。
悪しき者の望みは、激しい怒り。

(箴言 11章23節)

 私たちの祈りがなぜ聞かれないのか。どうして、私たちの必死の願いがかなえられないのか。それは、私たちの心が、神様の心と一つになっていないからです。正しく祈り求めていると思いながら、実際には「自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求める」という現実があるからです。

 私は時々、不思議に思うことがあります。なぜ、こんなにも多くの人が祈っているのに、日本のキリスト教宣教は進まないのだろうか。多くの牧師たち、多くの信徒たちが、「一人でも多くの人が教会に集いますように」と祈っているのに、それでも日本にクリスチャンが増えないのはなぜか。どうして神様は、私たちの祈りを聞いてくださらないのかと、不思議に思うんです。

 もちろん、日本にクリスチャンが増えない理由は、色々あると思います。日本文化がキリスト教に馴染まないということもあるでしょう。オウム真理教や旧統一教会のようなカルト宗教の影響もあるでしょう。しかし、根本的な問題は、教会の外にではなく、むしろ教会の中にあるのではないかと思うんです。その根本的な問題とは、私たちクリスチャンの間に、そして、(本当はこんなことを言いたくはないのですが)牧師や宣教師たちの間に、争いや妬みがあるということです。

 私たちは、「一人でも多くの人が救われるように」と祈ります。この祈り自体は正しい祈りだと思います。しかし、クリスチャンたちの間に、牧師たちや宣教師たちの間に、妬みや争いがあるならば、「一人でも多くの人が救われるように」という祈りには、「あの教会のあの人を見返してやりたい」という思いが入り込みかねません。「私のやり方に注文をつけてきたあの牧師に対し、私のやり方が正しかったことを証明してやりたい」という思いが入り込むこともあるでしょう。「偉そうで気に食わないあの人の教会よりも、私の教会のほうが祝福されているということを思い知らせてやりたい」という思いもあり得ます。もしそうであれば、「一人でも多くの人が救われるように」という祈りでさえ、恨みを晴らすための自分勝手な祈りに変わってしまいます。

 みなさんは、「そんなはずはない。神様に仕える牧師たちが、そんなしょうもないことを考えているはずはない」と思うかもしれません。でも、残念なことに、本当に残念なことに、そういうつまらない争いがあるんです。争いや妬みがあるんです。私自身も、今回の説教を準備する中で、そのような思いが自分の中にあることに気づきました。人を嫌いになることは少ない私ですが、それでも小さなことで「恨み」を持ってしまう自分に気づきます。私の人間関係はクリスチャンが多いので、私が苦手な人も大抵の場合クリスチャンです。本当に恥ずかしいことですが、「盛岡みなみ教会の人数が増えて大きくなって、苦手なあの人の教会よりも大きくなれば……」という思いが、自分の中にないとは必ずしも言い切れないんです。


「恨んでいることがあるなら」

 だからイエス様は、「祈り」について教えている今日の聖書箇所の中で、「赦し」についても教えてくださったのではないかと思うんです。マルコの福音書11章に戻って、25節をお読みします。


25 また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」

 人々の救いを心から祈り求めているはずのクリスチャンたちの間に、実は「恨み」がある。醜い争いがある。だから神様は、私たちの祈りをかなえたくても、かなえることができないんです。どこかの教会の人数が増えて大きくなれば、「ほら、私たちのやり方が正しいんだ」と高慢になって、他の教会を見下してしまうからです。だれかの祈りを聞いて、どこかの教会が大きくなれば、牧師たちや宣教師たちの妬みがヒートアップするからです。そのような私たちのしょうもない罪をご存知だからこそ、イエス様は、「祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい」と命じられたのではないでしょうか。私たちが心の奥底に抱える「恨み」によって、祈りが妨げられているからです。祈りが争いの道具にされてしまっているからです。

 「一人でも多くの人が救われるように」という祈りには、「ほかの教会よりも大きくなりたい」という不純な動機以外にも、様々な「悪い動機」が入り込む可能性があります。牧師であれば、「教会に人が増えれば、もらえる謝儀が増えるかもしれない」と考えるかもしれませんし、牧師でなくても、「教会に人が増えれば、自分がささげる献金を減らせるかもしれない」と考えるかもしれません。もしくは、「一人でも多くの人が救われるように」と祈っていながら、実際には、「教会に知らない人が増えたら嫌だから、今のままが良いなあ」と思うこともあるかもしれません。

 また私たちは、「家族や親族が救われるように」と祈りますけれども、実際には家族の救いそのものを願っているというよりも、「家族が救われないと、自分の信仰が不十分だと思われてしまう」みたいな、自分本位の思いが紛れ込むこともあるかもしれません。もしくは、自分がキリスト教を信じようとした時に、家族に反対されたことをどこかで根に持っていて、「クリスチャンとしての自分を家族に認めてほしい、そして、あのとき私の決断に反対したことをちょっと後悔してほしい」みたいな、不純な思いが紛れ込んでしまうこともあるかもしれません。

 美しい言葉で祈ることは簡単です。正しい言葉で祈ることも簡単です。しかし、美しい心で祈ること、正しい心で祈ること、神様のみこころにかなった祈りをささげることは、本当に難しいと思います。神様と心を一つにして祈るということは、本当に難しい。私たちの心の奥底には、不純な思いがいくらでもあります。不純な心のままで、綺麗な祈りをささげることができてしまう。

 しかし、もしも私たちが、不純な心を捨てて、恨みつらみを捨てて、きよい心をもって祈りをささげるようになるなら、「あなたがたが祈り求めるものは何でも……そのとおりになります。」「あなたがたが祈り求めるものは何でも」と約束されているんです。皆さんは、このイエス様のみことばを、そのまま信じますか? もしイエス様のこの約束が真実なのだとすれば、人への恨みを握りしめたままで、聞かれもしない祈りをささげ続けるのは、なんと空しいことでしょう!こんなに素晴らしい約束を、無駄にしたくはありません。恨みを捨てましょう。罪を赦していただきましょう。祈りが聞かれるようになるためです。心から人のために祈れるようになるためです。

 もうすぐ2024年が始まります。新しい年を迎える前に、心の奥底にある「恨み」を手放したいと思います。もちろん、人を赦すことは簡単ではありません。恨みや怒りがこびりついた私たちの心は、一晩中鐘の音を聞いたくらいでは、きよめることはできません。ですから、赦せる心をいただけるように、神様に祈り求めましょう。明日ではなく今日、祈りましょう。「また来年、気が向いた時に」ではなく、今年が終わる前に、人を赦せる柔らかな心を祈り求めましょう。

 たしかに神様には、汚れた心の祈りは届きません。罪人の祈りは自分勝手な祈りだからです。しかし、その祈りが悔い改めの祈りなのであれば、赦すことと赦されることを求める祈りなのであれば、私たちの心がどんなに汚れていたとしても、神様は必ずその祈りを聞いてくださいます。喜んで聞いてくださいます。「神様、あの人を赦したいです。神様、この恨みを手放したいです。きよい心で祈れるようになりたいです。」そのような祈りであれば、神様には聞かない理由がありません。神様と心が一つになる道のりは、赦しを求める祈りから始まっていきます。

 そのようにして、ここにいる私たちが、すべての恨みを捨てて、あらゆる「悪い動機」を捨てて、きよい心で祈ることができるようになるならば、2024年の盛岡みなみ教会は、どれほどの祝福を味わうことでしょうか。そして、もし日本のクリスチャンたちが、争う心を捨てて、真心からこの国の救いのために祈り始めたなら、すべての教会の良き成長のために祈り始めたなら、日本における福音宣教の働きは、どれだけ力強く進むことでしょうか。恨みにも妬みにも汚されない、まっすぐな祈り。この祈りを、祈り求めましょう。きよい祈りを求める祈りは、神様の御心に適った祈りであるはずです。「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。教会の成長を願う時さえ、私たちのうちには不純な思いが潜んでいることに気が付きました。祈りを叶えたくても、叶えることのできないあなたのもどかしさをも知りました。どうか、私たちの心をきよめてください。人を恨み、人と争う思いを取り去ってください。人を赦すことのできないこの頑なな心を、赦すことのできる柔らかい心に変えてください。2024年は、あなたに祈りが届く一年になりますように。盛岡みなみ教会の祈りが、心から人々の救いを願う祈りとなっていきますように。この礼拝堂が、あなたの御心と全く一つになっている、「祈りの家」となっていきますように。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。