マルコ12:35-44「やもめを見ている神」(宣愛師)
2024年3月17日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』12章35-44節
35 イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。
36 ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。
『主は、私の主に言われた。
「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」』
37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、
39 会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。
40 また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」41 それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
42 そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
43 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
44 皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
「律法学者たちに気をつけなさい」
マルコの福音書を順番に読み進めて、12章の終わりまでやって来ました。35節から37節の部分については、マタイの福音書の並行箇所ではありましたが、今年の1月に秋山先生が説教をしてくださったので、本日は38節から44節の部分に集中したいと思います。まずは38節から40節をお読みします。
38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、
39 会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。
40 また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」
当時のユダヤ人たちの間では、「こんにちは」と挨拶をするのにも、順番が決まっていました。聖書に詳しい人と詳しくない人が顔を合わせたら、詳しくない方の人が先に挨拶をしなければならない、というような決まりがあったんです。また、ユダヤ人が聖書の勉強をする「会堂(シナゴーグ)」という場所でも、座る席は“偉い人順”だと決まっていました。一番良い席は学者たちが座るものだと決まっていたんです。一番前の席が一番偉い人の席なので、盛岡みなみ教会で言えば、いつも一番前に座っている小学生のMくんが一番偉いということになります。
「長い衣」をひらひらさせて広場を歩けば、「先生こんにちは、ご機嫌麗しゅうございますか」と挨拶をされる。会堂や宴会に行けば、「これはこれは、どうぞこちらの席にお座りください」と丁重に扱われる。これが律法学者たちの願いであり、欲望であり、生きがいでした。
40節ではさらに二つのこと、二つの罪について、イエス様が指摘しています。「やもめたちの家を食い尽く」す罪と、「見栄を張って長く祈」る罪です。この二つの罪は、別々のものとして理解することもできますが、一つにつながったものとして理解することもできます。
「やもめたちの家を食い尽く」すとは、一体どういうことでしょうか。具体的にどのようなことだったのかは不明です。ただし、「律法学者」というのが、今で言う弁護士とか司法書士のような職業でもあったことは分かっています。ですから、たとえば夫を亡くしてしまったやもめが財産を失い、先祖代々の土地を売らなければならくなった時に、あまり法律に詳しくないやもめを騙して、普通よりも安い金額で土地を売らせたりしていたのかもしれません。「律法にはこう書いてありますから」と嘘をついて、弱い立場にあるやもめたちを騙す。もしくは、「あなたはこれだけの財産を持っているから、これくらいの献金をささげないと律法違反ですよ」みたいな嘘をついて、たくさんの献金をささげさせる、そんなこともあったかもしれません。いずれにせよ、律法学者たちはやもめたちに嘘をつき、彼女たちを騙して、苦しめたわけです。
そして律法学者たちは、その嘘を隠すという目的で、「見栄を張って長く祈」るんです。「見栄を張って」と訳されているギリシャ語は、「自分を弁護して」という意味の言葉です。「いくらなんでも、この話はおかしいんじゃないかな?」とやもめに疑われても、それらしい祈りを祈ることによって、自分を弁護する。「これこそが神に喜ばれることだ」という雰囲気の祈りを長々として、素直なやもめたちを騙すんです。まるで統一教会のような、悪どい商売です。
「こういう人たちは、より厳しい罰を受けます」とイエス様は言われました。「より厳しい」というみことばを、私たちは案外見落としがちかもしれません。私たちクリスチャンは、「イエス様を信じた人は全員天国で、イエス様を信じなかった人は全員地獄」という単純な理解をしがちです。しかし、もし天国と地獄がそんなに単純なもので、「イエス様を信じなかった人はどんな人であっても全員が永遠に地獄で苦しむ」とすれば、イエス様は「より厳しい罰」という表現を使われたでしょうか。律法学者たちに騙されたやもめたちも、騙した律法学者たちも、イエス様を信じなければどちらも同じように罰を受け、同じように地獄に落ちるなんてことは、聖書の教えではないはずです。学校や職場で悪質ないじめを続ける人々も、いじめられたことによって死ぬほど苦しい思いをした人々も、イエス様を信じない限りはどちらも同じように地獄に落ちるなんていう教えは、あまりにも単純であり、聖書全体に根ざした教えとは言えません。やもめを虐げるような律法学者たちには、「より厳しい罰」が下るのです。
ヤコブの手紙にも次のように書かれています。ヤコブの手紙3章1-2節をお読みします。
3:1 私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。
2 私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。
みなさんにはぜひ、牧師や伝道師たちのために祈っていただきたいと思います。牧師や伝道師が偉いからではありません。牧師や伝道師が優れた人間だから、教会の皆から祈られるに値する、ということではありません。むしろその逆です。「私たち教師は、より厳しいさばきを受け」るからです。「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すから」祈っていただきたいのです。
「ことばで過ちを犯」すということは、“失言をして人を傷つけてしまう”とか、“咄嗟に嘘をついてしまう”とか、そういうことだけではないでしょう。聖書を教える教師たちが、「ことばで過ちを犯」すということは、神様のことばであるかのようなことばを使って人々を騙し、人々を騙すためにそれらしい祈りを長々とする、ということでもあるはずです。「ことば」は、すべてを狂わせます。だから、牧師や伝道師のために祈ってください。牧師や伝道師たちが、弱い人々を虐げるためにではなく、弱い人々を救うために、「ことば」を語り続けることができるように、祈ってください。私たち教師が、「より厳しいさばき」を受けることがないように、「より厳しい罰」を受けることがないように、祈ってください。
「一人の貧しいやもめが来て」
続いて、41節から44節までをお読みします。
41 それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
42 そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
43 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
44 皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
この「やもめ」はなぜ貧しかったのでしょうか。詳しい理由は何も書かれていませんが、もしかすれば、「律法学者たち」に騙されてしまったのかもしれません。このやもめだって、夫がいた頃は、もっと自由な暮らしができていたのでしょう。「長い衣」とまではいかないとしても、それなりに立派な身なりをして、それなりに十分な金額の献金を携えて、堂々と神殿に来ていたのかもしれません。たくさんの献金を投げ入れていた「金持ちたち」の中に、以前はこのやもめも数えられていたのかもしれない。
しかし、離婚だったのか死別だったのかは定かではありませんが、夫を失い、立派な服も失い、「レプタ銅貨二枚」だけを持って、神殿にやって来たんです。レプタは当時の一日の給料の128分の1でした。いまの日本円に置き換えて、一日の給料が8000円だとすれば、レプタはその128分の1なので、62.5円。レプタ二枚で125円。コンビニのおにぎりが買えるか買えないかくらいのお金です。逆に言えば、おにぎりくらいなら買えたかもしれないお金です。お腹を空かせた彼女にとってはかけがえのない二レプタ。それを献金箱に入れてしまった。
エルサレム神殿の献金箱には、ラッパのような形の口が付いていたそうです。ジャラジャラとお金を入れれば、ジャラジャラと音がよく響く。その献金箱の近くには祭司たちが立っていて、「あなたはいくらの献金を、何のために捧げるのか」と質問して来るのだそうです。「あなたはいくらの献金を、何のために捧げるのか。」「レプタ二枚を、神様への感謝のために」と、彼女は答える。周りの金持ちたちの献金によって、ラッパが大きな音を響かせる中で、「レプタ二枚」と答えることは、恥ずかしいことだったでしょう。惨めだったでしょう。祭司たちも心の中で「たったの125円か。それが何の役に立つのだ。何の足しにもならない」と馬鹿にしたかもしれません。
しかし、私たちが注目すべきことは、たった二枚のレプタしか献げられないとしても、それでもこのやもめが、礼拝をするために神殿に来た、ということだと思います。「たったの二レプタか」と鼻で笑われても、恥ずかしくても、それでもそれを神様に献げるために、神殿まで来たんです。
考えてみてください。金持ちの律法学者たちがもし、このやもめのように財産の全てを失い、「長い衣」も失ってしまったとすれば、彼らはそれでも神殿に来たでしょうか。「ああ、あの人は昔は偉そうにしていた律法学者だったけれども、今ではただの物乞いになった」とひそひそ話をされる。プライドの高い律法学者たちにとっては、屈辱的なことです。もしもそんなことになったら、たぶん、彼らはもう神殿に来れないだろうと思います。「長い衣」を着ていない自分なんて、恥ずかしくて広場を歩けない。「上席」に案内されない自分なんて、悔しくて外を歩けない。
「長い衣」を来て歩き回ることによって、自分の価値を認められようとする、そんなプライドに「気をつけなさい」と、イエス様は言われました。「長い衣」を着て、人々からの称賛を求めようとする。それは、裸の自分が神様に愛されていることを否定することです。「上席」に案内されることによって満足を得ようとする。それは、自分の家に帰って一人ぽつんと座り込む自分が、実は神様に愛されているという事実を無視することです。
私たちにとっての「長い衣」とは何でしょうか。「これを失ってしまったら、恥ずかしくて外を歩けない」と思ってしまうようなものはないでしょうか。「これを失ってしまったら、恥ずかしくて教会になんて行けない」と思ってしまうようなものはないでしょうか。
たとえば、髪型はどうでしょうか。日曜日の朝、鏡の前に立ってセットします。でも、なかなかうまくいかない。ちょっと変な感じになってしまう。がんばって直してみる。それは別に悪いことではないでしょう。でも、「今日は髪型がうまく決まらなくて恥ずかしいから、教会に行くのは止めておこう」と思うなら、その人にとっては、髪型が「長い衣」なんです。神様を礼拝することよりも、ちゃんとした見た目の自分が人前に出ることのほうが大切なんです。
奉仕はどうでしょうか。教会で奉仕をすることは素晴らしいことです。受付の奉仕があり、司式の奉仕があり、奏楽の奉仕があり、会計の奉仕があり、そのほか数え切れないほど多くの奉仕があります。しかし、何かの事情によって、それまで行うことのできた奉仕ができなくなってしまった。教会の役に立つことができなくなってしまった。「こんな役立たずの自分なんて、恥ずかしくて教会に行けない」と思うなら、その人にとっては、奉仕が「長い衣」となっているんです。
献金はどうでしょうか。毎月しっかりと献金をささげていたのに、様々な事情があって、献金額を減らすことになった。ほかの人たちはきちんと献金をささげているのに、そしてその献金によって教会の活動を支えているのに、自分にはそれができない。これっぽっちしか献げられない。申し訳なくて、恥ずかしくて教会に行けない。そう思ってしまうなら、その人にとっては献金が「長い衣」なんです。
そのほかにも、私たちにとって「長い衣」となりかねないもの、これを失ってしまったら恥ずかしくて教会に行けない、と思ってしまうようなものがたくさんあるでしょう。人によっては、「正しく清い生活をしていること」がそれかもしれません。「仕事を立派に頑張っていること」がそれかもしれません。「幸せな家庭を作っていること」がそれかもしれません。学生であれば、「良い成績を取り続けていること」「部活で活躍していること」「友だちと上手くやっていること」などがプライドとなることもあるでしょう。それが私たちの「生きる手立て」だとさえ言えるかもしれません。そうやって生き延びているからです。自分のいのちの価値をそこに見出しているからです。「これを失ってしまったら、自分という人間を認めてくれる人などどこにもいなくなる」と恐れているからです。
でも、「長い衣」がなくても、誇れるものなんて何一つなくても、「このやもめが一番だ」と、イエス様が言ってくださるんです。「すべてを失ったこの人こそ、わたしが愛する人なのだ」と、皮肉ではなく、嫌味ではなく、真面目に言ってくださるんです。「長い衣」なんて、イエス様の目には目障りなだけです。
やもめはどこへ行ったのか?
私がこの聖書箇所を読んで気になることは、全財産をささげてしまったこのやもめは、その後どうなったのか、ということです。おにぎり代さえもささげてしまって、これからどうやって生きていくつもりだったのでしょうか。物乞いをして生き延びようとしたのでしょうか。それとも、生きることそのものを諦めてしまうつもりだったのでしょうか。
昨日の夕方、まなか先生とAちゃんが教会で、子どもクラスの幼稚科さんの準備をしていました。教会にある聖書紙芝居の中に、ちょうど「二枚のレプタ」という紙芝居もありました。その内容を聞いてみましたら、最後はやはり、「帰っていく女の人の後ろ姿を、イエスさまがやさしく見送っておられます」という終わり方をするんですね。たしかに、そうだったのかもしれません。全財産をささげて神殿を立ち去ろうとするやもめを、イエス様は遠くから眺めておられて、「あのやもめは偉かったね」と弟子たちに話しておられた。そうかもしれない。
しかし私には、このやもめがそのまま神殿を立ち去っていったとは思えないんです。紙芝居のセリフには「あのやもめ」と書かれていましたけれども、イエス様は一度も、「あのやもめ」とは言っていないからです。「あそこにいるやもめ」とは言わない。「この貧しいやもめ」とか、「この人」と言うんです。ギリシャ語でもそうなっています。イエス様はまるで、献金を終えて立ち去ろうとしたやもめに声をかけて、彼女をご自分のすぐ隣に呼び寄せられたかのようにして、「みんな、よく聞きなさい。この人はね」と言うんです。「この人は、長い衣なんて着ていないんだ。お金も全然持っていないんだ。でもね、それでもこの人は、礼拝をしに来たんだよ」と、全力で褒めてくださったんです。
もちろん、「この人」とか「このやもめ」という表現が使われているというだけで、イエス様がやもめをご自分の近くに招かれたとは断定できません。「この人」というのは、単に「今わたしが話題にしているこの人」というだけのことかもしれません。私よりも紙芝居のほうが正しいのかもしれません。しかし、福音書を読んでいると、イエス様と一緒に旅をしていたのは、男性の弟子たちだけではなかったことが分かります。多くの女性たちも、イエス様と一緒に旅をしていた(マルコ15:40-41)。その旅の仲間に、このやもめを招かない理由があったでしょうか。「あのやもめは偉かったね」と言って、イエス様がそのまま放っておくでしょうか。
イエス様が十字架にかかられ、復活をされた後、エルサレムの町からキリスト教会が始まっていきます。新約聖書を読み進めていくと、その初代教会では、多くのやもめたちが養われていたということがはっきり分かります(使徒6:1など)。教会がやもめたちの生活を支えていたんです。そのやもめたちの中に、この日エルサレム神殿でイエス様が「この人」と呼ばれたやもめもいたと考えることは、むしろ自然なことではないかと思うんです。
二レプタをささげるために、彼女は神殿に向かいました。そして彼女は、イエス様に出会った。正確に言えば、イエス様に見つけていただいた。もしも彼女が、「これしか献げられないなんて情けないから、恥ずかしいから、やっぱり神殿に行くのはやめよう」と考えていたら、イエス様に見つけてもらうことはできなかったんです。
人に会うことがどんなに恥ずかしい時にも、神様にお会いすることを止めてはいけません。髪型が決まらなくてもいいんです。奉仕ができなくてもいい。献金がささげられなくたっていい。「長い衣」を失った時こそ、恥ずかしがることなく教会に行きましょう。途中参加でもいいから、Zoomでもいいから、礼拝をしましょう。イエス様のやさしいまなざしが注がれているからです。教会とは、そのままのあなたが、着飾る余裕さえなくなってしまったあなたが、イエス様に見つけていただく場所です。人前に出ることさえ恥ずかしく、どれだけ惨めだとしても、だからこそ深く深く愛されている私たちの居場所に、イエス様が招いてくださるのです。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。これがなければ人様の前に出られない、これを失ってしまったら教会にも行けない、そんなふうに自分を着飾っているものがあります。そうやって、見栄を張って生きてきました。バカにされるのが怖かったからです。見下されるのが辛かったからです。しかしあなたの前では、そのようなプライドこそがさばきの対象であることを知り、恐れつつ身を低くいたします。どうか主よ、私たちの罪の衣を剥ぎ取ってください。人に見せびらかすための誇りを奪い去ってください。そして主よ、「長い衣なんて、みんなが着ているからつまらないよ」と言ってください。「なにも持っていないおまえだからこそ、わたしの目には尊いのだ」と言ってください。あなたのみことばだけが、私たちのプライドを溶かし、見下されることへの恐怖を取り除き、ありのままの自分を愛することのできる人生を与えてくださるからです。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。